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天性の英語嫌い受験シーズンたけなわのためか以下の記憶がよみがえる。たまたま母親が不機嫌な時にローマ字を読み間違えたことでこっぴどく叱られ、英語アレルギーを発症するようになった。中1の春にして「毛唐の言葉なぞ使ってられるか!!」と開き直り授業放棄した。背後に攘夷派浪人の霊でも憑いているにちがいない。ただ試験だけはきっちり受けることにした。キン肉マンやプロレススーパースター列伝を愛読書とする血の気の多い少年にとっては、試験とは、紙と鉛筆を使ったケンカだった。相
翌10月5日にフェートン号はオランダ商館員一人を解放して再び薪を水と食糧(米、野菜、肉)の提供を要求しますそして提供がない場合は港内の和船と唐船を全て焼き払うと警告してきました長崎奉行の松平康英は人質が取られた上にまだ十分な戦力も整わない中です仕方なく要求に従う事にしますしかし水の提供は少量だけにしましたそして残りは明日以降に提供するといい応援の戦力が整うのを待つ事にします長崎奉行所ではオランダ商館から提供された要求の薪と水と食糧を船に積み込むとフェー
江戸時代の長崎出島の最大の事件が「フェートン号事件」になります発生は1808年ですフランスのナポレオン戦争が長崎出島にまで影響してきましたそれ以前に1793年にオランダはフランスに占領されますつまり日本の対外貿易の相手オランダはフランス占領下になり存在しなくなったのです出島貿易を管轄していた「オランダ東インド会社」はアメリカ船籍の船を使い出島貿易を続けていました1808年10月4日オランダ船拿捕を目的とするイギリスのフリゲート艦(軍艦)フェートン号がオランダ国
ブログ村に参加しています。ぽちっと押していただけるとうれしいです。にほんブログ村こんにちは!靖國神社遊就館へ行ったつづきで、今回はフェートン号事件について書いてみます。1808年8月と言えば、ヨーロッパではナポレオン戦争の最中だったのですが、この時、フランスに支配されたオランダの軍艦を捉えることを目的にして、イギリスの軍艦フェートン号が長崎出島に現れます。ただフェートン号はイギリスの旗を上げず、オランダ国旗を掲げて入港したため、出
○問題の出し方がちょっと意地悪なんじゃない?▽論述式①「中国史書に見られる古代日本の身分制度について」・・普通大抵の教科書に記載がある史料の有名な箇所から、古代日本の身分制度を大まかに説明する問題。設問と模範解答を突き合わせると、「弥生時代に階級差が生じていたとされる根拠」を念頭に以下の2点を挙げる必要があった。A.史料1が『後漢書東夷伝』であり、そこに奴隷を意味する「生口(せいこう)」の記述があること。B.史料2が『魏志倭人伝(三国志魏書東夷伝倭人条)』であり、女王の卑弥呼が
英雄たちの選択「フェートン号事件」を見ました。1808年、一隻の軍艦がオランダ船と偽り、長崎湾に侵入。取り調べに来た幕府の役人とオランダ商館員に攻撃。オランダ商館員2名を人質とされる。戻った幕府の役人は、イギリス国旗があったと報告。イギリス船艦長ペリューは長崎奉行に対し、食糧と水を要求。期限内にやらなければ、焼き払うと通知。番兵であった佐賀藩の藩兵は財政難でほとんどいない。福岡藩、大村藩、佐賀藩に応援要請をしたが来ない。食糧と水を渡して退散してもらった。こ
江戸時代末期の文化5年8月15日。西暦でいうと1808年10月4日にイギリスの軍艦が長崎へやってきて、出島のオランダ通詞(通訳)を拉致し、日本に水と食料を要求するという事件が起きました。フェートン号事件です。当時の日本は鎖国中で、長崎は幕府の直轄領で長崎奉行所が行政を管理し、国防は福岡藩と佐賀藩が交代で担ってました。この年は佐賀藩の担当でしたが、永いこと平和であったことがあってか、佐賀藩は決まりである人数の1000人を駐留させずにわずか100人程度を配置していました。佐賀藩は手
10月4日の出来事1582年イタリア・ポーランド・ポルトガル・スペインでグレゴリオ暦の適用により、10月4日の翌日が10月15日になる。1636年三十年戦争・フランス・スウェーデン戦争:ヴィットストックの戦い。三十年戦争後期、フランス・スウェーデン戦争において、1636年10月4日、神聖ローマ帝国軍とスウェーデン軍によって行われた戦闘である。劣勢を強いられたスウェーデン軍が勝利し、三十年戦争後期におけるスウェーデンの反撃を機する戦いとなった。1777年
