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①网友分享北大清华毕业生的真实现状。这样心态好的人不多了…SinaVisitorSystemvideo.weibo.com北京大学出と清華大学出が「卒業しても高収入じゃないよ」などと話している。コメント欄は「北大清华の卒業生に見えないな」など。②中国語が上手いカナダ人。专访演员大山:我从没把自己设定为一この人、久しぶりに見たわ。私が留学を始めた1991年頃、北京大学にいた中国語がかなり流暢なカナダ人、大山。テレビにも出ていたので、中国人も知っている。外国人が珍しかったし、外
(昨日の投稿より続きます)いくつかの疑問点を検証する前に、まず書かれていた具体的な内容を読んでみよう。そのあとで、この手紙に関し、1.誰が書いたのか?2.内容は真実なのか?3.この時期に、何が目的で?を考察してみたい。朱令の父母へ:最近、社会であなたの娘の件が騒ぎ立てられています。一、二のことを知っている者として、先にあなたの娘に間違いがあったといつも思っています。もし彼女が騒音を立てて他人の睡眠をジャマしたりせずに、また言葉で人を傷つけたり、外地出身者
(昨日の投稿より続きます)・孫維の内心はどうだったのか?先般ふれたハッカーによってリークされた電子メールの内容から判断すると、孫維は朱令の両親に対して強い敵意を持ち、彼らが事実でない噂を拡散し、自分を迫害していると考え、不信感を示していたことがあきらかになっていた。(しかし実際には、朱令の両親は分別があり、メディアからのインタビューを受けた際、確認のとれていないことや、事実にそぐわないことは一言も言っていなかった)・1995年の《女友》誌の取材1995年9月、まだほ
(昨日の投稿より続きます)この他、孫維の声明には多くの“冤罪被害者の潔白の訴え”とは思えない点があり、筆者から見れば全部孫維の自己弁護、自己アピールにしか見えない。そしてこのアピールは、エドガー・アラン・ポーの「黒猫」のラストシーンに似た、完全犯罪に成功したと自慢したがる者特有の思考法を露呈しているように思える。③.冤罪被害者の思考パターンとの違いA:昨日書いた部分で孫維は「1997年当時、推定無罪という制度が実行されていなかった」と訴えている。
(昨日の投稿より続きます)筆者には《孫維の声明》は自分の潔白を晴らすためのステイトメントには見えず、毒物混入した者が巧みに視線をかわそうと自己弁護しながら、十年たっても逮捕されないことをひけらかしに来たようにすら思える。そして孫維自身には、そう見る者が存在することはつゆほども想像もできないだろう。“潔白を証明する”ことと“自己弁護する”ことには大きな違いがある。濡れ衣を晴らしきれない者は、昨日述べた「浙江被冤強姦罪」の張高平のように全力で証拠を探し、真犯人の
(昨日の投稿より続きます)・正義陳震陽教授は回想する。この時期、中国では「五・一労働節(メーデー)」の休日が近づいており、多くの部署が休日前からすでにリラックス状態に入っていた。4月27日の午後、いつものように事務所で勤務していたところ、誰かが自分がどの部屋にいるか尋ねているのが聞こえた。しばらくすると、中年の女性がドアをノックして入って来た。彼女は清華大学の女生徒、朱玲の叔母の一人であると自己紹介し、朱令の病状に関して相談してきたのであった。母親である
(昨日の投稿より続きます)・インターネット「この不思議なものは全世界とつながることができる」という言葉が頭の中でよみがえった。当時使われていたのはbitnetと呼ばれる化学研究に利用されていたe-mailグループのBBSに似た一種の掲示板だった」と貝志城は回想する。協和医院はあらゆる可能性を考慮し、HIV検査、脊髄穿刺、核磁気共鳴、免疫系統、化学物質中毒、抗核抗体、核抗原抗体、ライム病など多項目の化学検査を実施した。しかしライム病を除いて、他の検査の結
