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結婚生活の終盤、恐らく私はカサンドラ症候群というやつだったのだろうと思う。あの頃は、あの何とも言えない得体の知れない孤独感に苛まれただただとても、苦しかった。とても苦しかった頃この孤独感や元夫に対する心の距離はそんなに簡単には埋められないのだと痛感した出来事があった。元夫は私の誕生日を祝うのがとても下手だった。よくあったお祝いの仕方がカットケーキが、ただ黙って冷蔵庫に入っていたこと。「、、、え?」ってなる。(しかもそこに、元夫はいない)後になってよくよく聞いて
義両親の家で食事をした時、酢の物が出た。義母が言った。「モラ夫くん、あなたの嫌いなキュウリは他の人には入れているけど、あなたのには入れていませんよ。あとから取ったのではなく、最初から別に作っているから。ほら。匂わないでしょ?」
モラハラ夫と離婚について直接話し合ったのは、別居を実行した当日だけだ。これについてモラハラ夫はあとあとまで「直接話したい」「話せば理解し合える」「なぜ会って話さないのか」と言い続けた。最終的にはそれが「話し合いもせず一方的に家を出て行った」「会って話したかったのに勝手に調停の申し立てをした」と怒りに変わった。モラハラ夫と家族の関係を知らない人や調停員からも母からも「話し合いも必要」「向こうにも聞いて欲しいことがあるだろう」「別れるにせよ、相手も直接聞きたいことがあるだろう」
モラハラ夫は、帰宅してすぐにお風呂に入る決まりだった。帰宅は何時かわからない。モラハラ夫が帰宅した時、誰かが入浴中だと私は慌ててお風呂から出るよう声を掛ける。「お父さんが帰って来たから、出て!」それでも、入ってすぐだとなかなか出なかったりする。そうすると段々と夫の顔色が変わる。モラハラ夫がイライラしているのがわかる。怒られる恐怖。「いい加減にしろよ!」「いつまで出ないんだ!」「こっちは仕事をして来て疲れてるんだ!」子どもたちにも、ゆっくりお風呂に入ってもらいたい。でも夫は怖い。
モラハラ夫と離れるしか自分たちの生きる道はないとわかってから、私は猛然と準備を始めた。離婚準備の本を読み、自立出来るかどうか調べた。やることはとてもたくさんあった。ひとつずつ準備を進めながら、もしうまく別居が出来たとしても身体の不調と不眠でフラフラになっている現状で子どもたちを支えていけるのか。とても不安で心細くなった時に、10年来の友人が「この頃元気がない」と声をかけてくれた。思わず現状を話して泣いてしまった。それまで人の前で泣くことは殆ど無かったし、聞いて楽しい話ではないので後悔
母はずっと別居も離婚も理解しようとしなかった。「なぜ相談もなく」「離婚でうまくいった話は聞かない」「モラ夫さんにアドバイスしてくれる方はいないのか」「仲人さんには相談したか」「教育のことは夫に従うべき」「病気はともかく子どもたちの成績が悪いのは母親の責任も当然ある」「学歴を大事に思うのは当たり前」等々。自宅の名義が母なので、明け渡し要請の手紙をモラ夫宛に書いてもらうよう頼んだ。さすがの母も「あなたたちが住めないのはおかしい」と協力してくれた。それ以外母とは離婚について一切相談
こうしてあれこれ思い出すのは、特別なきっかけがあるわけではない。ふと思い出す。嫌だった気持ちや悲しかった思いを反芻する。そしてなぜあの時反撃できなかったのかと自己嫌悪する。今ならこうも言える、ああも言えるということばかりで辛い。モラハラ夫の側にいた時はその考えが全く浮かばなかった。「お前がダメなんだろう?」「俺がこうしないと家族がみんなダメになってしまうだろう?」と言い続けられ、理論で納得させられそれ以上考えることはできなくなってしまう。直接的な暴力を振るわれなくても言葉と態度