江戸幕府の時代、長崎は天領として奉行所が置かれていたわけですが、奉行所には西役所と立山役所という二つの事業所?があったようで。西役所は出島に近く、もっぱら港の管理・監視を行っていたのですかね。一方、立山役所はもそっと内陸、山の端にあって本来の奉行所業務全般はこちらで行われていたと。その立山役所跡に設けられている長崎歴史文化博物館に、4年前訪ねた折に博物館の一部に再現された奉行所建物やらお白州やらを見て周ったのですけれど、「大シーボルト展」ついでに再訪した博物館の展示紹介には以前と異なるところもあ
【問題】【日本城郭検定1級】福岡藩と佐賀藩で交互に警備を行い、文化5年(1808)フェートン号事件で舞台の一つとなった台場はどれか。【選択肢】品川台場由良台場神崎台場門司台場【正解】神崎台場【解説】長崎湾沿岸部に設置された。
よく、日本の江戸時代は鎖国をしたことにより、平和ボケが300年続いたと言われていますが、正確に言いますと、50年間の平和ボケです。それは徳川家斉によって行われました。徳川家斉は1787年~1841年の長期にわたり、江戸幕府の第11代将軍として、君臨していました。この間、全く改革どころか政治的なことは一切行いませんでした。それでも誰も逆らうことができませんでした。よく、江戸時代の3大改革として天保の改革を水野忠邦が行いましたが、これは徳川家斉が死んだ後、ようやくできるという有様でした。絶対権力者
【Q18559】年号の1808年の覚え方で「違反をやめろ」「人は追われる」などの語呂合わせがあることでも知られる、1808年にイギリスの軍艦が長崎港に侵入しオランダ商館員を捕らえ食糧・水などを強奪して退去し、長崎奉行・松平康英が責任をとり切腹した事件のことを、軍艦の名前をとって何という?【フェートン号事件】【Q18560】1955年11月16日、蔵前国技館でキングコング&タイガー・ジョキンダー組が力道山&ハロルド坂田組を破り初代王者に認定され、2016年には大仁田厚&渕正信組が第100代王者
1814年、ナポレオン戦争後の国際秩序を取り決めるウィーン会議が開かれました。『会議は踊る、されど進まず』で知られている会議です。旧大国だった、スペイン・オランダ・スウェーデンなどは大事な会合には招かれず、名実ともに小国に転落しました。英露仏墺普が5大国となります。名ばかりとなっていた神聖ローマ帝国は、哀れナポレオン戦争中にお取りつぶしにされ、オーストリア帝国と名前を変えていましたが、実態は同じで、ハプスブルク家が支配する帝国です。会議が長引く中、亡命先から帰国したナポレオンを、ワーテルローで
長崎市の神社に全部行くって大変です…色んな意味で…(^o^;)長崎には何で坂が多いんですか?逆に坂の少ない町はなぜ坂が少ないんですか?答えは簡単ですね。地形的なもの。こんな長崎市にも、人口が増えた時代があったのでお山を崩し住宅地を沢山作りました。でも今は麓にマンションが増えてきていますね↑さあ坂を登って稲荷嶽神社です🌾〈長崎市西小島二丁目(町は付きません。)〉↑鳥居の跡かな?↑この辺りです↑拝殿は徹底的に朱いです!またブログに「中に入れませんでした…」って書くのかな
イギリスという国は元々、さしたる大国ではない。欧洲では、比較的老舗ヅラをしているが、我が國に比べれば、歴史も半分以下。本土の人口が、我が國をうわまわったことも、無いのではなかろうか。しかしながら、明治時代から昭和時代初めにかけては、日の没することのない帝国とも言われる程、世界中に植民地を持ち、我が物顔でふるまっていた。不思議なことである。何故に、元々人口もさほど多くない一島国に、こんなことができたのか。それを成せた因として、よく言われるのが、強大な海軍力と、世界に先駆けた蒸気機関の開発と
