ブログ記事36件
「いい」っていう言葉が増えてほしいな、って思います。「いいよ」「いいの」「いいね」「いいな」「いいぞ」「いいこ」「いいえ」「いいさ」ほかにもあるかもしれないけれど日常のやりとりの中で「いい」がたくさん増えてくれたらたぶん、なんとなくであれ「いい感じ」がめぐっていくように思います。コトバは意味があるけれど意味だけじゃない不思議な雰囲気や”感じ”
だれかからやさしくしてもらったときぼくもやさしくなります。そして、つぎのだれかにやさしくしようと心がけます。もしかしたら、ぼくのやさしさをうけただれかはそのつぎのだれかへやさしくしようとするかもしれない。そのつぎも、そのつぎのだれかも、と、つづいていくかもしれない。そんなとき、ふとおもうんです。やさしさははじまりは、だれからだろう。だれかわからないならぼくからでもいいの
マイブームなコトバ、っていうのが時々あります。そのコトバを言いたくなるブーム。そのコトバを使いたくなるブームです。つい先日は「慮る」っていうコトバが好きで連呼、連打、してました。正しい意味や正しい使い方は知らずに「慮る」をしてたのですが、あれ、そもそもこの「慮る」はどんな意味なのだろうか、と意味を調べてみました。「よくよく考える」という意味だそうで。なんとなくニュアン
夜にベッドで「パパだっこして」と言われて、久しぶりに抱っこして、寝かしつけをすることになったときのこと。「なんでだっこがいいの?」ときくと「あったかいから」とはじめにこたえて、「それならお布団のなかのほうがあったかくない?」というと、「んー、落ち着くから」と腕の中のムスメが答えました。「落ち着く」なんてコトバ、知ってるんだなあと関心してると、そばにいたオクさんが、「いい言葉しってるね」と。
口ぐせの中に、「あたりまえ」が隠れていることは多い。「でも」「だって」「けど」が言葉にまじわるのはたぶん、「わかってもらえてない」っていうきもちがあって「先にわかってほしい」っていう想いがあるのかも。こどもって、「だって」「でも」「けど」って、いっぱい言いますもんね。それは、ときとして、言われた側はさみしくなったり腹立たしくなったりもどかしくな
「ナンデソンナコトイウノ」。っていうコトバを言うとき考えるとき、なんでそんなこというの「■」。そのコトバのあとにくるのは、クエスチョンマーク「?」より、エクスラメーション(びっくり)マーク「!」がくっついていることのほうが、イライラしてたり、もどかしい気持ちになっていることが多いものです。自分にとって相手の行動や言動が理解できない、わからないとき、だから腹が立ったりがっかりするとき、「なんでそんなことするの!」
ちょっとしたひとことで、「やってみよう」と思ったり「やめてみよう」とふみだしたり、いままでの自分だけじゃない、力を発揮できるときがあるものです。そういうコトバに僕たちは人生の中でなんどか出会っているもので、そのコトバと出会ったおかげで湧き出てきた勇気があるはずです。あなたがいままで勇気をだしたのはどんな場面でしょうか。そして、その場面で、きっかけになったのは、どんなコトバでしょうか。
タフなあなたは、ひとつひとつのコトバに真摯に向き合うことでしょう。聞きたくないコトバ、言われたくないコトバ、遠ざけたいコトバ、見たくないコトバ、そういうコトバにいま無理をして向き合わなくていい。いやなものはいやなものとしてそのコトバにふたしたまんまでいいんだと思います。ふたしたまんまで保存しておいたらいつかふっと、「あ、こんな意味かも」っていう風なあたらしいまな
だいすきな「はじめてのおつかい」を、見ておりました。子供達のコトバに心を動かされるもので、今回の番組の中でも、いくつかのいいコトバに出会いました。「寂しいけど、行く」「怖いけど、がんばる」こういうコトバでした。ママと離れるのは寂しい。お店に一人で行くのは怖い。そういう想いがあるのはやっぱりあたりまえなのですが、「けど」っていうコトバをつけることで、切り替わるのですね。
しあわせな結果を出したいとおもう。できるだけ大きくて、できるだけ美しくて、できるだけ美味しくて、できるだけたくさん。そういう結果こそがすべて、っていう風に思うこともある。でも、そうじゃないなとも思う。結果ももちろん大事で、その大事な結果のために、過程のひとつひとつが大切で、そのひとつひとつの過程をいい感じに重ねていくために、きっと、スタートが大切なのですね。─────────────────────
「コトバはシャリ」。コトバはシャリに似ています。そして、気持ちとか考えとか、価値観とか、そういうものが、ネタ、です。コトバはコトバを伝えたいだけじゃなくてコトバの中に込めたジブンの内側にあるものを、届けたい、わかってほしい、味わってほしい、受け入れてほしい、っていうだなあと。お寿司もきっと、シャリだけを味わってほしいわけじゃなく、上にのってるネタこそがメイン。コトバの場合は目に見えない、
そのコトバがだれのためのものか、っていうのを考えるとその理由がたくさんあると生み出す力が湧いてくる。迷っている余裕を使うよりもっと大事なものが見えてくる。例えば「マスク」どんな理由でつけるのか。「カゼをうつされないようにするのか」「カゼをうつさないようにするのか」っていううちのどちらかだけを選んでいるとしたら理由が、それをする力がちょっと萎えるのかもしれません。他にも「すっぴんを隠す」
「いつでもわたしは正義の味方です」とある、インタビューをみていて、こんなコトバを目に耳にしました。とあるトラブルごとに対して、孤立ぎみになりながらも、渦中にいる方のお母さんが、発していたコトバです。この発言は「正義の味方」というコトバへの僕のまなざしを広げてくれるものでした。「正義の味方」というとどこかヒーロー、ヒロインを思い浮かべてまして。アンパンマン、ウルトラマン、
まるごときれいに、あたらしくしなくてもいいしそのままいままでのまま、つづけてつらぬいてもいい。そういう感じにしたとしたらばどんなコトバを大切にかかげて、スタートしますか。できるだけピンポイントに、できるだけちょうどぴったり、あたらしい自分に見合う、似合う、コトバをひとつみつけて。--------------------------------------------------------
プレゼントを贈りましたか。プレゼントをうけとりましたか。形ないものでも、自分宛と明記がなくてもラッピングされてなくてもコトバのプレゼントはいつでもだれでも自由にうけとることができるのですね。今日はとくにプレゼントを好きなように受け取れるし贈ることもできる、きっかけの一日。プレゼントにどんな想いを込めるか。プレゼントからどんな想いを受け取るか。いつもや、
どんなコトバがプレゼントできるのか、って考えたときに、かならずしもそれは、研ぎ澄まされた名言や、後世に語り継がれる格言、というものでなくていい。かんぺきじゃなくていい。だれかとにていてもいい。まえにいったことあってもいい。ながくてもみじかくてもいい。つたなくてもこむずかしくてもいい。そのコトバを相手や自分がしあわせになるため、に、と願いを込めて伝えることが、プレゼントになるのだと思い
ものすごく大切なことなのに、ためらって、はずかしがって、「なにごともない」ように、コトバにすることがあるものです。ほんとはものすごくがっかりしているのに、「だいじょうぶ」って言ってみたり。ほんとはものすごくさみしいきもちなのに「だいじょうぶ」って言ってみたり。ほんとはものすごくこいしいきもちなのに「だいじょうぶ」っていってみたり。自分だってたいへんなのに「だいじょうぶ?