ブログ記事126件
広島にも行きたいけれども、あらゆる面で叶わず。やっぱり私って吉岡里帆も好きなの??緊急事態宣言は出ずに、各自感染症対策をしっかりした上ですっていうことになりそうなのは私にとって良いこと。だから月末のことをもう一歩詰めた。旅路。今年のハイライト。納得がいく形になったよ。にしても暑いね。部屋を清潔に保たねばならない。とはいえ、少し先の長い戦いになりそうだよ。叶わないこととはいえ、パール判事に会いたかった。
今から約3年前、平成29年(2017)年末、ランチ会のため、広島市内のある「お寺」の前を通りかかりました。本照寺「ここにお寺があったのね」などと思いながら足早に横眼に見て通り過ぎようとしました。お寺の前には石碑がありました。目が「パール博士」というお名前を拾った数秒後、歩みを逆に戻しておりました。△パール博士、1952年11月5日、広島訪問広島県は平和教育のさかんなところ。幼い頃からそれなりの知識は持ってい
おはようございます。イアノン(IANON)のインディです。今回は、前回の動画と関係する部分ですが大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦犯についての裁判である東京裁判についての動画をご紹介します。東京裁判(正式名極東国際軍事裁判)→Wikipediaマッカーサーと東京裁判渡部昇一東京裁判(1946年5月3日~1948年11月12日)朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)→Wikipediaパール判事と東京裁判渡部
ナマステ〜久しぶりの友達から電話かかってきて取ったら、まさかのビデオ通話で慌てた。ゲリラのビデオ通話はテロ。事前に通知してさくらです。今日の振り返りは、「靖国神社とインドの深い関係」今回は女優のルカちゃんにレポートしてもらった。カワイルカちゃんのインスタルカちゃん、英語上手でしょ??たった1年カナダにワーホリ行っただけなんだって!発音もキレイでビックリした!もともと私のYouTubeは、日本人向けにインド文化を伝えるってテーマでやってたんだけど、いつの間にかイ
社務所の裏山は、幕末の志士を中心とした英霊が眠る墓地になっています。有名なのは坂本竜馬命・中岡慎太郎命ですね。他にも桂小五郎命や大村益次郎命も眠っていらっしゃいますが、墓地は観光地になっておりいろいろなBlogで紹介されていますので、こちらでは紹介はしないことにします。墓地から眺めた京都。真覚寺五重塔が見えます。満州開拓青年義勇隊碑。---この碑は京都府から送出された二千名の満洲開拓青年義勇隊(内地では満蒙開拓青少年義勇軍と呼ぶ)の事績
令和二年になった節目に、改めて確認しておきたいことがある。それは、我が日本には、「世俗の法」とは別に「國體の法」もしくは「天皇の法」、「禁中の法」ともいうべき不文の法が厳然としてある、ということだ。この「國體の法」は、次の尊い社会的事実のなかで、我らの眼前に顕現した。即ち、先帝陛下は、平成二十八年八月八日の国民への「お言葉」によって、皇太子への「譲位」の御意思を表明された。この時点で、先帝は「世俗の法」の次元を超えられ、世俗ではない神聖な「國體の法」の領域に入られたの
【東京裁判史観の払拭が喫緊の課題‼️】〜国としての正義を主張して、潔く処刑台に向かった殉国七士‼️〜昨日、金沢の宗林寺参拝の報告をさせて頂きましたが、殉国七士の国を思う心に強く感銘しました。東條英機大将以下皆さんは國體護持の為、茶番劇と分かりながら国の為、我が身を捨てて我が国の正当性を主張され散華されたのです。(敢えて散華と言わせて戴きます。)絞首台に向かう前に日本酒ではなくGHQが用意したカリフォルニア製のワインを飲み、日本の再興を夢みて、全員で天皇陛下万歳を三唱して、この世から
極東軍事裁判の判決によって七名の被告が死刑に処せられました。この七名は昭和殉難者です。「A級戦犯」などというものは日本の法律上、存在しないものです。「A級戦犯」と口にする者は日本の法律を無視する者であり、法治主義を破壊する者です。共産主義者か朝鮮人です。実際、アメリカ人もイギリス人もロシア人もA級戦犯などとはいいません。欧米白人は極東裁判がインチキ裁判だったことをよく知っているからです。よく知らな共産主義者と朝鮮人だけが言いつのっているのです。さて、極東裁判で判事をつとめたインド出身のラ
そんなわけで、5年かからずに6万km走った新車時に履いてたタイヤを買い替えに行ったら思ったよりもいいタイヤ履いてて驚いた召使1です。タイヤって運転する上で物凄く大きな影響が出るんですけど、6万km走った割りにはタイヤ残ってたので、納得。次のタイヤをどうしようか迷ったのですが、ちょっと高めでしたが同じタイヤにしておきました。廃車までこれで行けるかな。さて、月初めの話ですが、百里基地航空祭の翌日、田町で駅撮りした後の話ですが、大嘗宮一般参観と皇居乾通り一般公開へ行ってきました。1度、皇居の一般
