ブログ記事617件
先日の日曜日に横浜に用があり、生麦に先に行き、桜🌸がまだ見られるか掃部山公園(かもんやま)に寄りました。桜は終わりかけていましたが、まだ咲いていたので嬉しかった😊掃部山公園には名前のごとく井伊直弼(掃部頭)像が横浜の港に向けて設置されてます。井伊直弼は彦根藩主で、徳川幕府を水戸藩と支えていましたが、開国派の井伊直弼と尊王攘夷派の水戸藩で対立し、160年前の3月3日の将軍に挨拶する日の雪の日に大名行列にて、江戸城からわずか400メートルしか離れてない彦根藩屋敷から60名の大名を従えて、籠に
祖父母宅の奥の間の袋棚のなかに無造作に押し込まれていた掛け軸が、この桜田門外烈士水戸藩士混書石板でした曽々祖父の字で↓書かれてありました。おそらくは、桜田門外に際して、水戸藩士たちが書いたのであろう辞世の句、手紙や、漢詩など寄せ書きのようなものの写しと思われますが…祖父母共に他界し、残された親族の誰も何も、この掛け軸について知っているとごろか、在ることすら、私以外の人は知りませんでしたので、誰にも聞くことはできません…アプリなど使っても、すべ
関鉄之介の墓水戸藩士、関鉄之介は、桜田門外の変の実行犯である「桜田十八士」の一人で、実行部隊を指揮したリーダーでした。弘道館で学び、尊王攘夷運動に傾倒していった関は、大老井伊直弼に対抗し諸藩が決起し幕政改革を行おうと越前藩・鳥取藩・長州藩を遊説しますが十分な成果を上げられずに江戸へ戻ります。その後、金子孫二郎らによる直弼暗殺計画に参加した関は現場の指揮を任されることとなります。桜田門井伊直弼暗殺現場付近(警視庁前)、右手に写る国会議事堂の前にある公園の辺りが井伊家屋敷
金子孫二郎の墓安政7年(1860)3月3日に大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」。実際に襲撃した「桜田十八士」以外にも事件に関連した人々が次々と逮捕されていますが、水戸藩浪士、金子孫二郎は襲撃には加わらなかったものの襲撃を計画した首謀者の一人として処刑されています。水戸藩主継嗣問題で徳川斉昭を擁立した金子は、斉昭の下で歩行目付、奥右筆、郡奉行などを歴任。弘化元年(1844)、幕命により斉昭が隠居謹慎となると雪冤運動に奔走して蟄居・謹慎に処せられています。その後、斉昭の復権に伴
文化7年(1810)、上古内村諏訪神社鯉淵数馬義重の子として生まれた鯉淵要人(こいぶちかなめ)は、天保の初め頃、父の跡を継ぎ神官となります。水戸藩主・徳川斉昭は神道を優遇し、神官たちは郷士並みの待遇を受けていますが、中でも鯉淵は誠実な性格が氏子の信頼を得て近村数社の顧問として神道の普及や産業の振興、若者の教育に力を注いでいます。安政5年に「戊午の密勅」が水戸藩に降下されると、鯉淵らはその全国への回達を主張、「安政の大獄」により攘夷派の弾圧が開始されたため、鯉淵は攘夷派の神官たちの
安政7年3月3日(1860年3月24日)に、江戸城桜田門外にて水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」が発生しますが、襲撃メンバーのうち、唯一現場で討死したのが稲田重蔵です。稲田重蔵は農民の出身で、水戸藩士田丸直諒に仕えて町方同心となり、後に金子孫二郎に見出されて郡吏を務めています。金子の影響を受けて尊攘思想に傾斜していった稲田は「安政の大獄」により徳川斉昭が永蟄居となり攘夷派が弾圧された事に怒り、金子らとともに暗殺計画に加担しています。襲撃で現場
NHK歴史探偵、桜田門外の変でした。https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/歴史探偵佐藤二朗が探偵社を結成、歴史に挑む新感覚番組。現場調査、科学実験、シミュレーションを駆使。古代、戦国、幕末、あの大事件の真相に迫ります。www.nhk.jpまさかの井伊直弼銃殺説。面白かった〜
「短歌でダンス?💃」(375)アルバイター歴史の中に彦根藩この大老に逃げるお供よ※おとも
どうも、みけねこです。「それで?ローニンの方は…」「どこまで進んだの?」「横浜編のラストイベント【桜田門外の変】で井伊直弼+青鬼と殺りあって…」「で、なんやかんやあって」「大久保利通や勝海舟等と知り合って」「そんで、徳川/江戸幕府と戦ってるってとこ」「ふ~ん…」「つーか、井伊直弼の剣術…」「見てると草生えるんですよね」「どうして?」「必死だったから、断言はできないが」「【パッと見幕末バージル】。これで伝わるだろ?」「あぁ、そりゃ草生えますわ」「戦国無双のキャラかな
「桜田門外の変」で大老井伊直弼を襲撃した「桜田十八士」の一人、森五六郎は生まれた時に母親が難産だったというほど体が大きく、その恵まれた体格と、気性の激しさを買われ、襲撃時は先頭での攪乱役を務めています。襲撃で負傷しながら、他のメンバーと共に細川家(熊本藩)へ自訴した森は、稲葉家(豊後臼杵藩)、片桐家(大和小泉藩)へと預け替えとなった後、文久元年に同志とともに死罪となります。稲葉家家臣が森から聞いた事件の話を書き記した『森五六郎物語』は、当時を知る貴重な資料として今に伝わっています。