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建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、そのような字義で捉える者などいない。院政という概念が誕生した後の後院別当とは間もなく始まる院政のキーパーソンに任命されたことを意味する。土御門通親の後院別当就任により、間もなく後鳥羽天皇が退位すること、退位して後鳥羽院政が始まること、後鳥羽院政において土御門通親が重用されることが決まったのだ。そして、次期天皇が事実上公表された。建久
画像多めでございます。一昨年のNHK大河【鎌倉殿の13人】を皆様ご覧になっていらっしゃったでしょうか。鎌倉殿の13人-Wikipediaja.wikipedia.org私は決して歴女ではないんですが歴史小説や時代劇が大好きでしてその上、小栗も好きでしてwいつかは鎌倉に行ってみたいと思っていたんです。で、行ってきました鎌倉。うちのアレクサに「アレクサ、3/4の鎌倉の天気は?」と聞きましたらね『雲の多い一日でウンタラカンタラ…』と言ったんです
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命さ
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であれば誰もが知っている。これは平家物語の延慶本の伝えるところであるが、どうやら源頼朝は守貞親王を後鳥羽天皇の次の天皇と目論んでいたようなのである。ただし、源頼朝が守貞親王をわかりやすい形で推していたのではなく、文覚を通じて守貞親王の即位の後援をしていたというのが平家物語の記載だ。ただ、これは平家物語の過剰反応とも言える。守貞親王と文覚
吾妻鏡の欠落のために、昔から議論の起こる話がある。源頼家はいつから源頼家と名乗るようになったのかという話である。源頼家の幼名が万寿であることは誰も異論がなく、元服時に源頼家と名乗るようになったことも意見の一致を見ている。問題は、どのタイミングで元服を迎えたのかという点だ?建久四(一一九三)年の巻狩のときか?建久六(一一九五)年の上洛のときか?吾妻鏡が源頼家を詳しく書き記している場面を読んでも、また、同時代史料における源頼家の扱いを見ても、建久六(一一九五)年の上洛までの
正観さんによると…。(旅じょうず入門…昭和57年)●南国と北国の気候風土違う気候風土も全くちがう。南国では、冷蔵庫は「冷やすため」。北国では「温める」ために使う。零下20度、30度となる北海道の冬は、コーラビンやビールビンが凍り、ふくらんで割れてしまう。食べものが凍りついて調理もできない。で、摂氏4度を保つように設計された冷蔵庫が、「温蔵庫」として北海道の必需品となっている。それほどに北と南は気候風土が違う。気候風土が違えば、住む人の性格も違う。住む人の性格もそうだが、私が旅