ブログ記事1,160件
今日は舞鶴湾口西側の半島付け根に築城された建部山(たけべさん)堡塁をレポートします。なお“建部山”は「たけべさん」或いは「たてべやま」と呼ばれているようですが、本ブログの記事では前者の呼び名で書いていきます。地図で場所を確認します。堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)9月1日◆竣工:明治34年(1901年)8月31日◆備砲:十二糎加農砲4門【明治34年12月備砲完了】◆設置標高:313.10m◆廃止:大正8年(1912年)要塞整理にて兵備表より除去→大正15年
明治37年(1904年)2月、日本とロシアは戦争に突入しました。本土沿岸の陸軍要塞には部隊が配備され射撃準備を整えましたが、海軍においても湾口や海峡に水雷の敷設や水雷艇による警戒が行われました。紀淡海峡には水雷の敷設は行われませんでしたが、その代わりに、深山地区の男良谷(おらだに)に水雷砲台(発射場)が明治37年6月1日に設置されました。由良要塞は陸軍なのでこのカテゴリーで海軍は関係なくね?って感じですが、戦時下には由良要塞司令官が陸海軍部隊を統率しましたので、併せて紹介していきます。何
先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです
後編では地下壕Bと砲座Bを見ていきます。まずは配置図です。前編でも書きましたが、現地ではGPSの精度低下で正確性を欠きましたので、上図はあくまで参考程度と言うことで。洞窟砲台構築に至る経緯や場所は下記リンクをご覧下さい。◆下関要塞の本土決戦準備→→→砲座Aの坑道入口から南東に上がっていくと、地下壕Bの入口があります。入口は奥ですが、石垣で道筋が出来ています。入口です。半ば埋まっていますね(^^;)入ってみましたが、しばらく進むと行き止まりでした。写真は行き
蓋井島(ふたおいじま)は下関市吉母(よしも)の沖合約6kmの響灘に浮かぶ島です。周囲約10kmで、35世帯81人が暮らしています。(令和5年4月1日現在)島中部の金比羅山(標高148m)から南東部の乞月山(こいづきやま)を眺めています。島に渡るには市営渡船を利用します。本土側の吉見港から1日2~3便が往復しており、乗船時間は約40分です。季節や曜日によってダイヤは異なりますが、4~9月の土日祝日なら最大6時間半ほど島に滞在できます。なお吉見港には船着き場の前に有料駐車場(1日400
こんにちは。今日は大分気温が高いです。散歩すると汗ばむくらい。艦体と船体私のブログでは、艦体という単語を使っています。艦尾、艦首、艦舷、艦橋など、軍艦の部分を表す単語には「艦」が用いられます。同様に、軍艦の船体なので艦体と言う単語を使いましたが、どうやら誤りのようです。正しくは船体とのことです。艦体は艦隊と同音であり、誤解する可能性があると言う理由から、船体と言う単語を使うのだそうです。このブログでは今後、船体と言う単語を使うことにしました。前回までの赤城左舷側はだいぶ完成に近づきま
砲台内部の見取図です。(現地説明板より)見取図①の「砲塔井」内部から壁を見上げています。崩れている箇所は暴発事故によるものなのでしょうか。真上を見上げています。「砲塔井」への出入口の横壁に丸い穴が見られます。弾丸を出し入れしたのかな?螺旋階段を上がって、上から見下ろしています。幅10m、高さ13m。黒崎や的山大島の砲塔砲台と同じサイズですね。ちなみに黄色の線はアート作品です(・∀・)砲塔の配置はこんな感じだったようです。(現地説明板より抜粋)砲塔内部はこ
4年ぶりに再訪した小呂島ですが、一番の目的は電燈所を探すことでした。電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助が任務でした。要塞砲台に付属設備として構築され、小呂島にも砲台北方島端高地に設けられたことが史料に書かれています。地図で確認します。電燈所の正確な場所は不明ですが、「砲台北方島端高地」は北端にある標高44mピーク以外に考えられませんので、砲台から北に向けて伸びる交通路を辿ってみました。途中から激ヤブになり道をロストする場面もありましたが、
今日は壱岐島の南西に浮かぶ長島に構築された長島電燈所をレポートします。**************************長島は大島、原島とともに渡良三島を構成しています。3島を巡るフェリーが壱岐の郷ノ浦港から出ていますが、長島と大島は珊瑚大橋で繋がっています。地図で場所を示します。壱岐島から見た渡良三島です。長島から大島に架かる珊瑚大橋を見ています。*********************************長島電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)によ