離婚を覚悟し話し合いをしたとき。「これまであなたがこうだったのは何故でしょうか」と聞く、私の問いへの答えは、すべて同じ言葉のループだった。「それはそんなつもりではなく、そちらがそんな受け止め方をしているとは思わなかった。まことに遺憾」何を言っても、同じその言葉を当てはめていた。「まことに遺憾」仕事で使い慣れた言葉なのだろう。感情のない、まして家族としての愛情などどこにも感じられない言葉だ。
旅行先ではいつもくたくたになった。子どもたちが楽しみながらもモラハラ夫の機嫌を損ねないよう大人しく過ごせるよう様々に気を遣い、ようやく家に帰り着く。帰路には当然ファミレスもあるし、コンビニやスーパーもある。でも、モラハラ夫は絶対に家で食事を作らせる。「家に何かあるだろう?」「うどんを茹でればいい」帰宅すれば、子どもたちの手足を洗い、服を代えさせ、持ち帰った衣類の洗濯もしたい。モラハラ夫が風呂に入れるように支度もしなければならない。その上、食事。うどんだって薬味が無いと眉をしかめる
長男は困難を乗り越えて高校生になった。公立のとても良い学校に受かった。しかしモラハラ夫は全く入学を喜ばなかった。その学校に長男の学力で受かると思っていなかったことで合否の連絡を非常に気にしていたのに、発表を見た後長男からの連絡が遅かったことで異常な程腹を立てた。携帯電話も持たない長男が、発表を見て手続きを済ませるまで連絡するのは難しかったろう。しかしモラハラ夫は帰宅した長男に、合格を祝う言葉はひとことも言わず怒鳴りつけた。「いくらでも連絡することが出来たはずだ」「こっちが心配してる
このブログを書き始めた時、私は今現在の幸せを感じながらも「あの時はこんなに嫌なことがあったのに、今は幸せで良かった」「こんなに楽しいことがたくさんあるのは、夢ではないか?」など、過去と現在を比べて浮き沈みしてきた。つい最近は仕事相手としてモラハラ(パワハラ?)男を選んでしまい、思い通りにさせようとする相手に振り回され苦しい思いもした。額を打ち付ける自傷行為もなくならない。母との関係も気持ちの整理がつかず、悪いからと連絡を取り気が咎めて会っては、その度に傷ついている。それでも今は、自
最近の出来事。たまたまその月の面会交流日は子供の誕生日の翌日だった。子供は、誕生日の翌日に会えるからお父さんがお祝いしてくれる!と、何日も前から指折り数え待ち侘びていた。いよいよあと5日!となった時元夫からLINEが来た。「今度の面会日、予定が入ったから来週にして欲しい。」あーーーん?子供の誕生日より大事な予定がどこにあるのだ?面会日はとっくのとうに決まっていた。それなのにその日にしなければいけない予定なんぞないに決まっている!(しかも5日前に言ってくるなよ。
モラハラ夫に次男への暴力を強要され、断るという選択肢なく私は「起きなさい」「病院へ行こう」と次男の身体を叩いた。運動で鍛えた身体はがっしりとしていて、私の手が痛かった。悲しくて泣いた。次男も悲しそうな顔でそれを見ていた。あまりの辛さに私は、絶対にしてはならないことをした。寝ている次男の枕元に紐とマッチを持って行き「私たちはお父さんの期待には応えられない。このまま生きていても仕方ない」と迫った。この時、次男はキッパリと「嫌だよ」と私の腕をしっかりと握って動かないように押さえつけた。私
病名がはっきりしてから、私は普段から出来るだけ次男の意思を尊重するようにした。次男はずっと家で寝ていて、生活をどう送るか本人が決めていかなければ何も出来なくなると思った。病院でも医師との話し合いは本人にさせた。服薬の仕方、効果、生活のリズムをどう作るか、現状と自分の心境などその都度私もなるほどと思いながら聞いた。登校は発病当初週に一度くらい出来ていたが、次第に症状が重くなりやがて全く起きられなくなった。受診の際に本人には席を外させ、医師に父親との間柄を簡単に伝えた。病状との関連性を知
調停は滞った。調停とは「話し合い」である。モラハラ夫に「話し合い」はできない。折り合いをつけることをしないので、話はまとまらない。争点は早い段階から徹底してお金だった。うんざりするほど細かく絶対に妥協しない。「あれは共有財産だから査定して半額払え」「自分の非ではなく離婚を切り出され、住む家も追い出された。自分の方が将来の不安があり慰謝料は支払わない」当初主張していた娘の親権については本人が「母親につく」と一筆書いて出すと、すぐに撤回した。私は親権さえあれば権利として得られる常識