(昨日の投稿より続きます)・弁護士が持った疑念張捷弁護士の書いた文章は要約すると以下のようなものであった。1.貝志城は、「黄の妻は朱令も所属していた民楽隊でのチームメイトで、朱令基金で多くの仕事をした」と言っている。しかし朱家の代理弁護士・張捷は「(張某と)会ったことない」、「朱令の両親も知らない」、「黄は十年以上(つまり2003年以降)朱令を見舞っていない」という。2、黄は朱家の家長の許可も得ずに、朱令との関係はどの段階にあ
(昨日の投稿より続きます)・プルシアンブルー陳震陽教授が指定した“プルシアンブルー”はタリウム中毒を治療するための特効薬であった。しかしカリフォルニア大学ロサンゼルス校のサーバーにバックアップされた”朱令の診断と治療ログ”の記載によれば、協和医院は当初(4月28日時点で)プルシアンブルーではなく、同じく重金属中毒の解毒剤であるジメルカプロール(BAL)を使用するつもりで準備をしていた。こちらも一種の重金属中毒の解毒剤であるが、タリウム
(昨日の投稿より続きます)・卒業証書この他、《孫維の声明》の中で主張されていたことで、「1997年6月30日の卒業式の前に『公安の調査で卒業証書を発行できない』と学部長から電話があった件が挙げられる。この時、孫維の家族が大学に呼ばれ、大学は当局の公式チャネルから孫維の卒業証書と学位証書の発行を一時停止する、と伝えられた。当時孫維と両親を迎えた大学の党委員会指導者は“朱令の中毒事件において、清華大学は多数にわたる考慮を経て、大学側には何の責任もないと信じている」
(昨日の投稿より続きます)・中国には仁術は存在せずこのような状況下でも国外の医師たちは減りつつある時間を懸念しながらなんとか朱令を救いたいと願っていた。母親・朱明新はカリフォルニア大学ロサンゼルス校に留学中の李新博士が朱令の病状をアップロードするためのウェブサイトを開設していたことを思い出した。李新博士はアメリカで医学用画像とコンピュータ・サイエンスをも学んでいた。「李新博士ご本人が直接電話をかけてきて、遠隔医療が可能かどうか尋ねました。しかし協和医
(昨日の投稿より続きます)・114室の人間関係の変遷孫維のいう「彼らは現在も良い友達です」とは、孫維自身を含めたまだ健康でいる三名の間だけのことであろう。ではさらに、限られた情報から朱令と孫維を含めた114室のルームメイト、他の寮生たちとの関係の変化を整理してみよう。1、新入生(1992年)の時、朱令は宿舎にいる時間が比較的多く、小説についてルームメイトらと話し合ったり、彼女自身で、寮の日記を書くことを提案したりもした。2、朱令は一年
(昨日の投稿より続きます)・協和医院家に帰って待っているうちに朱玲は激痛に堪えられなくなり、協和医院の救急治療室に戻った。ベッドは空いていないので、待合室の長椅子に座って鎮痛薬の点滴を受けるしかなかった。しかしこうしている間にも、数日内で彼女の状態は急速に悪化し、言うことは支離滅裂になり、意識がもうろうとし始めた。当時の朱令を診察した医療記録には「動悸、窒息、顔面神経痛、めまい、かすみ目、モノが回転して見える、両眼の不完全な外転(いわゆるロンパリ眼か?)、両眼の発
(昨日の投稿より続きます)・捜査開始朱令が長期間入院し生死をさまよっている間に、所属していた清華大学、そして朱令が住んでいた女子寮でもいくつかの奇妙なことが起こっていた。朱玲が入院して間もないころの1995年3月末、朱令の同級生の女子から父親・呉承之に電話があり、「朱令がパンを残していきましたが、我々何人かで食べてしまいました」とのことであった。朱令の中毒ケースが刑事事件化したとき、朱明新はこのことに関し、陳震陽教授が言った言葉を思い出し
27日は京都国際マンガミュージアムにて漫画家おおひなたごう先生の作品「レコード大好き小学生カケル」(KADOKAWA)に登場するレコードをかけながら漫画のことレコードのことを学ばせていただきました✨発売中のコミックス~レコ屋でマナーを学ぶのさ~の回で登場するSaxophoneColossusにはシビレました🎶最後には「レコード大好き小学生カケル」の主題歌「カケルのテーマ/会いたくてレコード」オリジナル「あなたに続く道」ミニライブもさせていただきました🎶リハーサルでは京都精華大学の先生方の
