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こんにちは♬.*゚連休最終日、予報通りに朝起きたら雨でしたξ(๑˘・з・˘)ブ-ま、明日からの仕事に備えてゆっくり休むにはイイかwでは、昨日の続きを…┏○ペコッ佐伯の【海の市場】で朝ごはん、まで書いてたっけ?その後は、せっかくなので九州最東端を見て帰ることに♬.*゚٩(๑•̀ω•́๑)وオー!!駐車場に着いてココから先は徒歩になります。ププ━(〃>З<)━ッッ!!!結構な山の中で、勾配も凄くメルはすぐに降参wパパに抱っこをオネダリでした。可愛いねぇꔛ
◆起工:昭和11年(1936年)7月20日◆竣工:昭和13年(1938年)3月31日◆備砲:四五式十五糎加農砲改造固定4門◆設置標高:64m乃至77m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→棹崎(さおざき)砲台は対馬北部の西岸に構築され、海栗島砲台や郷崎砲台とともに、味方艦船の航行の安全を図ることを任務としていました。対馬の全体図です。なお、砲台が設置された棹崎は「日本最北西端」となります。モニュメントが立っています。砲台の見取図
※2023年11月27日書き直し芋崎砲台は浅茅湾南部の芋崎に構築された砲台です。湾口および湾内一帯を射撃して敵艦の侵入と碇泊を阻止することを任務としました。明治27-28年(1894-95)の日清戦争で戦闘配置に就いた後、明治30年(1897)から明治33年(1900)にかけて大改築を行いました。さらに明治35年(1902)にも改築されたのち、明治37-38年(1904-05)の日露戦争で動員されました。日露戦勝後の要塞整理議論において廃止砲台の部類となり、大正6年(1917)に防
八丈島には旧日本軍施設が多数点在しています。まず人間魚雷「回天」二号壕跡に行きました。ここには4基の回天が格納されていたそうです。八丈島直射砲台跡に行きました。中はかなり奥までありそうですが、水の音が聞こえ、危険そうなので引き返しました。なお、GoogleMapsには出てきませんが、八丈島には鉄壁山地下司令部壕、神止山地下連隊本部壕もあるそうです。旧日本軍の施設ではありませんが、八丈島直射砲台跡の近くには人捨穴という遺跡があります。昔、飢饉の時、人減らしのため、老人を捨てた穴だそう
こんにちはこの日は今年入って初めてメッシュジャケットで出かけたよんゆっくり目のスタートやったんで寒くもなければ暑くもないちょうどええやん和歌山県伊都郡九度山町かじかドライブインカジカガエルがお出迎えおでん🍢が美味しいらしいそら食べるよね〜〜めっちゃ味がしみてて美味しかったねんそのあと紀の川フルーツライン楽しんで向かった先は、和歌山県和歌山市にある深山第一砲台跡10分ほど山を登るよ弾薬室も覗きに行ったんやけど真っ暗で奥は見えなかった展望広場からの眺めは最高でし
明治期における対馬要塞では、明治20年(1887年)の温江砲台から始まり、明治39年(1906年)の多功崎砲台の竣工まで、15か所に堡塁砲台が築城されました。その後、明治38年(1905年)の日露戦争での勝利によって海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(1910年)から始まった要塞整理の審議の結果、大正2年(1913年)および大正6年(1917年)には以下の堡塁砲台の廃止が決まりました。「四十八谷砲台」「大平高砲台」「大平低砲台」「城山砲台」「城山附属砲台」「根緒堡塁(武隈山堡塁)」
対馬は九州の北方、玄界灘に浮かぶ島です。行政区分では、明治9年(1876年)8月に長崎県の管轄となり今に至っています。また、朝鮮半島に近いため古来より大陸との文化的・経済的交流の窓口としての役割を果たしてきましたが、その一方で、明治期になると国境の最前線として国防上重要な拠点に位置付けられるようになりました。そこで明治4年(1871年)に健軍された大日本帝国陸軍は、明治11年(1878年)に対馬分遣隊を派遣、明治19年(1886年)には分遣隊を改編して対馬警備隊として対馬の防衛にあたることに