タイトルからでは内容はさっぱり分からない。最近多くを紹介している一連の江戸期の漂流ものの束の中にあった一冊。未読の吉村さんの本が勝手にやってくるなんて超ラッキー。パラパラ見てみると、やっぱり江戸期の開国、攘夷なんてので国じゅう大騒ぎだった時代のはなし。はじまりは北海道、千島あたりに出没する乱暴なロシア国の船の歴史から。やがて、小船に一人で乗った異人が利尻島に現れる。日本へ憧れていた捕鯨船の米人だった。‘書き出しが決まれば、もうその本は完成したようなもの’と吉村さんはつねづね書いているの
寺町スタンプラリー♬大音寺です↑本当はスタンプより(誤解を招かぬよう書きますがスタンプも楽しいですよ♪)、境内を見学するのが楽しみヾ(゚ー^*)↑堂々すぎる山号額です↑扉には徳川家の裏紋らしい…六葉葵。かっこいい!徳川歴代将軍のご位牌が祭られていたからだと思われます。↑山門からカクッと右へのぼる♪↑長崎奉行所でお裁きを受けた罪人達の慰霊碑。長崎奉行所でのお裁きを記録した物を犯科帳と言います↑墓域の1部への入り口にはコンニャクレンガ+瓦の門🧱コンニャクレンガは厚みが
オランダワッフルオランダといえば…(ΦωΦ)フフフ…前回、長崎ランタンフェスティバルを題材に記事をUPしましたが。長崎といったら忘れてはいけない、オランダに関わる超絶有名なスポットがありますよね。そう、ご存じ出島!!日本史の授業で習いましたね。<出島>1634年江戸幕府の対外政策の一環として長崎に築造された人工島。扇型で、面積は3,969坪。日本初の本格的な人工島である。1636年から1639年まで対ポルトガル貿易、1641年から1859年までオランダ東イ
*10月5日付記事の続きです。R大学文学部史学科の院生・あんみつ君は、今回はしらたま教授との歴史トークで、テーマは徳川家斉の大御所時代。今回は、レザノフ事件とフェートン号事件のおはなしです。あんみつ「しらたま先生、文化元年(1804)九月、12年前にラクスマンに渡した信牌を持って、ニコライ・レザノフが長崎にやってきました。クルーゼンシュテルン大佐率いる軍艦ナデシュダの威容は、長崎奉行を驚かせたことでしょう」しらたま「レザノフは露米
先月行った長崎市の春徳寺のかたから勧められたので…↑大村市の、本経寺(ほんきょうじ)へ行って来ました↑ご本堂。この辺りの藩主であった、大村家の菩提寺です。ちなみに大村家は大村の市長さんも輩出されています。わたしの住む町もこの大村藩でした↑境内の様子。さて今回のメインはお墓です。お墓といえば、既に7月にお盆を済ませた地域もあると思いますが、長崎やその近辺では、8月のお盆になると花火や爆竹を買い込みお墓でしますお盆の夕方は花火の音でとても賑やか♪夏の風物詩です(^^)中国の影響
今回は長崎好きなのに、今までブログにしていないことがもう謀反に等しかった長崎の総氏神諏訪神社…をお送りいたします内容にかなり長崎をぶつけました長文が苦手な方は写真だけでもどうぞまず鎮西と言うのは西方(西海道の九州)を鎮めると言う意味ですね☆諏訪神社は江戸時代初期建立。外国からの出入りが多かった長崎を守るため、またキリシタン対策の役目もありました。→住民総氏子とし、くんちによる奉納も義務化。(長崎中心部を囲むように建つお寺の多さもそうです。)実は諏訪神社は明治期、政府によって廃
2019年2月15日の長崎散策の続き。「晧台寺(こうたいじ)」のお参りを終えた後は、「幣振坂」を上って行きました。晧台寺・幣振坂のレポhttps://ameblo.jp/indyaki12/entry-12458650789.htmlhttps://blogs.yahoo.co.jp/hsnm3373/42313650.html「晧台寺」の「幣振坂」を挟んだ向かいには「大音寺」があるんですよね。「幣振坂」から境内に入ると、左手に立派な五輪塔と由緒書きがあります。
奇想が奇想を呼ぶ、絵師たちの想像力に驚く。|青野尚子の今週末見るべきアートカーサブルータス《群仙図屏風》(展示期間:3月12日〜4月7日)は辻が『奇想の系譜』を書くきっかけのひとつになった作品。水墨画の一部が着彩された、パートカラーのような屏風だ...葛飾北斎は何歳で絵が「生けるがごとく」描けると考えていた?/日本史「その後」の謎クイズウオーカープラス次の質問の答えとして正しいものを選んでください。【問い】葛飾北斎は何歳で絵が「生けるがごとく」描けると考えていた?○50歳.