【パール判事、清瀬一郎弁護人の無念‼️】〜毎年12月23日は殉国七士の日にしよう‼️〜昭和23年12月23日未明、巣鴨プリズンにおいて殉国七士の絞首刑を執行されました。米・英・中・ソの連合国代表が立ち会い、天皇陛下万歳を三唱して台上の露と消えられたと伝えられています。殉国七士とは東條英機(元首相・陸軍大将)土肥原賢二(元陸軍大将)広田弘毅(元首相)板垣征四郎(元陸軍大将)木村兵太郎(元陸軍大将)松井石根(元陸軍大将)武藤章(元陸軍中将)の七柱です。戦勝国が敗戦国を裁く
これは1911年のアジア地図。日本とタイ以外は米欧の植民地。アジアの人々は白人に搾取され、虐待されていた・・・・https://www.youtube.com/watch?v=P4CS4Samhd0&feature=emb_logo各国の首脳をはじめとする多くの人が日本への感謝の言葉を残しています。マレーシア外務大臣ガザリー・シャフィーは「あの時は神の軍隊がやってきたと思った」と語っています。日本は、奇跡的な力を発揮するために"国民総火の玉"にならざるを得なかった。
本日十二月八日は、日米開戦、真珠湾攻撃の日です。真珠湾攻撃を米国が事前に察知し、それが国民世論を参戦に導くためのルーズベルトの謀略であったことは、最早歴史の常識です。大東亜戦争は、アジアへの侵略戦争ではなく、ハル・ノートによって米国に追い詰められた我が国による窮鼠猫を噛む必死の戦いでした。以下に、東京裁判で被告人全員の無罪を主張したパール判事を言葉を引用します。「現在の歴史家でさえも次のように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本
読書週間【10月27日〜11月9日】1947年からスタートした読書習慣第2次大戦下、ホロコーストの嵐が吹き荒れるアウシュヴィッツ強制収容所には秘密の小さな"図書館"がありました。蔵書は、わずか8冊。本の所持は禁じられていて、見つかれば命に及ぶ中、14歳の少女・ディタが図書係に選ばれました。ディタ「どれだけ柵を作ろうと構わない。だって、本を開けば、どんな柵も飛び越えられるのだから」地獄のような収容所に捕われていても、本を開けば想像の翼を広げて世界を自在に飛び回れる、と。ディタは、ホ
「東京2020オリンピック」のメイン会場となる新国立競技場が来月完成以前の、明治神宮外苑競技場が誕生したのは1924年。太平洋戦争中の1943年10月21日には、学徒出陣の壮行会も行われました。【4Kカラー】学徒出陣"出陣学徒壮行会"-FarewellCeremonyforJapaneseStudentsGoingWar▼HISTORYCHANNELチャンネル登録http://bit.ly/2BQ4Kns第二次世界大戦終盤の1943年に兵力不足を補うため、高等教育機関
以前、blogに書きました高校生のリトル・ドラマー・ボーイ🥁両親との確執から家出、遺書を書くほど悩んでいましたが、現在は軽音部&空手を頑張りながら、バイトも始めてますそして先日、「相談がある」と言うので聞いてみると、「イジメられている子がいるから助けたい」とのことおっちゃん、嬉しいぞー弱い立場の人を助けたい、これは人間が持っている自然な発露なんでしょうね戦時中、日本人が追い詰められた時に手を差し伸べた判事がいました極東軍事裁判(東京裁判)【1946-1948】正義は、たやすく
【日本再興は果たせるのか⁉️】〜家庭崩壊から日本崩壊が始まっている‼️〜自分は現役を退いた以降、少しでも社会貢献をしようと、家庭裁判所の【調停委員】、保護観察所の【保護司】を委嘱され、いずれも非常勤の国家公務員として活動しています。両方とも二年毎に契約更新ですが、7月1日と10月1日にそれぞれ更新しました。保護司は75歳、調停委員は70歳が定年であり、調停委員は最後の更新となりました。(2年契約ですので実質71歳まで務めます。)この二つの仕事を経験して感じるのは、日本は崩壊し
今日9月13日は明治天皇の大喪の礼が行われた日です。1912年(明治45年)の9月13日。今から107年前のこと。この日の夜乃木希典さんと奥様の静子さんが自刃なさいました。戦争のない平和な世の中を願って過去に幾多の戦争で命を落とされたすべての方が安らかに眠られますように先月の話になりますが終戦記念日の前日の8月14日夫と二人で千鳥ケ淵戦没者墓苑と靖国神社に行きました半蔵門駅から歩きます駅でPASMOを通すと残額が777円おおおっ
終戦記念日に参拝しようと思っていたのですが腰痛で断念し、その後、翻訳の仕事が忙しくて遅れてしまい、やっと参拝出来ました外の騒音が全く耳に入らなくなるほど、静寂を感じる厳粛な雰囲気おみくじも引いてみた宮本武蔵の五輪書からのお言葉・・・なんだかよくわからないけど、無難に『吉』でした遊就館も見学しました館内は撮影禁止なので、ご紹介できないのが残念ですが、母国を守るために亡くなった方々の想いを感じ、本当に最初から最後まで、胸がいっぱいになる場所です仕事柄、外国人と
