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おはようございます。今日は、少し涼しい、お盆の二日目です。そうそう、昨日、前代未聞のことがありました。お寺には、お盆の納骨堂にしか来ないという檀家の人。15~6人という大人数で大騒ぎしながら本堂に行き、知りしない仏教のことを、偉そうに話してるんですよ。そして、今度は、お盆中、セキュリティ上、庫裡・会館の方へは行かれないよう、注意書きをしてあるのに、その人、さも、「俺は寺に顔が効くんだ」と言わんばかりに、「来い。次は寺の中を案内してやる。」と。さすがに、周りの人から注意されてあきらめたので
今年で5回目、暑い熱い夏の公演「ひめゆり」。新国立劇場小劇場が。研修生は、この公演の為に、沖縄に研修に行き、「ひめゆり学徒隊」の足取りをたどり、当時の学徒の命の声を肌で感じたそうです。ひめゆりの感動に熱い拍手でした。ところで幕開けに事件が起きました。最初の暗転、まさに今この劇場から沖縄に連れて行ってもらう瞬間に、隣の人のスマホの光で台無しに!もらったチラシで光を遮る。もう大丈夫と覗いたらパソコン(?)で仕事を始めているようで、さすがにやめてくれ!と静かな声(ドスを効か
1945年3月26日に慶良間諸島の座間味島等を占領した敵は、4月1日沖縄本島に上陸。多大な犠牲を出しながらも本島南部に進行。6月23日早朝、南部最南端の摩文仁に軍司令部を後退させていた、沖縄守備軍最高指揮官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決し、日本軍の沖縄での組織的戦闘が終了します。牛島満中将(左)と長勇中将(右)牛島中将は、陸軍士官学校校長を勤めるなど教育的指導者が適任な人物で、温厚な性格・面倒見のよい
大阪から三線で供養を屋嘉節は6月23日だけ弾きますもう何年の弾いているから結構慣れています平和な日本であります様に平和な世界であります様に戦争は繰り返さないもう二度と我が家は平和教育の一環で(なんて言う言い訳よっ)6月23日は必ず沖縄に行っていましたはい学校は休ませてねもう20年以上も前から続く家族行事です当時は賛否両論色んな事を言われましたよ~でも子供達は立派に育ちました胸を張って言います命の大切さを知る良い機会だったと思います先日のヤフーニ
6/23日は「慰霊の日」沖縄戦犠牲者の霊を慰め世界の恒久平和を願う日です今から78年前、本当に多くのひとがこの戦争で亡くなりました。大人だけでなく少年兵や学徒隊(12歳から18歳の女子)も戦争に駆り出されました。私の祖父(当時40代前半)や伯父(当時17歳当時少年兵)も10・10空襲という米軍の攻撃で亡くなりました。今日のこの平和はとても尊いものだとどれくらいのひとが感じているんだろう。ひめゆり資料館に昨年は2度行きました。娘が舞台で学徒隊を演じたのでその前後
今回、大東亜戦争沖縄戦における(一部)女子学徒隊の話題をまとめて…第32軍司令部直轄部隊/ひめゆり学徒隊【沖縄師範学校女子部【男子部は鉄血勤皇師範隊】と沖縄県立第一高等女学校】配置されたのは・沖縄陸軍病院(南風原→糸数、伊原、山城など)・第32軍司令部経理部→津嘉山ね沖縄陸軍病院南風原壕群から写真を並べていきます。以前、ブログに掲載した写真、文章を並べただけなので、新規性はありません。20号壕壕内へ入るには予約制なので、入りたい場合には、事前予約しようねぇ~。
NHK第一AMラジオ。周波数は666kHz。午前5時20分過ぎのコーナー、6月18日の『今日は何の日』です。【記念日ほか】■海外移住の日■考古学出発の日■おにぎりの日【歴史上の日】1902年(明治35年)万国郵便聯合25周年を記念して初の官製絵はがきを発売1908年(明治41年)日本からの移住者781人を乗せた笠戸丸がブラジルのサントス港に到着1908年の今日、日本人移住者781人を乗せた移民船・笠戸丸がブラジルのサント