事件後、幕府に長崎港のさらなる警備を求められた佐賀藩は軍備の近代化を痛感し、藩政改革と洋式化に邁進します。その政策を実行したのが、斉直の次の藩主についた直正でした。その名より、鍋島閑叟(かんそう)という号で知られます。幕末を代表する名君の一人です。彼が進めた近代化によって多くの優秀な藩士が育ち、明治維新後、佐賀藩(肥前藩)は薩長両藩とともに新政府へ人材を送りこむことができました。一方、この事件を教訓にした幕府は、それまでオランダ語一辺倒だった語学体制の殻を破り、広く英
高圧的なイギリスの要求を突っぱねようとしますが、結局、日本側はペリュー艦長の要求を飲まざるをえませんでした。理由は二つあります。まず、オランダ商館側が人質の人命優先を求めたことです。そして次の理由が大きかったといえます。当時、長崎の警備を命じられていた佐賀藩の武力が不足していたのです。本来なら一〇〇〇名程度の兵力を長崎に置いておくべきところ、佐賀藩ではおよそ五〇名を駐留させていたに過ぎませんでした。「もう今年は異国船の来航はない」と勝手に判断し、大部分の兵
第一の問題は、異国船がどの国の船なのかでした。逃げ帰った通詞が「異国船の乗組員はオランダ語ではない異国語を話していた」と話していたからです。当時、日本の北方にロシアの船が出没していました。したがいまして、長崎奉行所では異国船がロシアの船だと思ったようです。しかし、オランダ商館長のドゥーフはイギリス船ではないかという感想を洩らしています。結果、翌一六日になってドゥーフの考えが正しかったと証明されます。拉致されたオランダ人のメモが日本側に渡され、そこに船籍や船
1804年にナポレオンが皇帝に戴冠されますと、その六年後ついにフランスはオランダを併合します。そこに至るまでの間、オランダは、イギリスとの植民地競争にも敗れ、インドの植民地を奪われたのみならず、オランダ領インドネシアでも首都ジャカルタをかろうじて残すのみになっていました。福沢諭吉の指摘はほぼ的を射ていたのです。オランダがフランスに併合される二年前の文化五年(1808)、フランスと交戦中だったイギリスの船「フェートン号」がインドネシアから日本へ向かうオランダ船の拿捕を狙い、オ
福沢諭吉がこんな一文を残しています。「むかしむかし、なぽれおんの乱に和蘭(オランダ)国の運命は断絶して、本国は申すに及ばず、印度(インド)地方までことごとく取られてしまって、国旗を挙げる場所がなくなったところが、世界中に一箇所を残した」(『福(ふく)翁(おう)自伝』)ここでいう「なぽれおん」は、かのナポレオン・ボナパルトのことです。世界中でただ一つオランダの国旗を掲げられる場所というのが長崎出島のことでした。江戸時代の初め、ヨーロッパ諸国の中で唯一、日本との貿