※2023年12月5日書き直し大平高砲台は、大平低砲台ととともに布設水雷の側防を任務として浅茅湾(浅海湾)南部に構築されました。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では斯加式十二糎速射加農4門をもって戦闘配備に就きましたが、戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(1910)から始まった要塞整理議論の結果、大正2年(1913)に砲台の廃止が決定されました。◆起工:明治31年(1898)10月20日◆竣工:明治34年(1901)10月5日◆備砲:斯加式十二糎速射加
小倉北区と門司区の境界に位置する田向山(たむけやま、現在の表記は手向山、標高76m)には、明治期に下関要塞の砲台が築かれましたが、昭和期の大東亜戦時下には砲台跡地に高射砲陣地が置かれました。場所はこちら。(北九州の防空についての概略はこちら→→→)大東亜戦争が始まった昭和16年(1941年)12月の西部防空旅団の展開位置表を見ると、田向山には防空第22連隊第1大隊第2中隊の高射砲中隊が駐屯していました。その後西部高射砲集団に改編後の昭和19年(1944年)9月の編成表では、高射砲
※2023年11月23日に書き直し大平砲台は対馬要塞で最初に起工された砲台です。(竣工は2番目)布設水雷の防御を任務として浅茅湾(浅海湾-あそうわん-)南部に構築され、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では他の3砲台(温江、芋崎、大石浦)とともに戦闘配置に就きました。戦後には新たな対馬防御計画に基づき、大平砲台の後方高地に大平高砲台が明治34年(1901)に構築されました。おそらく高砲台建設が決まった時点で大平砲台に“低”の文字を付与して大平低砲台と区分けされたと思われま
月末のシティロゲイニングの下見に行ってきましたまず、今日は走って最寄り駅から宮島口へ🏃走ってる時は、ゆっくりと快適に走れましたが、宮島口に着くと汗が💦フェリー乗り場は風が強く、汗冷えしました。隊長と合流して、宮島へ。私のチームは5時間コースなので範囲が広範囲になるはず。今日の目的は、①ロードで行けるところまでいく(宮島一周は、つながってません、たぶん)②宮島ロゲイニングのfacebookに載ってた箇所を見つけるこれ↓場所の名前は載ってなかったので、この写真だけが頼り。まず
郷山砲台は浅茅湾(浅海湾)の湾口南部の尾崎半島に構築され、湾内に侵入せんとする敵艦を撃退する任務を持っていました。明治37-38年の日露戦争時に着工されましたが完成したのは戦後でしたので、結果的に戦争には間に合いませんでした。明治期の堡塁砲台は昭和初期までに廃止された所がほとんどですが、『現代本邦築城史』を読むと郷山砲台は廃止されたことが書かれていませんので、大東亜戦争時の昭和17年(1942)時点で残置されていたようです。◆起工:明治37年(1904)8月11日◆竣工:明治38年(1
※2023年12月1日書き直し後編では大石浦第一砲台を見に行きます。見取図です。第二砲台は2砲座2門でしたが、こちらは4砲座4門です。しばし歩くと切通しが現れますが、ここが第一砲台の入口となります。切通しを抜けると第2砲座と第3砲座が見えます。第3砲座です。大石浦にある6つの砲座には、いずれも弾室が設けられていません。第2砲座です。あいかわらず胸墻が低いですね。第2砲座後方にコンクリート製のスロープが残っています。このスロープは第2砲座しか確認できません
(2022年7月15日に全面書き換え)今日から新しいカテゴリーとして導入する「北九州の防空」では、北九州~関門地区に展開した陸軍の防空部隊を取り上げます。ここで言う防空部隊は主に以下の4つとなります。********************************高射砲陣地…高射砲6門編成を基本とする一個高射砲中隊照空陣地…照空灯や聴音機を有する一個中隊および指揮下の一個分隊電測陣地…電波標定機(対空射撃管制レーダー)を有する一個小隊/分隊警戒機陣地…超短波警戒機(対空警戒レー
