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安政六年(1859)頃、二十七歳前後の年で幕臣佐々木家の養子となった只三郎は、御書院番与力に任じられた一方で、その腕を買われ幕府講武所で剣術教授などの役目に任じられたといわれています。この佐々木只三郎の講武所教授就任に関しては確実な史料はないようですが、のちに京都見廻組で同役の与頭となる速見又四郎が講武所槍術世話心得役、高久半之助が同じく講武所剣術世話心得役に任じられていたことが史料ではっきりしているので、佐々木も同様に世話心得役、もしくはそれ以上の役目についていたと考えて、ほぼ間違い
元治二年(1865)は四月に改元されて慶応元年となり、その年の瀬の十二月二十五日、佐々木只三郎は与頭勤方から与頭への昇進を果たします。これは単に階級が上がったというだけでなく、御家人から旗本への昇格であり、将軍に謁見出来る身分になったということで、これは異例の人事でした。同年暮れには中立売通智恵光院付近に組屋敷が完成、更に翌慶応二年(1866)二月に京都文武場が開場すると、久保田善三郎(与頭)、高久半之介(与頭勤方)と共に文武場頭取並に就任しています。一方、見廻組はそれまで命
京都見廻組の隊士で、銃隊の一員として鳥羽伏見の戦いを戦った古川甚之助の手記(『鳥羽伏見の戦いと古川甚之助の経歴』に収録)に、慶応四年(1868)一月六日の橋本の戦いに銃隊司令として戦い、戦死したと記されている土肥仲蔵ですが、実はその墓は和歌山県日高郡由良町の念興寺にあります。※.橋本の戦いの戦場となった河川敷(京都府八幡市橋本)念興寺には会津藩砲兵隊の隊士阿部井留四朗(あべいとめしろう)の墓もあり、寺伝によれば二人は鳥羽伏見の戦いに敗れたのち同地に落ち延びてきて、寺の境内で
かねての手筈どおり渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助つけ入り、佐々木只三郎は二階上がり口罷り在り、私並び土肥仲蔵、桜井大三郎はその辺に見張り居り候(刑部省口書元京都見廻組今井信郎口上)慶応三年(1867)十一月十五日の夜、河原町通蛸薬師下ル(四条上ル)の醤油商近江屋の二階に下宿していた土佐の坂本龍馬を、京都見廻組の与頭(くみがしら)佐々木只三郎ら七名が襲撃し、たまたま龍馬を訪ねて来ていた中岡慎太郎もろとも殺害しました。世に言う近江屋事件です。その近江屋事件の襲撃者のうち、渡