(昨日の投稿より続きます)・圧力朱令の父親・呉成志は、2008年5月12日、北京市公安局に朱令の急性タリウム中毒事件の調査プロセスと結果の開示を申請し、同日承認されていた。しかし18日後の5月30日、北京市公安局は法律、法規及び関連する規定、現在開示されていないその他の状況を理由に、“政府情報非開示告知書”を発行し、呉承之に通達した。つまり、“いただいた申請は拒否します”というわけである。2006年になって、すでに退役していた元・清華大学内派出所長の李慕成
(昨日の投稿より続きます)・接触できたのはルームメイトのみ最初の金曜日である2月24日、朱令はタクシーで自宅に戻った。母親の証言によれば「朱令は実験報告書を持って帰ってきたが、報告書を書く力がなかった。25日(土)と26日(日)当時、彼女は病気の苦しみが少し軽くなったようで、自分でゆっくり歩くことができた」という。1995年の2月は28日までである。朱令は27日(月)に大学に戻り、28日(火)、3月1日(水)は寮で過ごした。二回目の週末は3月
(昨日の投稿より続きます)・女子寮6号棟114室朱令のリハビリテーションを担当し、現在北京復興医院一般診療科の医師である胡海鷹の見解では、前述した「北京で200人超いると言われるタリウム及びタリウム塩に接触できる者」は、特殊な素材を扱う工場以外に、科学研究機関が化学試験や化工類プロジェクト研究を行うために使用する場合があり、その中には北京大学、清華大学など総合大学による特殊実験も含まれるという。しかしこれまで清華大学や同級生らの証言から、特殊化学工場や
(昨日の投稿より続きます)・一人娘亡くなった姉の呉今がそうであったように、朱令も多芸多才であった。小学生のころからピアノを学び、15歳からは古琴のレッスンも開始した。大学在学中は精華大学民楽隊で主力メンバーとなり、1994年12月11日晩には北京音楽ホールで開催された全国高校芸術表演会の独奏の部で古琴曲《広陵散》を奏で、二等賞を獲得している。(“高校”というのは、総合大学や単科大学、専門学校など中学以上の教育レベル)この演奏の動画もyou
(昨日の投稿より続きます)・原因不明入院から1週間以上経つと、朱令の腰と腹部には大量の帯状疱疹が発生し始めた。「背中の赤い発疹を非常に痛がっていた」と朱明新は振り返る。のちに朱明新は回想し「あとになって思い返すと、帯状疱疹は神経損傷の兆候だった」と語っている。脱毛も加速しており、入院後10日ほどする頃には黒髪がほとんどなくなっていた。しかし同仁医院の医師たちはどうすることもできなかった。なにしろこれまで聞いたこともないような症状だったのだ。ど
(昨日の投稿より続きます)・原因不明叔母の陳東は回想する。当時医師が言った「(病状が)中毒のケースと断定しきれない」というのは三つの理由からであった。一つ目の理由は、中毒症状というのは通常、短時間で症状が激しくなる。94年11月から1995年3月まで三ヶ月以上かかってゆっくりと悪化するということはない。「医師は、中毒というのは、悪化しているか、治癒しているかどちらかであり、症状がぶり返して、繰りかえすということは考えられない」と言っていた。当時、朱令に二
(昨日の投稿より続きます)・発症貝志城は朱令の両親からもらった診断記録のコピーとこれまでの経緯を時系列にまとめ直し、事態の推移、症状の変化を把握しようと試みた。それは大体において、以下のようなものであった。1994年11月24日は朱玲の21歳の誕生日であった。当時、全国第2級のアスリートであり、常に丈夫で健康であった朱玲は、なぜか1ヶ月近く体調が芳しくなかった。その学期のトップイベントは「12・9運動」を記念して年末に行われる清華民楽隊によるコンサ