これ以上頑張れない。もう解放してほしい。訴えるとモラハラ夫はやはり「そんなつもりはなかった」「それは言葉の行き違い」と言い、「子どもたちのこともあるし、少しゆっくり話し合おう」そして「どうする、お義母さん(私の母)と相談は」と言う。謎の展開だった。何故母のことを持ち出すのか聞いたら「相談の経験が豊富だから、相談してみたらと思う」私たちの問題に母の介入は必要なく、もし第三者の介入が必要なら弁護士を頼んではどうかと言うと「そういう訳ではなく、もうちょっと相談したい」…もう全く
モラハラ夫からの激しい叱責を受け続けた長男は、中学生の頃から短い家出をするようになった。叱責を受けたあとふと出て行って、夜中まであるいは翌朝まで行方が分からない。モラハラ夫は狂ったように「ふざけやがって」「こっちが心配すると思って当てつけて」「警察に世話になったらこっちが悪者だ」と怒鳴り「すぐに探し出せ」と私に探させ、自分も何度か探しに出た。その時のことはずっと「あいつを探しに行って本当に嫌な目にあった」「あいつには散々煮え湯を飲まされた」と言い続けていた。長男はずっと
トピックスに掲載されたとかで、驚くほどたくさんの方がこのブログをお読みくださった。そもそも誰にも読まれなくて良いとスタートしたが、それほど多くの方がモラルハラスメントに苦しんでいるいうことか。家庭環境、教育環境としての関心を持っておられるのか。似た体験があるという方には、擬似的発散や気持ちの整理に役立ったらしい。良かった。読んで嫌な気持ちになった方もいらっしゃるだろう。書き手の私はいったい何故こんなに長く、手をこまねいて子どもを犠牲にしたのかと叱咤の思いを持った方もいらっしゃるだろう
モラルハラスメントは離婚で揉めることが多いとあちこちに書いてあった。プライドが高く自分の非を認めない加害側が、離婚を認めないそうだ。別居だけでも長くなれば離婚が認められる。そのことを知りそれでも構わないとは思ったが、出来ればきちんと離婚したい。誰かに離婚について判断してもらう必要があった。友人が弁護士を紹介してくれて、会う日程を決めた。とにかく、人に恵まれた。多くの人に相談したわけではないが、相手は皆真剣に私の話しを受け止め、一緒に考え、具体的支援を提案してくれた。母には別居してから
呼びかけ方には相手に対する想いが現れる。どのように呼ぶかで関係性が決まるとも言えるだろう。これも私はモラハラ夫から身に染みて感じたことだ。↓↓↓義両親は夫を「くん」付けで呼んでいた新婚旅行から帰ってきたら「お前」社長も職員同士もお客様も同じ呼び方。これは「幸せモンスター」たちが仕掛けた罠だ。誰にでも「ねぇねぇ、あのさ」と呼びかけることで仲良しを演出しながら相手の立場や役職を見えなくして、モンスターの配下に置くためだ。これはまるで「千と千尋の神隠し」で名前を奪われたものたちが働か
長男が小学校高学年になった頃からモラハラ夫が怒ることが多くなった。成績に非常に厳しく、塾にも行かせろと言い始めた。本人の気持ちとは関係なく公立中高一貫校を受験することを命令し、結果は不合格。随分後になって息子から「どうしても地元中学に行きたくて、答案は全て白紙で提出した」とそっと告白された。その長男は地元中学で卓球部に入り、すぐに戦績が上がり最初の試合から選手に指名された。長男が嬉しそうにそれを報告して、ラケットのメンテナンスのために2.3千円のテープなどを買いたいと言ったらモラハラ夫
結婚生活は丸20年。モラハラ夫との離婚は子どもたちと相談して決めた。苦しい日々の中で毎日子どもたちと台所でひっそり丸くなり「また怒ってるよ」「どうして怒るんだろう」「理由が不明」「お母さん、大丈夫?」と不安を共有していた。子どもたちは時には私を労ってくれるようになっていた。「もうこのままやっていくのは難しい。どう思う?」という私の言葉に子どもたちは言った。「いくら自分たちが我慢しても、彼は自分の基準で勝手に怒る。これ以上努力しても無駄。お母さんは充分努力したのだから、もういいのでは」
