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先に「終戦時、軽井沢のアメリカ人資産Part2」の中で戦前、レーモンドが軽井沢に所有していた別荘は1372番と899番と書いた。これらは1939年頃の「軽井沢別荘案内図」で位置と彼の名前が確認できる。(ただし同地図には1372番はふたつある)一方南ヶ丘に建てた「夏の家」は別荘で兼夏の仕事場としても使われていたが、昭和12年(1937)の離日後間もなく売却されたので先の地図にはレーモンドの名前は無い。こちらは現在はタリアセンに移築され、昨年は重要文化財に指定された。筆者は昨年レーモンドの愛弟
西武池袋線の6000系6107Fが3月18日を最後に池袋線からが新宿線へ転属しました。2023年10月5日秋津で撮った6107F通勤準急池袋行きのです。西武6000系6107Fが3月18日を最後に池袋線から転属-レオナと鉄道西武池袋線の6000系6107Fが3月18日を最後に池袋線の運用を離脱し新宿線へ転属しました。2023年10月5日秋津で撮った6107F通勤準急池袋行きのです。ameblo.jpyamanote11-103.hate
当ブログでもこれまでもご紹介しておりますように、去る9月23日のダイヤ改正をもって、九州内で運行されておりました415系電車の鋼製車(100・500番台)が全車運用を離脱しておりまして、現在九州各地に疎開留置された姿を見る事ができております。改正前まで運行されておりました415系電車の鋼製車は、大分車両センターに16編成64両、鹿児島車両センターに5編成20両がそれぞれ所属しておりましたが、今回の改正でこれら全車が運用を離脱するに至っております。これは、西九州新幹線開業に伴
先に箱根の富士屋ホテルの建物を中心に紹介したのに続き、本編では戦時下のホテルの住人(疎開者)について述べる。1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告をして第二次世界大戦が始まると、敵国となった外国人は原則抑留される。外交官も例外ではなかった。富士屋ホテルには37名の主に東京の外交官が収容され、本国への送還を待つことになる。英国大使ロバート・クレーギー一家、ベルギー大使一家、オーストラリア公使一家他である。(外交史料館)ただしその後中南米の外交官も加わり70名に及んだ。(『消えた宿泊名簿』
第二次世界大戦終盤のドイツ人を中心とした箱根方面への疎開をみた場合、彼らの受け入れ先として筆頭に上げねばならないのは、現在の富士屋ホテルチェーンである。主として次の施設が挙げられる。1富士屋ホテル(宮ノ下)2箱根ホテル(芦ノ湖畔)3富士ビューホテル(河口湖畔)4富士屋ホテル仙石ゴルフコース(仙石原)5箱根駅伝ミュージアム(箱根湯本)これらの内今回は河口湖畔の富士ビューホテルを除いて訪問してきたので、まずは富士屋ホテルに関し、美しい建物群を
前回の記事では、「三刀屋に戦争があった頃の話~三刀屋の子ども達と戦争」について紹介しました。三刀屋へは、1945(S20)年5月14日に大阪市天王寺区の大江国民学校の子ども達約100人が、「再疎開」でやって来ました。「再疎開」とは、疎開地の安全性や諸事情により、他の場所へ移動して疎開生活を続けることを言います。大阪府中河内郡(現・東大阪市)へ疎開していた大江国民学校の丸井靖夫さん(当時国民学校3年生)は、4年生になって間もなく島根県へ再疎開します。3月14日の大阪大空襲による大阪周