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こんばんは。スウェディッシュマッサージは、肘や手のひら、拳や指を巧みに使い分け、全身の筋肉を表層から深層へ探りながらゆるめていく、スゥェーデン発祥のオイルマッサージです。ikiでは特に首の施術に時間をかけて丁寧にほぐします。★その人の灰汁や強めの癖をひとつの特徴として眺めるのが好きなので、嫌いという枠に入れる人が殆どいない。なめらかな表皮の人もいればカメレオンのような鱗の人もいるし、棘だらけの人もいる。攻撃的な人や悪意のある人は一緒に居て憔悴してしまうので、避け
추석잘보내셨어요?韓国では9/30~10/9までお盆(秋夕/チュソク)連休。会社員は最大10日間の大型連休です我が家も10間連休ですが、シデク(夫の実家)にはチュソク前日に行くことになり、前半は家の大掃除やタオルを煮たりして過ごしました※韓国ではタオルを煮て消毒+より白くします家族を亡くしてから、誰よりも孤独になったシオモニ(義母)とも和解し、毎週末シデクに行ってるので気まづさも一切無くなり、何とか順調にミョヌリ(嫁)をこなしています。でも、長く一緒にいたらまた
コドモックルコドモックル言ってますが正式名称は「北海道立子ども総合医療・療育センター」北海道の子ども医療の最後の砦であります。娘を幼稚園に送り夫婦でコドモックルへ向かいました。建物の地下に駐車場があるのですがほとんどが車椅子専用・車椅子優先スペース。奥に車を停め地下の入り口から中へ。地下には売店や食堂があります。(HPで予習済)エレベーターで1階に上がり受付へ。広ーい明るーい壁にはア
僕と同じ世代の人でも、子どものとき、ウチには白黒テレビしかなかったというと、大変驚かれる。カラ―テレビは、64年の東京オリンピックから各メーカーが宣伝をはじめ、70年代前半には普及していたのだが、それがいつまでたっても、わが家には来なかった。これまでのエピソードで、皆さんはもうお分かりだろうが、これは、もちろん、父がケチだからだ。または、モノは壊れるまで使うべきで、時代が変わったとか、機能がよくなったとかで、新しいものを求めるのは悪だと信じているからだ。(ん?今書きながら思ったのだが…
家に帰ると、父と母は、何が起きたか知っていた。カミシマ君たちが、僕を探しにウチに来たときに、およその話は聞いたようだ。ひょっとしたら、カミシマ君の母親が、僕の親に電話したのかもしれない。「お前に、プレゼントを持たしてやった方がよかったかもしれないな」とは言わなかった。かわりに、「カミシマ君のお母さんは立派だ」と言った。カミシマ君の行いを叱り、厳粛な対応をとったことを言っている。確かに、その日の出来事から僕を救ってくれたのは、カミシマ君のお母さんだ。彼女が、あのようにしなければ、僕は、
大激怒したのはカミシマ君の母親だ。カミシマ君は、大勢の友達の前で、コテンパンにしかられ、誕生日会どころではなくなった。(小ぶり)ジャイアンの天敵は、やっぱり「かあちゃん」だったのだ。耳を持たれ、引きずられるお馴染みのシーンが再現されたに違いない。そして、ソバオ君に謝って、ここに連れてくるまで、決して誕生日会は開かない、と「かあちゃん」に宣告されたのだった。瞬時に、カミシマ君は、謝罪ミッション団を形成し、僕の住む社宅アパート向け発進する。アパートに着くと、僕が戻っていないことを知り、