前回に引き続き今回も2年前の記事を書き直していきます。矢筈山堡塁は北九州門司区大里に聳える矢筈山(標高266m)の山頂部に築城されました。現在は北九州市のキャンプ場になっていますが、当時の遺構を取り入れた造りとなっていますので、破壊の多い下関要塞砲台群の中では非常に良好な状態であり見応えがあります。堡塁の簡単な履歴です。◆起工:明治28年(1895年)8月21日◆竣工:明治31年(1898年)3月31日◆備砲:9㎝加農砲4門、15cm臼砲4門、機関砲2門◆設置標高:25
ラピュタの島と言われる神秘的な島、和歌山は友ヶ島、以前からとっても行ってみたい場所でした!そんな念願の友ヶ島の旅行記を書いてみたいと思います。2021年5月時点の最新の情報ですので参考にしてみてください。今年は梅雨入りが早く5月に入ってから週末は常に雨だったので、今日は久しぶりに晴れて旅行日和♪【行き方】なんば~和歌山市駅~加太駅南海電鉄サザン特急でなんばから和歌山市駅まで1時間弱です。和歌山市駅で加太行きに乗り換えて約30分弱。ここでお得なチケットの
大日本帝国の勝利で終わった日清戦争(明治27~28年,1894-95)の結果、朝鮮半島と本土の間に位置する対馬の重要性はこれまで以上に増してきました。そこで対馬防衛の見直しが検討されることになり、明治29年(1896)に「對馬第2期防御計画」が策定されることになりました。計画の骨子は浅茅湾(あそうわん、浅海湾とも)の防御の拡張と、新たに三浦湾の防御を担う砲台の構築にありましたが、特に浅茅湾においては明治29年4月に湾内の竹敷港に海軍の要港部が設置されたこともあり、より強固な防御ラインを築
和歌山と淡路島の間を流れる紀淡海峡。そこを外国軍船に通過されると、大阪が危機的状態になってしまう。そこで、設けたのが由良要塞。その一部を構成する友ヶ島砲台群が推奨土木遺産に選ばれているので、見に行くことにした。その前に、机上調査を行っていた。そこで、ほとんどの文献は、日本陸軍出身の浄法寺朝見工学博士が著した『日本築城史』に基づくことがわかった。これは、出展元の本を生で読んでみたい・・・そう思ったが、絶版であり国会図書館に読みにいかなければならないようだ。そこで、やむをえず、和歌山県発行
《陸軍東山高射砲陣地》神戸市の六甲山系・摩耶山の登山コースの途中にある山「東山」(市の地図での標高は372.6m。地形図では360mの等高線ピーク)は、ハイカーの間では古くから「砲台跡」の存在が知られていました。先月末、記述したように私はこの正月、神戸市に坂本龍馬の史跡・伝承地を訪ねたのですが、やはり戦争遺跡も探訪したいため、調べたところ、この「砲台跡」がピックアップされたのです。この戦跡は戦争末期、陸軍高射第三師団隷下の高射砲第123連隊が築いた高射砲陣地。山上とは言え、大都会・神
※2023年12月21日に書き直し上見坂(かみざか)堡塁は、対馬中部の厳原町上見坂の標高390mピーク周辺に構築された陸正面防御の堡塁です。「佐須阿連、小茂田及び厳原方面より侵入せんとする敵を防止し、根緒堡塁と相待って鶏知平原を援護」することが任務とされ、明治37-38年の日露戦争では戦闘配置に就きました。◆起工:明治34年(1901)8月1日◆竣工:明治35年(1902)11月30日◆備砲:九糎加農4門、三十一年式速射野砲(※諸説あり)4門◆設置標高:390m/386m
※2023年12月1日書き直し大石浦砲台は浅茅湾(浅海湾)北部の大石浦北西ピークに構築された砲台です。対馬要塞築城第1期4砲台のうち最後に築造されました。任務は芋崎砲台と同様に湾口および湾内一帯を射撃して敵艦の侵入と碇泊を妨害することで、明治27-28年(1894-95)の日清戦争では対馬警備隊が動員され本砲台も二十八糎榴弾砲6門にて配備に就きました。日清戦後、新たな対馬防御計画で四十八谷砲台と大平高砲台が新設されることになったため大石浦砲台は不要となり、明治31年(1898)1月に廃
※2023年12月3日書き直し明治29年(1896)に策定された「対馬第2期防御計画」に基づき明治31年(1898)から堡塁砲台の工事が始まりましたが、四十八谷(しじゅうやたに)砲台は築城第2期において最初に起工された砲台です。浅茅湾(浅海湾)の湾内中央に位置する島山島に構築され、湾口を縦射して敵艦の侵入を防ぐことを任務としていました。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では二十八糎榴弾砲6門をもって戦闘配備に就きましたが、戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治43年(191
