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本多忠勝「開運一心入魂手ぬぐい」限定販売本日(6月14日)の、静岡新聞と中日新聞に、本多忠勝関係の記事が掲載されました。家康と共に浜松へ移り住み、17年間を過ごした本多忠勝の屋敷があった場所と伝わる、浜松市中区田町の「遠江分器稲荷神社」の氏子の皆さんが、「開運一心入魂手ぬぐい」を制作したとのこと。限定500枚販売とのことですので、売り切れる前に買ってきました。稲荷神社のコメントは、2023年のNHK大河ドラマが「どうする家康」に決定しており、家康ゆかりの地の人気はさら
(24)神田山砦の眺望と、天龍院武田軍が二俣城を攻撃した時、天竜川流域を見渡せる神田山砦を押さえました。鳥羽山砦、神田山砦、亀井戸城、社山城、匂坂城。信玄はこれら天竜川東海岸の全ての拠点を押さえ、これらを狼煙で繋ぐことにより、家康の天竜川渡河を阻止し、二俣城援軍を防ぎました。戦国時代、味方の城が籠城している時、援軍を出せない主君は屈辱を受けることになり、遠江国衆の信頼を失い、徳川離れに繋がります。信玄はそれを狙っていました。赤→二俣城、白→鳥羽山砦、緑→神田山砦、
本日(19日20時~)放送のNHKBS「英雄たちの選択」現在書いている「一言坂の戦い」と、ドンピシャの内容です。番組の放送内容によっては全面的に書き変えるかも。私は変わり身の早い男です(笑)。今年は武田信玄生誕500年。ドキドキして放送を待ちます。「武田信玄幻の西上作戦〜対信長最終決戦〜」-英雄たちの選択今年は、戦国最強といわれた武田信玄の生誕500年。信玄が、死の直前、生涯最大の敵・織田信長・徳川家康と激突すべく西へ侵攻した「幻の西上作戦」を徹底分析する。戦国最強の
「一言坂の戦い」手作り試作品作成2023年の、年初に自費出版を目指している「一言坂の戦い」イメージを確認するために、試作品を作りました。文章は、ほぼ書き終えていますが、これからが大変です。挿絵や地図など、まだまだ作業が続きます。四六版、350ページ位、ハードカバーを考えています。
(23)社山城の眺望匂坂城を押さえた武田軍は、そのまま北上して二俣への道沿いにある社山城に警備の兵を配します。社山城は磐田原台地の西端にある標高136m(比高90m)に築かれた山城です。城からは天竜川の流れを眼下に臨み、遠くは遠州灘への河口付近まで見渡す事が出来ます。城を守っていた徳川方の兵は、匂坂城から北上する武田軍の全容を見ることができ、戦わずして退去したと考えられます。信玄は、社山城この眺望を重視し、ここに物見の兵を配置します。信玄が抑えた拠点を地図上に書き込むと、
(22)匂坂城と匂坂兄弟元亀3年10月13日、夜が明けて木原を発った信玄以下武田軍は、見付の台から一言坂を下り、坂下の辻を右折して亀井戸城に向います。そして、途中にある匂坂城を接収します。匂坂城は、天竜川を天然の堀とする平城であり、磐田原台地の手前の平地にある居館と、詰城が磐田原台地上にありました。城の規模からして守りは極めて弱く、武田軍を相手にして戦ったとは思えず、早めに浜松城等に避難して空城になっていたと考えます。信玄は、一門衆の穴山梅雪に匂坂城を守らせ、池田の渡船を
(21)見付坂に掲げられた落首(狂歌)「家康に過ぎたる物は二つある、唐の頭に本多平八」「甲陽軍艦」の口述者である、武田四天王のひとり高坂弾正は、1578年に没しています。高坂は、間違いなく信玄の遠州侵攻に同行し、側近として「木原畷の戦い」、「一言坂の戦い」、「三方ケ原の戦い」に参加しています。なにかと間違いが指摘されている甲陽軍艦ですが、この部分に関しては本人が信玄本陣に詰めて見聞きしたことを、忠実に記録していると判断し、「一言坂の戦い」執筆における底本としていま