そのまま、世の中から隔離された貯水タンク施設の上に座り続け、1時間か2時間が経ったころ。「ソバオくーん」遠くで子どもが、僕の名前を呼んでいる。だんだん近づいてきて、何人かの友達が、明らかに僕を探しているのが分かるようになる。「ソバオくーん、ソバオくーん!」どうしよう。先ほどの事件が、とても恥ずかしく、やり過ごしてしまいたいとも思う。しかし、まさに捜索隊と化した子供たちの真剣な呼びかけに、尋常でないものを感じた僕は、地面に降り「どうしたの?」と姿を現してしまう。「おー!」と捜索隊とな
「テメエ、手ぶらでくるって、どういうことだよ!!とっとと帰れ、帰れ!」と僕の顔にツバを飛ばしながら叫んで、陽気なホスト役をかなぐり捨てる。ああ、社交辞令や、遠まわしな表現などありはしない。感情の直球だ。言ったように、カミシマ君は正直なのだ。僕は、電光石火で回れ右をし、靴を引っ掛け、ビューン!飛ぶように出ていった。カンカンになったカミシマ君から逃げ、クラスの友達の前で、とうとう受けるべくして受けた恥から逃げた。「ドラえもーん!ジャイアンがあ」と、のび太だったら泣きながら家に逃げ込むと
甘かった。考えを変えないのが、父なのだ。自分のものを欲しがっているのではないのだよ。分かってくれよ、友達の誕生日を祝う気持ちを形にする習慣なんだ。ほんの少しの出費で、仲間はずれにされる可能性を排除し、子供コミュニティーでの居場所を確保することができるんだよ。何より、仲間の前で、屈辱的な時間を過ごすのは、もういやなんだ。お願いだから、お願いだから。うまくは表現できずに、いや表現したとしても、だめだったろう。子供が、物をあげあうことは悪であると信じる父は、価値観に基づく行動(と、ただのケ
カミシマ君は、大きく太った元気な子供だった。大きな声でよく目立ち、間違いなく、クラスでも大きな存在であった。ジャイアンの体型によく似ているが、やや小ぶりで、自己主張はジャイアンの30%くらい。けっして悪い子ではない。よく笑い、よく怒り、ときどき大きい声で泣いていた。先生に、よく可愛がられ、よく叱られていた。そして、なにより、彼は正直だった。カミシマ君は、待ちに待った誕生日会を盛大に開催する計画だ。クラスの男子ほとんどに声をかけている。誕生日会の準備の進捗は、クラスの皆と共有しているし、既に
父は、昭和9年(1934年)、広島の生まれ。7つ年下の母と結婚し、30歳のときに長女を、翌年に次女を、34歳のときに長男(僕)を授かり、昭和43年(1968年)に5人家族が揃ったわけだ。僕は現在48歳だ。父は、ケチだった。でも、子供たちは、彼がケチであると知らなかった。ケチとは、金銭を使うことを嫌い、基本的な快適さや生活上の必要なことの一部を犠牲にしてでも、金銭をため込もうとする行為、および性格だ。要は、お金がないわけではないのに、使わないのがケチだ。僕たちは、自分たちの家庭は、
お葬式1-7は、プロローグだ。これから、父との葛藤の思い出をふりかえって、ここに吐き出してみたい。といっても、父は、酒乱でもなく、ギャンブル好きでもなく、妻や子供を虐待していたわけでもない。子どもたちには望む学校にいかせてくれた。だから、これから書くことに悲劇はない。昭和一桁(9年)生まれの父が、どのように個性的だったか、その個性に僕がどう影響されたかを書く。そのあと、彼の強烈な個性が、戦後の厳しい時代を生き残るために必要だったのではないかと思うことを、書いていきたいと思う。
火葬場で義母を見送った帰りのマイクロバス。やはり僕は父の隣に座ってしまう。誰も声を発しないなか、父が、通り過ぎる看板を小さい声で読んでいく。「株式会社OO….XX歯科….△△募集中…」もはや、これくらい何でもない。父は、変だ。今日は、喪服でないばかりか、いろいろ目立つことをしてくれた。嫁に、実家で恥をかかせてはいけないのに。でも優しくもある。僕の高校生の息子と中学生の娘が、大好きな祖母との最後の別れのとき、壊れそうなくらい泣いた。父は、何も言わず孫たちに寄り添い、