(昨日の投稿より続きます)・運命3月25日、朱明新は協和医院が発行した検査項目リストと朱玲の尿サンプルを持って、化学検査のため朝陽病院に向かった。結果は2日後に発表され、尿中のヒ素含有量は正常であり、ヒ素中毒の可能性は除外された。その結果、治療の方向性は再び正確な毒物検出を行うことになった。ずっと気を揉みつづけてきた家族にとっては、検査せずに中毒の可能性が排除されてきたことは心に引っかかっていた。叔母・陳東は回想する。かつて清華大学の元教授である父親
(昨日の投稿より続きます)・清華大学のウソ孫維は、2005年12月30日、インターネット・フォーラム”天涯社区”に投稿した《孫維の声明》の中で、自分の無実を主張している。主張している内容は、自分は海外から来た朱令の病状がタリウム中毒であると診断する英文の翻訳を他の同室の二名とともに手伝った、公安は私(孫維)を一度しか調べず、何度もポリグラフにかけてみるよう要求したが実施せず、98年4月になって突然、私に対する嫌疑はないとした、など、無実の根拠にはならないもの
(昨日の投稿より続きます)・検査結果朱玲がタリウム中毒と診断された検査報告が発表された1995年4月28日の夕方、朱玲の両親はすぐに清華大学化学系の副学部長で学生工作の主管であった薛芳渝教授に、公安機関への通報を要請した。薛芳渝教授はすぐに清華大学・保衛部長兼清華大学派出所副署長に事件を報告した。また翌4月29日朝、朱令の叔母が薛方渝教授に再度コンタクトをとり、同じ寮の学生らをすぐに退出させ“現場保存”し、さらなる化学検査を行う
(昨日の投稿より続きます)・充実した学生生活では、学内での活動と交友関係はどうだったのか?朱令の課外活動はクラスの他の学生よりも多かったが、成績は常にトップクラスであり、114室の四人の中では二人の“保送生”をおさえて最高位であった。先述したように、朱令は課外活動では清華大学民楽隊に所属し、熱心に活動していた。もともと亡くなった姉同様にピアノを得意としていたが、12歳の時、偶然に“古琴”を聞いて好きになり、両親が入学手続きをしたのちあっという間に上達したため、先生も
(昨日の投稿より続きます)・孫維の取り調べそしてさらに孫維は”1997年、清華大学が“研究所の化学物質管理は非常に厳格であり、化学系のみがタリウム塩を所持しており、さらに孫維が唯一、タリウムに接触できた人物であった”と警察に伝えていたとし、これは事実でないと批判したのである。朱令の父親、呉承之は回想する。呉はそれまで、“孫維”なるクラスメイトの存在を知らなかった。1995年の夏と秋に公安が呉の勤務先の上司を訪ね、「呉承之は文革時代中、孫維の父親・孫
(昨日の投稿より続きます)・絞られた容疑者朱明新は回想する。「王補捜査員からの指摘で、疑わしい範囲は迅速に絞られました」彼女はのちに、事件前の会話中に娘が親友の“孫維”に関して何度か話したことを思い出した。朱令と孫維はどちらも北京出身であったため、仲が良かった。それで朱令の紹介のもと、孫維も清華大学民楽隊に入会したことも聞いていた。しかし朱玲はかつて母親に「仲良くて、密接な仲になっても、イヤなところがあるの」とこぼしたことがあったという。「あ
(昨日の投稿から続きます)・入院それは1995年3月6日月曜日に起こった。家から学校に通った朱玲は夕方に家に電話し「ひどく疲れた。足が痛み、少ししびれる」と言った。一日我慢したが痛みは激しくなり、朱玲は自宅に戻った。当日晩、状態は急速に悪化し、激しい症状があらわれた。真夜中に足が痛みはじめて触ることもできなくなり、腕にもしびれがあらわれ始めた。家族は救急車を呼んで北京医科大学第三病院の救急科に運ばれた。当時は清華大学病院の向かいにあり、教員と学生は
(昨日の投稿より続きます)・盗難事件朱令と他の三名の女生徒が居住する寮のから紛失したものはいったい何だったのか?当然、警察にしても捜査情報すべてを公開するわけではないが、事件発生当時は、コンタクトレンズのケース、口紅、シャンプー、ボディローション、カップなど朱令の身の回り品をふくむトイレタリー・アイテムが紛失しただけであった、と言われていた。また、朱令の家族は現場検証をした民警から「金銭が床一面にバラまかれ、ある同級生が本の中に挟んでいた紙幣は無くなっていなかった