沖縄本島最南端の岬である荒崎海岸には、『ひめゆり学徒隊散華の跡』として、石碑が刻まれています。6月19日、第三外科壕で解散命令を受けた後、敵の攻撃から逃げのびたひめゆり学徒隊の引率教員2名と女子生徒12名は、荒崎海岸までたどり着きました。しかしここにはもう身を隠す場所などありません。海上からは米艦隊が残存兵の捜索をし、陸上では壕と思しきところや茂みなど全てを火炎放射器で焼き尽くし、21日に6名の生
先日、ミュージカル座ミュージカル『ひめゆり』マチソワしました。月組公演11時の回。朝からお疲れ様です。(星組は16時)劇場は、北千住駅の丸井の中にある、シアター1010。このところ、戸田市民会館でやることが多かったので、危うく戸田に行くところだった。気づいて良かった。この作品、2016年に出演させていただきました。その時に出演していて仲良くさせてもらった2人が、月組と星組と別れていたので、マチソワした次第(笑)。今回はなかなかキャストが発表されなかったもようですが、応募者が異常に多か
ひめゆりを忘れない愛知県芸術劇場小ホール竹下景子さん、静かな語り口に迫力あり素晴らしかったです。イントネーションが標準語ではなく、もちろん名古屋弁でもなく沖縄の方のご指導もあったでしょう。女学生から90代の女性まで演じられました。また音楽の石塚まみさんのピアノと歌もとてもよかった。CD買いました。渡辺真知子さんのステージではピアノとバンマスを担当されてるそうです。帰りは野球帰りで混雑する地下鉄で席を譲ってくださった青年のバッグ。トラちゃんがあんまりかわいいので撮影
高校の修学旅行で、沖縄へ行った際、貴重なお話を伺いました。その日の晩、辛くて、寝れなかったのを思い出します。壮絶な経験を多感な10代にされたことをその後の人生において、何度もお話しすることは本当に大変だったと思います…ご冥福をお祈りいたします。こちらの記事元ひめゆり学徒本村ツルさん死去-Yahoo!ニュース元ひめゆり学徒で、ひめゆり平和祈念資料館館長やひめゆり平和祈念財団理事長などを務めた本村ツル(もとむら・つる)さんが7日午前1時29分、老衰のため西原町の自宅で死去した。97
昨日は、終日フリータイムだったので、沖縄南部の戦争に関する施設を中心に回って来ました。今回の旅行のメインテーマだった平和祈念公園、ひめゆり平和祈念資料館をじっくり見て来ましたが、平和祈念公園の資料館が休館中だったのは少々残念でした。戦争と平和の話は、表現が難しく、自分の中でも整理出来ないので、詳しく書こうとは思わないので、ダイジェストで書きます。まず、最もショックだったのは、ひめゆり隊員の中で「一家全滅」で、写真も残っていない方が何名もいたこと。確かに生きて、同級生などの記憶に残っている
2023年3月23日今日は何の日か世界気象デー世界気象機関(WMO)が、発足10周年を記念して1960(昭和35)年に制定。国際デーの一つ。1950(昭和25)年のこの日、世界気象機関条約が発効し、WMOが発足した。WMOは、加盟諸国の気象観測通報の調整、気象観測や気象資料の交換を行っている世界組織である。日本は1953(昭和28)年に加盟した。歴史1238年僧・浄光が鎌倉高徳院の大仏(鎌倉大仏)の建立を開始
沖縄本島では4月6日から血で血を洗うような激しい戦闘が続いたが、日本軍はしだいに追い詰められ、5月22日、牛島司令官はついに沖縄本島南端の喜屋武(きゃん)半島へ全軍撤退を命じた。それは「本土決戦」のためアメリカ軍をできる限り沖縄に足止めしようとしたものだったが、喜屋武半島に避難する多くの住民の安全は顧みられることがなかった。陸軍病院に撤退命令が出たのは5月25日。わずかな荷物を持って壕を出る宮良さんたちの背中で、「学生さん、連れてって」と重傷患者の叫び声が聞こえた。たとえ重傷を負っていても
1999年、「ひめゆりの塔の壕」で私は生徒たちと一緒に宮良ルリさんからお話を聞き、その場で買い求めたのが『私のひめゆり戦記』だった。宮良(旧姓守下)ルリさんは1926年に石垣島で生まれた。やがて満州事変が始まり、1937年から日中戦争。学校は軍国主義一色となり、宮良さんたちは教育勅語を一字一句間違いなく書けないと小学校を卒業させないと脅されて必死で暗記した。太平洋戦争が始まる1941年の4月に宮良さんは故郷を離れ、沖縄本島にある師範学校に入学した。授業や寮生活は厳しかったが、子どもの