靖国神社境内にはインドのラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑が建立されています。ラダ・ビノード・パールRadhabinodPal(1886~1967)極東国際軍事裁判所法廷のインド代表判事としてパール判事は、判決書で全被告無罪、すなわち日本国を無罪とした。時が熱狂と偏見とをやわらげた暁にはまた理性が虚偽からその仮面を剥ぎとった暁にはその時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するだろうラダ・ビノー
平和に対する罪とは侵略戦争をしかけた罪なのでしょう大東亜戦争が侵略であったのか自衛であったのかこのことについてはまだまだ研究が必要だと思いますと言いますのも第2次世界大戦以降平和に対する罪によって裁かれたひとはいませんし当然それまでの欧米によるアジア等の植民地化が裁かれることもないのですからところで平和に対する罪は第2次世界大戦がはじまったときにはなかった概念ですつまり当初違法ではないことをしたらあとか
7月に街を歩いていて見つけたポスター。みたま祭といえば、靖国神社で行われる行事だけど???と思って、近くで見ていたら、京都の護国神社でも行われるのがわかりました。今日、午前中に行ってきました」提灯には「○○○○命」と名前が書いてありました。戦死された兵隊さんの名前だと思います。陸軍特別操縦見習士官之碑というのがありました階段の上った上のほうにはパール判事の碑もあるそうですが、暑かったので涼しくなってから訪れてみたいと思っ
今日は八月十五日。八月十五日は毎年巡ってきますが、一年の中で日本人にとっては特別の意味を持つのが八月十五日。お盆の中日で死者がこの世に戻って来る日でもありますが、近代以降の日本歴史の転換点になった象徴的な日であり(日本にとっての)戦争の終わった日であり、祈りの日──日本国内での空襲、また海外の地の戦闘に於いて犠牲になった方々、日本へ帰りたいと切望しつつも異国の土になってしまった同胞への祈りの日としての八月十五日──彼らの魂の安らかならんことを
本日8月15日は74回目の終戦の日です。大東亜戦争で亡くなられた、すべての御霊に対し、哀悼の意を捧げます。今年の5月京都に行った際、真っ先に向かったところは東山の霊山護国神社でした。幕末の志士、明治維新の元勲らの墓碑先の大戦の慰霊碑が数多く並んでいます。そこにラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑もありました。パール博士は、東京裁判(極東国際軍事裁判・昭和21~23年)で、戦犯として訴追された25被告に対して「全員無罪」を判事11人のうち唯一主張したインド代表判事として知られてい
Vol260「ステ旦スーツ」で世界を平和にする!そんな想いで仕立て屋をしているフェリーチェ銀座屋のおおやなるひこです★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★今回は全3回シリーズです①【強運な人が必ず訪れる場所】②【インドのパール判事】→現在ココ③【特攻隊の遺書】先日の続き。靖国神社に約20年ぶりに訪れ、一人で正式参拝をするという貴重な経験をしました終戦記念日の8/15前後であればおそらくこんな経験は出来
ペリー来航以来、開国を巡って国内が混乱した日本・・・幕府軍と新政府軍が衝突した内戦=戊申戦争が勃発し、明治維新前後には多くの日本人が戦死しました。その悲劇を憂えた明治天皇が、主義思想は違えども日本国のために尊い命を失った人々の名を後世に伝え、また戦没者3,588柱を合祀鎮祭すべく今からちょうど150年前の1869(明治2)年創建されたのが、『東京招魂社』。これを明治天皇自らが、『春秋左氏伝』の「吾以靖国也(吾以って国を靖んずるなり)」を典拠として靖國神社と改名され、別格官
田中正明氏の著作をいくつか読みました。「日本無罪論」「パール判事の日本無罪論」「パール博士平和の宣言」加えて、アジア歴史史料センターのHPで検索してパール判決文を読みました。同HPで「パール」と「裁判」で検索すると出てきます。実に便利になったものです。これらを読んでわかることは、極東軍事裁判の検察側の論述がそのまま戦後の自虐史観になっていることです。パール判決文を読めば、極東軍事裁判はインチキで、パール判事の日本無罪論こそが正しいことは明らかです。南京大虐殺はなかったし、共同謀議
田中正明著「南京虐殺の虚構」を読みました。著者の田中正明氏は、戦前、大亜細亜協会で機関誌の編集をしていました。そして、同協会に所属していた松井石根大将の知遇を得ます。その松井石根大将は、昭和十二年、上海派遣軍司令官に任命されて出征します。のちに中支那方面軍司令官となり、上海戦と南京戦を勝利に導きます。松井大将はアジア主義者でした。孫文とも蒋介石とも肝胆相照らす仲でした。松井大将は日支の提携を念願していましたから、軍律を厳格にし、支那の官民に無礼のないよう細心の注意を払っていました。実際、