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知り合いの人たちを芥川山城と摂津峡に案内することになり、先日その下見に行ってきました。昔、高槻で勤務していた頃は何度も行ったことがあるのですが、その後かなりの期間行っていないので、念のため見に行ったのですが、様子は当時とあまり変わっていませんでした。芥川山城が最も輝いていたのは、一時「天下人」にもなった三好長慶の在城期(天文22・1553年~永禄3・1560年)で、この頃は芥川城が三好政権の拠点となっていました。その後織田信長が台頭し、永禄11(1568)年信長は室町幕府最後の将軍になった
本堂に向かって左前に藤棚があります。藤は、隣の竹の植え込みから幹が伸びています。植え込みの竹は、一夜竹(いちやたけ)と呼ばれています。---一夜竹(いちやたけ)達磨大師が携えていた竹の杖をここに挿したところ、一夜にして芽が出たという。竹の種類は蓬莱竹。蓬莱竹の原産地は熱帯アジアであるが、日本の暖地でもよく育つ。強い再生力があることから、達磨竹とも呼ばれる竹である。
この日はたしか、おなかが迷子だったんですよね。何かを食べたい。でも、何を食べたいかがわからない。大阪王将に行って「大阪カレー」でもいただこうかとも思いましたが、気付くとたどり着いていたのはこちらのお店。さてさて…何にしましょうかね?あ、この日ももやしナムルを注文するのを忘れてしまいましたよ。らーめん共和国時代は卓上にもやしナムルが置いてあったので、それを食べながらラーメンがくるのを待っていたものです。ここでは、店員さんに言わなきゃいけないのよね。券売機に0円でボタンを作ってくれ
あんまり歓迎したくないイベントです。様々な謀反イベントが起こりますが、歴史イベントを含めて、書いていきます。【ご乱心】配下の武将が突然大名に切りかかるイベントです。大名の戦闘力が高いと、未然に防げて、犯人は逐電(失踪とも)します。逆に大名の戦闘力が低いと、仕留められ、後継者選択の画面に切り替わります。隠しデータの野望が高かったり、義理が低いなどが関わりますが、そんなこと関係なしに起こす方法もあります。戦闘力の高い武将に茶器を与え、すぐに取り上げると、起きやすくなります。昔出たバー
極楽橋の手前にある柳沢文庫は旧柳沢伯爵邸宅の一部が残されています極楽橋を渡った先にあるのが白沢門跡です1577年松永久秀は足利義昭・毛利輝元・上杉謙信・石山本願寺などの反信長勢力と呼応して本願寺攻めをやめて信貴山城に立て篭もり信長の使者にも会おうとはしなかったといいます信長は信忠を総大将にして筒井軍を主力とした10万の軍勢で信貴山城を包囲し名器・古天明平蜘蛛を差し出すよう求めますが久秀は平蜘蛛を割り天守に火をかけて自害します。68歳でした首は安土へ送られ遺体は筒井順慶が
こちら前々から目論んでた城跡なんですが、一部立入が制限されてるとのことで、後回しにしてたんです。全面解除になった情報もないまま、辛抱たまらず椿尾上城を攻めた後に突撃してしまいました。奈良県生駒郡平群町椿井大和・椿井城(つばいじょう)別名:椿井山城椿井城は、築城時期、城主に関する確実な史料が残っていないものの、当初は在地土豪の椿井氏が室町時代から戦国時代の間に居城として築いたとされる。天正期には大和国で筒井氏と松永弾正さまの抗争が続いており、弾正さまは滅亡する天正5年10月まで椿井
戦国無双5信貴山城の戦いのミッションは下記の8つメインミッション一覧・久秀のいざない・南門への道・松永軍封じ・信忠の危機・狙われた兵糧庫・城門を守る者サブミッション一覧・迅速救出・伝令を止めろ・偽伝令南門へ・阿吽の呼吸メインは進行通りに進めばうまくいくのでサブだけ説明します。どのキャラクターを選択してもOKです。迅速救出このサブミッションは信忠の危機と同じタイミングでほぼ同じミッション内容になります
戦国時代の大悪役といえば、松永弾正久秀の名前が良く上がります。ところで、この名前の真ん中にある『弾正』って、他の戦国武将も沢山名乗ってますよね。ざっと思いつくだけで・・松永弾正久秀織田弾正忠信長真田丸で大人気の真田家ですが、その祖に当たる、真田弾正幸隆(真田昌幸の父親)そして、この真田幸隆の外にも、武田信玄に仕えていた弾正を名乗る武将はいて高坂弾正昌信保科弾正正俊彼らをして『戦国(武田家)の三弾正』なんて言われていて逃げ弾正…高坂昌信槍弾正…保科正俊攻め弾正…真田
追手門は梅林門とも呼ばれています追手門をくぐり追手門の裏側から左に行き毘沙門曲輪から追手向櫓・多聞櫓を眺めてから戻り常盤曲輪に向かい城址会館に行きましたが休館日⁉️仕方なく再び毘沙門曲輪に向かい天守台の見える場所まで歩きます1559年に松永久秀が大和国に侵入すると当時の郡山城主・郡山辰巳は松永久秀に寝返り筒井順慶から離反します筒井城が松永久秀(松永弾正)軍に属した為郡山城は筒井順慶軍の拠点となり1570〜1571年まで松永久秀・久通親子の攻撃を受けていました。