(20)万能の戦い(挑燈野)一言坂の西800mの場所に「旧蹟挑燈野」と刻まれた大きな石碑が建っています。石の部分だけでも1畳ほどある大きな石碑で、昭和47年6月建立との碑文があります。この石碑は、相当な思い入れがあって造られたと感じさせます。万能村の「挑燈野」には、一言坂の戦いに繋がる次の様な伝承があります。中遠昔ばなし挑燈野の戦(豊田町)www.chuen.netところが、この戦いには元亀3年説と天正2年説があります。さらには、作り話ではないかとする
(19)一言観音堂見付から池田の天竜川の渡しに向う街道横に、たったひとつだけ願いを叶えてくれるとの信仰がある小さな「一言観音堂」があります。一言坂の地名の由来は、この観音堂にあります。一言観音信仰は、遠く天平の時代に、その起源を遡ります。(興福寺内にある一言観音堂)平城遷都(710)により、奈良に都が移され、聖武天皇と光明皇后は仏教による国の鎮護願って興福寺を庇護し伽藍を整備しました。興福寺の国宝南円堂の脇に、一言だけ願いを叶えてくれるという「一言観音」が祀られていま
(18)一言坂の戦い「一言坂の戦い」は謎多き戦いです。武田方の「甲陽軍艦」に、敵ながらあっぱれな本多平八郎の戦いが記されています。「甲陽軍艦」抜粋かの平八郎、甲(かぶと)に黒き鹿(か)の角を立て、身命を惜しまず、敵味方の間へ乗り入れ、引き上げたる様子は、信玄公の御家にも、多くなき人に、相似たり。家康小身の家に、過ぎたる平八郎なり。その上、三河武者、十人が七、八人は、唐の頭(からのかしら)を掛けて出る。これも過ぎたりと、小杉右近助と申す、信玄公御籏本の近習、歌に詠みて、見付坂
(16)大久保一族、西坂の殿戦(しんがりせん)磐田原には四つの急坂があります。この内、東からの攻撃に対する防御地点として有効な上り坂は、「三ケ野坂」と「西坂」です。この西坂は、大久保彦左衛門著の「三河物語」で書き表されている旗本先手組の中核、大久保忠世の弟である忠佐と、忠世の長男大久保忠隣たち大久保一族が守りを固めていたと考えられます。その中でも、元和八年(一六二二)成立とされる「三河物語」に、木原・西島から始まり、見付の町屋への自火に続く西坂までの攻防に関する、次のような
元亀三年十月十三日。静岡県磐田市一言坂周辺で、徳川家康と武田信玄の最初の直接対決がありました。この戦いで、一躍有名となった武将は、本多平八郎忠勝です。本多平八郎忠勝は、「戦国武将マニアの最も強い武将ランキング」で常に上位10傑に入る武将です。なぜ平八郎が有名なのか、それは武田の軍学書「甲陽軍艦」に、「一言坂」での戦いぶりが書かれているからです。著者(口述)は、武田四天王のひとり高坂弾正です。高坂は、間違いなく緒戦となる「木原畷の戦い」の時から、武田軍の一員として参加し
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今日は、足利義昭の主唱する信長包囲網に呼応して上洛を企図した武田信玄が遠江に侵攻した際、武田軍が最も攻略に手こずった城の1つである二俣城の戦いについてお話しさせていただきます◇武田信玄の西上作戦室町幕府15代将軍足利義昭と織田信長が不仲となると、足利義昭は武田信玄を初めとする有力大名に御内書を発給し、信長包囲網を構築していきます。それに呼応した武田信玄は、元亀3年(1572年)10月3日、信長と対戦中の浅井長政(あざいながまさ)、朝倉義景(あさくらよしかげ)に信長に対する共闘の申入れ