2023年2月28日(火)朝食:ホテルロコイン沖縄品数はスーパーホテルくらいだよねぇ~※昨日のブログの朝食の写真、この日のを貼っちゃって、コソっと貼りなおしましたん。昨日の『踊るさんま御殿』はNHKアナウンサーと日本テレビのアナウンサーが出演していて楽しかったわぁ我らが合原明子嬢(バルちゃん)が出て欲しかたけど、森下さんが良い味を出し過ぎちゃっていたし。あぁ、沖縄では日本テレビ系の放送はありませぬ。テレビ東京系も放送されていないので、チャンネル数が少ないざます。
平和祈念公園から路線バスでひめゆりの塔に行きます。平和祈念堂入口から乗車82番玉泉洞糸満線糸満行きひめゆりの塔前下車バスを降りると、すぐひめゆりの塔入口です。ひめゆりの塔は、沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒や教師の慰霊碑です。両校から240人が沖縄陸軍病院に救急看護衛生班員として動員され、136人が亡くなりました。慰霊碑の後ろに、陸軍病院第三外科があったガマ(鍾乳洞)の入口があります。米軍が沖縄に上陸、日本軍の撤退と共に、陸軍病院も本島南部に
はいたいクリスマスの日に甥っ子と戦跡めぐりをしました。豊見城の旧海軍指令部壕跡糸満市の平和祈念堂、平和の礎さいごに「ひめゆりの塔」にやって参りました。塔の下は深い深い壕になっています。母から聞いた話しによると戦後小学生だった母は遠足でここに来た時この壕は遺体の骨でいっぱいだったと・・。今は綺麗に整備されていますが戦争を体験した方々には重なるように見える風景があるのですね。ひめゆり平和資料館の中へ。ひめゆりの少女たちは今と変わらず普通の女の子たち。戦場へ巻き込まれ
先日、突然腰痛に教われまして、その後、不正出血があったことで、渾さんの5層サトルボディー拝見でエーテル体が肉体を攻撃していたということを思い出しまして、たとえ親から強制されたことであっても、無理することが日常的になっていることは、自分で自分を攻撃することだということに気がつきました。それから、ふとした瞬間に思い出したことなんですが。ひめゆり学徒隊の呼称の「ひめゆり」は、沖縄第一高等女学校の機関誌の「乙姫」と沖縄師範学校女子部の機関誌「白百合」を合わせたものだったということを思い出しました。
皆さま、お早うございます。旅するコピーライターのふじやんです。2023年1月2日(月)〜4日(水)の2泊3日の日程で那覇へ新春初旅に。那覇は、昨年の11月以来です。※文中の青い大文字は詳細情報にリンクしています。2023年1月3日(火)那覇旅2日目。沖縄名物のAランチを24時間営業のいちぎん食堂で堪能した前回はこちら。『【那覇編】大人のお子様ランチと呼ばれる沖縄独自の食文化Aランチを24時間営業のいちぎん食堂で堪能』皆さま、今日は。旅するコピーライターのふじやん
ひめゆりの塔(1953年日本東映)1945年(昭和20年)の沖縄戦を描いた映画「ひめゆりの塔」。戦後何回も映画が作られ、その都度、当時の人気の女優さんが大集合して、先生と生徒役を演じます。1945年の沖縄戦に動員された旧制中学の女学生たち、とくに那覇にあった第一高女と沖縄女子師範学校の生徒は「ひめゆり学徒隊」として戦争に動員されました。仕事は看護婦、もしくは飯上げ隊として従軍しました。飯上げというのは飯盒炊爨(はんごうすいさん)をして、ごは
・一番美しく(1944年=昭和19年日本東宝)木下恵介作品「陸軍」が公開された昭和19年に作られた黒澤明監督の作品です。あんなに戦局が悪化して、鉄の供出で物不足の時代によく映画が作れたなあと思う2作品ですが、「陸軍」は傑作、「一番美しく」は少女たちのドラマで、こちらは秀作。19年だと戦死者も多くなっていて、国民も疲弊していた時期だと推察できるので、だからこその「ヒューマンドラマ」、「心を慰める」「共感させる」作品を発表する必要があったのかなあと感じる作品で、洗脳軍国