Achestnutisbrown.ア・チェスナッツ・イズ・ブラウン。「栗は茶色」僕はこの英文を忘れることはないだろう。火葬場に移り、荼毘に付される待ち時間に昼食が振る舞われた。僕は再び気になる父の側へ。近くには、妻の妹と結婚したアメリカ人が。この義理妹の夫婦は、米国から駆け付けている。Achestnutisbrown.挨拶もそこそこに、父が義弟に言い、戦後、彼が英語の授業で習った最初の文章だと説明した。義弟を含め、一緒にテーブルにいた人たちは、「そうですか、今とずい
葬儀が始まる。お経が流れ、焼香が進む。妻の隣に座り、父のことは考えないように努力する。そうだ。視界に入りさえしなければ、動揺を抑えられるだろう。今は、義母を安らかに送り、悲しむ妻を支えるときだ。目を離している間、父が何か場違いなことをしてはしないかと、頭によぎる心配を無理やり抑える。葬儀に集中、葬儀に集中。お経とともに唱える。ポク、ポク、ポク。時間が進み、僕は妻とともに義母への哀悼の気持ちにひたることができた。焼香の間、ただでさえ、その格好で目立っている父が、地元ではめずらしい曹洞宗
葬儀の前に親戚一同で集合写真を撮る。よせばいいのに父は写る気まんまんだ。僕は妻と並ぶべきなのだが、父のことしか考えられなくなっていたので、彼の隣に。その黒で統一された集合写真に、一点の父。シュールな芸術だ。これから何年たっても、親戚たちが写真を見る度に、真っ先に話すのは、義母のことではなく、父の異形のことだろう。撮影が終わった直後、ギョッとした。父のことしか頭にない僕は、お葬式であったことをすっかり忘れ…よく集合写真でするように、カメラにむかって微笑んではいなかったか…!?もちろん、こ
葬儀には喪服を着なくてはいけませんよね。持ってない若者はレンタルする。学生は制服を着て、ちびっ子には、それなりにキチンとしたものを親が準備する。そういうものですよね。「私の宗教は正装を禁じていて」という人たちもいるけど、特殊な理由はきちんと説明できるでしょうよ。さて、父の理由は?問い詰めたいが、今更着替えることも、どうすることもできない。こんなところで口論になれば、義母を穏やか見送る場を台無しにしてしまう。最大の関心事には触れることなく、来てくれてありがとう、どうやって会場まで来たとか、どうで
くたびれた細かい白黒のチェック柄の上着の下に、白地に他に見た事がない色模様が入ったシャツ。ズボンも白黒のチェック柄だがジャケットとは違うものだ。目立つのは、30年以上使っている安いハット系の帽子。肩には、これも同じ年月使った合成皮革の黒い鞄で、表面はそうとうかすれている。とにかく、ヨレヨレ。というか、なぜ喪服じゃない!?そして悲しみや神妙というのとは少し違う、どことなく明るい雰囲気で登場してきたのだ。僕の顔にじゅうぶん集まった血液は、炎となって噴き出す。あー、消えてなくなりたい。帰りたい。
妻の母が亡くなった。妻、高校生の息子、中学生の娘とともに、僕は広島の妻の実家に詰めて、通夜と葬儀に備えることに。義母は闘病の後、69歳で亡くなり、義父、家族は深く悲しんだが、大勢の親戚を迎え、通夜と葬儀の準備に大忙しだった。僕の両親に連絡すると、父は葬儀に出席するが、母は体調が悪く欠席するという。両親は、広島県内に住み、親戚の誰よりも妻の実家に一番近いので、本当は、一番に駆けつけてほしいのだが、同時に、少し変わった父(このブログのテーマ)と妻方の親戚が会うときの不安を思うと、そうお願いすること