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あれから更に調べてみたところ、東京大学史料編纂所のデータベースにも新徴組の隊士名簿がある事がわかりました。隊士の柚原伴十郎が書いた『新徴組柚原伴十郎手控』と題された史料で、文中に「文久四年正月改」とあるので文久四年(元治元年)に作成されたもののようです。こちらは階級、役職などもちゃんと記されているので、こちらを軸にして見るのが一番良いのではないかと思いますが、これを全て手入力で写していくのはちょっと時間がかかりそうです。ところで(1)(2)でも取り上げました根岸友山の甥、清水吾
文久三年(1863)三月二十八日、十六日間の中山道の旅路を終えて浪士組は江戸に戻りました。折しも前年八月に薩摩藩が起こした生麦事件に対し、イギリスは幕府に謝罪状の提出と十万ポンドの賠償金の支払いを要求し、更に幕府に圧力をかけるためにイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四か国艦隊を横浜に入港させていました。幕府はこの脅しに屈する形で、四月一日にイギリスの要求を呑む決定を下します(のち撤回)。清河八郎はじめ浪士組はこの幕府の弱腰ぶりに憤り、独自に横浜焼き討ち計画を立てることになりますが
文久三年(1863)二月二十三日に洛西壬生村に到着した浪士組ですが、清河八郎は佐々木只三郎ら同行役人たちをのぞく浪士一同を宿所の新徳寺に集め演説を打ちます。その内容は「我々の真の目的は尊王攘夷を断然実行することにあるので、幕府によって集められたとはいえ、今後は幕府ではなく朝廷の命令に従うべきである」といった内容だったとされます。のちに学習院に提出された上申書(『清川八郎以下連署上申書』)にも幕府御世話にて上京仕候得共、禄位等は更に相承不申。只々尊攘大義相期し奉候間、万一皇命を