子どもたちの成績に異常に執着したモラハラ夫。塾に行かせることは命令だった。そして成績が出る度に大声で怒鳴った。「こんなに払ってこのざまか!!」学習塾の夏休みの講習は高額だ。でも「行かない」という選択肢はない。受講申し込みの書類を見せると「こんなに払ってもあのさまだ!一体どういうつもりなんだ!!まじめにやってるのか⁉︎」と怒鳴るだけで、お金を渡してくれなかった。モラハラ夫は決して「ちゃんと勉強をさせないお前が悪い」と言葉にはしない。それなのに私は母親として自分の責任を問われて怒ら
娘が登校出来なくなった頃は、ちょうど他の子どもたちにもたくさんの不具合が現れ離婚を決意した頃だ。家族の様子を見ながら、必死で父親が望むことをしようとした娘。彼女はモラハラ夫にとって「自分の思うようになる子」「よく言うことを聞く子」だった。離婚調停の最初で、モラハラ夫は「娘の不登校の原因は離婚を希望する私の不穏な行動の所為」と言い、3人のうち娘の親権だけを望んだ。
長男が中学生の反抗期に入り、モラハラ夫の思うようにいかなくなり始めた頃。成績が上がらなかった。モラハラ夫は会話のたびにそのことで長男と私を責めた。私は長男がいかにいい子かを話し「もう少し反抗期が落ち着くまで見守って」と言ったけれど「いい子なだけじゃ、だめだろ?」「成績が悪ければ人間として底辺。」「クズ。」「人として価値がない」ずっとそう言われ続けていた。人は、いい子なだけじゃだめなんですか?
生きることを諦めないために、このブログを書く。川崎事件がある意味きっかけと言えるかもしれない。思うことや感じることを書いて、自分で生きることを諦めないために確認したい。
モラハラ夫が別れて暮らすことは仕方がないと認め、これからのことを相談する、そしてこの事を私の母に話すと言って話し合いが終わった。モラハラ夫は普段のように散歩に出かけていった。謎の行動だ。これだけ切迫した話し合いをした後、すぐに日常に戻っていた。モラ夫が出て行ったので子どもたちの部屋に行き、話の要点とモラ夫が別居を了承する事を言ったと伝えた。子どもたちの「がんばれ」の声に勇気をもらい、まとめておいた荷物を持って私は家を出た。電車で座った途端に放心状態になり、気付いたら環状線をひと回り以
『一人空気が読めてない人』『答えは出た。』『その日は突然に。』『無関心』『心の葛藤』何で急にブログ??現実の日々に心が本当に疲れた。SNSもやってる。でも何か疲れるよね。誰かに…ameblo.jp↑この時、元旦那へ答えを伝えたのは長女だった。私が家族の同意を得られたし、何て連絡しようかと考えている間に、感情を抑えきれなかった長女が自分の気持ちをしっかり伝えていた。私たちはお母さんについて行きます!!言いたい事あるなら、しっかりお母さんと話して下さい!!そ
ある朝、出勤前のモラハラ夫が極めて丁寧に私に尋ねた。「わたしの下着はどこにありますか?」モラハラ夫がこういう言い方をする時は、とても怒っている時だ。毎日洗濯は必ず済ませている。「足りない筈はないのですが!」と私は焦って2階へ飛んで行った。下着は箪笥の引き出しに入れていないだけで、すぐ側に畳んで重ねてあった。そのことを告げるとモラハラ夫は丁寧に言った。「箪笥に入れてなければわからないじゃありませんか」
別居から離婚に至る話し合いは最初から難航するのがわかっていた。世間一般でこうした話し合いを仲介するのは親しい友人、先輩、上司、親戚などだと思う。モラハラ夫の周囲には、そういう人物が一切いない。そもそも本人が「友人」と呼ぶ人たちと、同期会やクラス会以外で付き合っていたことは殆どない。忠告やアドバイスを受け入れられるような先輩も上司もいない。義父も義叔父たちも立派な方々だが、モラ夫はその言葉を素直に聞くことは絶対にない。モラ夫は他者の意見を聞かず、あらゆる場面で自己主張はするが「話し合い