土曜日に結局また舞鶴まで行きましたー笑っ戦艦を見学できるのは土曜日だけだったので…赤レンガパークに車を止め、係留所まで歩きます(15分くらい)受付で住所、年齢、何人できたかを記入します(代表者のみ)299家族目〜あとひと組あとなら、300やったな〜本日の見学船は護衛艦ふゆづき‼️↑砲台‼️意外と小さい…↑ファランクス艦内を通り、後方のカタパルトへここからヘリが飛び立つみたいです‼️カッコええなぁ〜今日は珍しく若い女性隊員のかたがいてましたいや普通にかわいいんです
◆参考リンク:「豊予要塞の概略」はこちら→→→大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)になると、本土決戦に備えて洞窟陣地を構築し、火砲を移設する作業が各地で行われました。「佐田岬穹窖砲台」もその一つで、鶴見崎第二砲台から移設された三八式十二糎榴弾砲4門を配備する穹窖砲台(洞窟砲台)が構築されました。佐田岬の地図でその場所を示します。佐田岬の先端、灯台下と御籠島に2門ずつ砲台が作られました。現在御籠島の砲台は見学できるように整備されていますが、灯台下の方は外観を見るだけとなりま
久々の由良要塞探訪です。友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。砲台の履歴は以下の通りです。◆起工:明治23年(1890年)11月29日◆竣工:明治25年(1892年)5月25日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲2門◆砲座設置標高:75m、72m◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止※由良要塞の概略はこちら→→→見取図です。地下弾薬庫から砲座間
めちゃくちゃお天気が良い日に英駐在時代お世話になったM氏にお誘い頂いてM氏のホームコースの中津川カントリークラブでラウンドして来ました。『もう散っちゃったかな。』と思った桜も満開で皆感激してお花見ラウンドになりました。が・・・ガードバンカーにがっちりガードされたグリーンが難しくて。止める球を打たないとグリーンに乗せてもコロコロオーバーするし、手前にと思えばガードバンカーもしくは砲台気味のグリーンで戻って来るとか。もう泣きそう。
前回までの赤城艦橋付近の左舷側高角砲を組み立て中です。塗料がないため、リノリウム床の塗装で足踏みしました。艦体の合体前後に別れていた艦体を組み付け、ようやく合体しました。105センチの大きな模型の爆誕です。整理が悪く、中の配線がごちゃごちゃになってます。一応、個別に巻いてあったのですが、艦体合体時にほどけてしまいました。リノリウム床リノリウム床を塗装してから、リノリウム抑えを真鍮線で再現しました。↓こんな感じです。えぇ。この段階では下の床は軍艦色のままです。リノリウム床なんですが、
防備衛所の見取図です。後編では防備衛所の核となる衛所(聴音所)を見ていきます。間取りを書きましたので、これに沿って紹介していきます。各部屋の用途については『4派遣隊所在各地区(14)小呂島派遣隊』に記載の内容から推察しています。「海軍望楼」と書かれた看板から山道を登っていくと入口前に到達します。入口から入って内部を見ています。入口左側の部屋が「聴音室」です。右壁上方に「指揮室」と繋がる開口部が見えます。「兵員室」と、奥の壁の下が黒い辺りが「電池室」になります。
下関市みもすそ川町の火の山山頂には「火の山公園」がありますが、園内に【戦艦大和の砲弾】が置かれています。火の山公園の場所には、明治期に築城された下関要塞火の山砲台がありました。戦後、この遺構の一部を保存しつつ公園として整備されましたが、砲台については既にブログでレポートしましたので、詳しくはそちらをご覧ください。『下関要塞探訪①~火ノ山砲台第四砲台(前編)』◆起工:明治22年(1889年)1月4日◆竣工:明治24年(1891年)2月28日◆除籍までの経過:・大正8年(1919年
後編では第一砲座から北に向けて歩いて行きます。各砲座間には横墻が築かれていますが、その下に砲側庫(弾薬庫)が置かれています。第一砲座(右)と第二砲座(左)の間にある横墻と砲側庫入口を見ていますが、入口は塞がれてしまっています。なお弾薬庫からの給弾は左の砲座に行われますので、これは第二砲座の砲側庫となります。隙間があるので覗いてみた。灯り置きの小窓が付いた弾薬庫が2部屋並んでいるようです。見ての通り内部はレンガ積みですが、積み方はフランドル積みですね。前回
その4では両翼の側防穹窖を取り上げるとともに、北端の地下にも匣室が設置された可能性について考察していきます。まずは堡塁の定義を明治期の史料から抜粋します。「堡塁とは近戦自衛の設備を備え陣地の支点又は複郭たる任務を有する防御営造物である。堡塁の形状は通常平扁なる多角形にして之に平行せる壕を設け、壕内は外岸側防穹窖又は「カポニエール」と称する特別の側防設備に依りて側防す。咽喉部も亦側防の設備を為す。而して壕内の側防には小口径速射砲若しくは機関砲を備ふるものとする。」定義の通り龍司山
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