「芋崎電燈所」は、芋崎砲台の北、芋崎先端の標高35mピークに位置しています。浅茅湾(浅海湾)の地図です。拡大して見るとこんな感じ。芋崎砲台から歩くこと15分で電燈所に到着します。掩蔽部の内部です。この掩蔽部は操作室で、射光機(探照灯)は操作室奥の電燈井と呼ばれる空間に格納され、使用する際には手巻きリフト(エレベーター?)で照明座まで引き上げる方式となります。一段低い所に電燈井への出入口があります。電燈井の中から見上げています。この電燈井を通じて射光機を
風車展望所@福岡県宗像市大島【福岡県宗像市帰り旅行備忘録】世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群大島:レンタカー観光ルート大島ターミナル>>宗像大社中津宮>>夢の小夜島>>世界遺産記念碑(沖津宮遙拝所)>>御嶽山(みたけさん)展望台>>砲台跡(風車展望所)>>筑前大島灯台・馬蹄岩>>津和瀬の海岸キャンプ適地>>夢の小夜島(2回目・トンボロ)>>大島ターミナル走行距離約4Km移動時間15分位~+観光砲台跡・風車
◆起工:昭和4年(1929年)5月10日◆竣工:昭和9年(1934年)3月31日◆備砲:四十五口径四十糎加農砲2門(砲塔1基)◆設置標高:45.4m◆参考リンク:「対馬要塞の概略(昭和期/第三次築城期」はこちら→→→豊(とよ)砲台は対馬北端、現在の上対馬町鰐浦に構築されました。釜山の鎮海湾要塞と協力し、朝鮮海峡における敵艦の脅威を排除して航行の安全を図ることを任務としていました。場所はこちら。豊砲台には連装砲塔である45口径40糎加農砲1基が装備されましたが、これはワ
※2023年11月22日書き直し温江(ぬくえ)砲台は対馬要塞で最初に竣工した砲台です。一重崎~明瀬鼻間に設ける布設水雷の前面を防御することを任務として浅茅湾(浅海湾-あそうわん-)北部に構築されました。明治27-28年(1894-95)の日清戦争では、対馬警備隊が動員され本砲台も配備に就きましたが、その間、防御すべき布設水雷の位置が一重崎~犬ノ首間に変更され、本砲台から遠方に離れることになりました。さらに日清戦後の明治29年(1896)には、竹敷に海軍の要港部が設置されたことに伴い、新
※2023年11月29日書き直し後編では掩蔽部と両翼の観測所を見て行きます。第1砲座の後方に半地下式の掩蔽部が3つ設けられています。堡塁砲台ではお馴染みのレンガ造りの掩蔽部ですが、明治21年の対馬要塞築城第1期ではほとんど石造りでレンガは使われていませんので、これら掩蔽部と観測所は明治30年代の改築で造られた物だと推測されます。角度を変えて。掩蔽部の間の隙間は右翼観測所に上がる階段です。=================左側の掩蔽部です。3つのうち一番小さいですが
※2023年12月3日書き直し後編では後方施設群を見た後で観測所に向かいます。砲座の後方には複数の削平地が設けられていますが、建物自体は残っておらず瓦礫と化しています。さらに建物の基礎も不明瞭ですので、どのような用途の建物がどこの削平地に建っていたのかも推測できません。史料に書かれている建物は以下の通りです。・兵舎:33m×5mが2棟、9m×3mが1棟、木造洋式切妻屋根・将校室・炊事場・弾廠(装薬調整所、炸薬填実所込み)・砲具庫・糧食支庫・監守衛舎:18.
【22年5月8日探索・23年3月3日公開】砲台下の扉の中に入って行くと、こんな謎の穴があった。これ、何だろう?煙突・・・ではないようだが。穴の上を見ると、明るかった。これ、たぶん空気取り入れ口だろう。白化している煉瓦により仕切られている部屋に入る。ここもたぶん棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ・兵士の待機室)だろうと思われる。奥から振り返った。ここのレンガ、ずいぶん派手に白化しているが、大丈夫か?外に出た。
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