「ひめゆりの塔」へひめゆり平和祈念資料館にて。第二次世界大戦中、唯一国内で地上戦が繰り広げられた沖縄の姿を熟読…当時、沖縄師範学校と沖縄県立第一高等女学校に通われていた13歳から19歳の女学生222名、教師18名、総勢240名が沖縄陸軍病院に動員された。迫りくる米軍の攻撃によって多くの人が命を落とした記録でした。ひめゆり学徒隊は、負傷兵の治療に尽力を注ぎ、飯上げ排泄の処理傷口にわいたウジ虫とり死体の埋葬昼夜を問わず働いていました。
沖縄旅行3日目は前日に続いて原チャで沖縄本島南部をウロウロ。先ずはひめゆりの塔を目指しました。外から見える以上に中は深くて暗い。負われて逃げてきたけど、結局はここで大多数が亡くなってしまった。ここから、徒歩5分程の所に、第一外科豪跡もあり、そこは整備されていないけど見る事が出来るので行ってみた。誰も居ないけど…第二次世界大戦で日本はアメリカに負けた訳だけど、勝ち負けの問題ではなく、戦争をするという事がどれだけ悲惨な事で、民間人を巻込んで大切な命が失われたかという事を、アメリカ人をはじ
伯父伊藤宝城が「倉吉の文化を支えた彫刻家・伊藤宝城」として2022年10月8日の山陰地方の大手新聞に載りました。〈記事内容〉芸術の秋、今日から米子市美術館では第66回県展が始まります。約70年前、第5回県展の開催を前に、県展がより意義ある展覧会になるよう提言した彫刻家がいます。倉吉市在住の彫刻家・伊藤宝城(本名・博)です。宝城の本業は医師で、戦前は大阪、戦後復員してからは生まれ育った倉吉市広瀬町で開業しました。戦前から彫刻を独学で始め、戦後は白セメントを使用した抽象彫刻を創作しました。
2016年・6月のブログから今日/明日過去ブログですが、今回はできればスルーしないで読んでいただければ幸いですm(__)m(8回にわたりブログに掲載した記事なので、重複箇所があります)ふじ学徒隊①琉球処分まで、幕府・薩摩藩の意向により禁制となっていた浄土真宗その浄土真宗西本願寺派・大典寺は、那覇市松山、中国人観光客がよく訪れる福州園の斜向かいにあるその境内に「積徳高等女学校慰霊之碑」がある「ひめゆり学徒隊」は、集団自決等多くの悲惨な犠牲者を出したことで、夙に有名だが、
chairlotです☆^o^人生初沖縄DAY2です。【注意】今回は重い系ですchairlot、小学生の頃から沖縄に行く事が有れば必ずしなければならないと決めていた事。それは戦没者追悼です。それしとかないと僕はですが観光する気になれないです。先ずは『ひめゆりの塔』実際に行く迄は詳細は知りませんでした写真じゃわかりにくいのですが、石碑の麓が洞窟になっているのがわかりますか?洞窟は日本軍の夜戦病院でした資料館へただただ可哀想でした。生存者の方々のビデオは全て見ました。館内の庭
こんにちはannです。読んで頂きありがとうございます私にはある講座で知り合ったスピ友達がいるのですが、その人たちとは月に1回程度、神社やお寺に行ったりお茶したりしていますそのスピ友達の知人から連絡があり、占いイベントの参加者が少ないから参加してくれないか…という内容のようでした場所も近いし行ってみようか、とみんなで向かいました私は今までそんなに占いに興味があったわけでもなく、昔「◯◯の母」とか流行った時に、友達は行列に並んで見てもらっていましたが私は行ったことがありませんでした…さて
今年2022年は(1)〜(5)の予定でしたがメモの一部を、(6)(7)として追加しました残りのメモ書きは来年の終戦記念日前後の予定。(日本から来年の文字が取り去られてなければ)「父母の時代の戦争」2022(6)五首晴れた日は炎の雨が降るという都市伝説に飛ぶエノラ・ゲイ兵隊の服着た写真は既に褪せ父も友らもいのち閉ざせり出征になんら記念の筈もなく撮りし写真は明日の遺影なりとある朝国からいただく赤紙にただ黙す父と泣く母があり敵の地