その2では地下発電所から見ていきます。発電所は地下に造られています。内壁には迷彩が施されていますが、その1で紹介した迷彩建物とは違ってこちらは鱗状になっていません。間取りを描いてみました。右手に物置のような凹みがあります。左手に開口部があるので入ってみると...。デカくて深い貯水槽が現れました。貯水槽の内壁に鉄製の梯子が残っています。左側に土管と奥の壁に丸い穴があります。丸い穴の地表露出部分はおそらくコレ。こんなところにも迷彩が施されてお
その2では砲座を見ていきます。弾薬庫③横の階段を上がって高塁道へ。左折すると第3砲座、右折すると第2砲座ですが、まずは第3砲座から。見ての通り荒れていますね。って言うか砲座は3つともあまり状態がよくありません。*************************************高塁道に戻ります。奥は第2砲座ですが、右壁には2つの階段があり、その一つは指揮所に上がる階段です。指揮所は左翼と右翼に1つずつ配置されています。指揮所への狭い階段です。階段を上がって行き止
その3では穹窖砲台をレポートします。昭和20年(1945)になると本土決戦が現実味を帯びてきたため、露天砲座に配備されていた沿岸砲台の火砲を洞窟に移す作業が各地で行われました。壱岐要塞界隈でも作業が進められましたが、『壱岐要塞兵備資料』には「十五加砲台(名烏四、渡良四、生月ニ)は火砲を洞窟内に収容し射撃準備を完了し附属坑道を構築中にして九月十旬完了の予定なり」と書かれています。洞窟砲台=穹窖砲台は第4砲座周辺に2つ現存していますが、上記史料では渡良大島砲台の4門すべてを洞
【22年5月8日探索・23年3月3日公開】砲台下の扉の中に入って行くと、こんな謎の穴があった。これ、何だろう?煙突・・・ではないようだが。穴の上を見ると、明るかった。これ、たぶん空気取り入れ口だろう。白化している煉瓦により仕切られている部屋に入る。ここもたぶん棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ・兵士の待機室)だろうと思われる。奥から振り返った。ここのレンガ、ずいぶん派手に白化しているが、大丈夫か?外に出た。
水平砲台とは対艦射撃を任務とする火砲を設置した砲台のことです。対馬警備隊においては初山と勝本の2ヶ所、いずれも壱岐島に配備されています。(対馬海軍警備隊の概略はこちら→→→)派遣隊地図で場所を確認します。初山・勝本の両砲台には四十口径十一年式十四糎砲が2門ずつ配備され、初山が南側の壱岐水道、勝本は北西の対馬海峡東水道を射撃の首線としています。本土決戦が近づく大東亜戦争末期に陣地の構築が行われましたが、『引渡目録』を読むと火砲の装備は進んでいたものの施設自体は未完成だったようです
小呂島(おろのしま)は、福岡市姪浜港から約45km北方の玄界灘に浮かぶ島です。現在の行政区分は福岡市西区となります。(対馬海軍警備隊の概略はこちら→→→)対馬警備隊派遣隊の地図で場所を確認します。なお小呂島には海軍の防備衛所だけではなく陸軍の砲台も構築されていました。既に探索済みでレポートしていますので、ご興味ある方はご覧ください。『壱岐要塞探訪⑥~小呂島砲台』◆砲台名:小呂島砲台◆起工:昭和10年(1935年)4月15日◆竣工:昭和12年(1937年)3月20日◆備砲:4
[広島湾要塞]包ヶ浦弾薬本庫(宮島地区)→広島陸軍兵器補給廠包ヶ浦分廠厳島(宮島)東〜大奈佐美島の間にある4つの砲台、宮島(厳島)西〜本土(大野浦)の間にある1つの砲台のための弾薬本庫。広大な敷地内には火薬本庫、火具庫、弾薬庫、弾丸本庫、装薬調製所、炸薬填実所、兵器小修理所、兵舎、糧食支庫などがおかれていた。広島湾要塞廃止後は広島陸軍兵器補給廠包ヶ浦分廠が使用。還送弾薬処理、弾薬調整貯蔵などの用途で使用していたようだ。宮島口フェリー港から包ヶ浦に向かって市道43号線を歩く
今日取り上げるのは観音崎第二砲台です。以下、簡単な履歴です。************************************・名称:観音崎第二砲台(北門第二砲台)・起工:明治13年(1880)5月26日・竣工:明治17年(1884)6月27日・備砲:二十六口径二十四糎加農6門→明治22年:4砲座に種類の異なる火砲を据付(のち撤去)→明治27年:二十六口径二十四糎加農4門据付→明治30年:二十六口径二十四糎加農2門据付・廃止:関東大震災(大正12年9月1日)で被
友ヶ島には昭和期に建設されたと思われる穹窖砲台が残っています。穹窖(きゅうこう)砲台、つまり敵から秘匿するために洞窟をこしらえて、その中に火砲を据え付けた砲台のことです。現存しているのは1つの砲座だけで、巷間では第五砲台の備砲である斯加式三十口径十二糎速射加農を移設したと言われています。第五砲台のレポートはこちらをご覧下さい。『由良要塞探訪⑳~友ヶ島第五砲台』◆起工:明治33年(1900年)1月2日(現代本邦築城史による)◆竣工:明治38年(1905年)3月31日(現代本邦築城史によ