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月見櫓と月見櫓からの毘沙門曲輪の桜の眺めはとても素敵でした♪そして月見櫓からの天守台・内堀を眺め埋門跡に行きます。いよいよ天守台です♪1580年に織田信長の援助を得た筒井順慶が大和国守護となり郡山辰巳は殺され家来たちはそのまま筒井順慶の家来となっています。
白岩城(養父市関宮町吉井字白岩林)白岩城は八木川右岸、吉井集落対岸こ尾根突端、標高約290mに所在する。山裾との比高は約70mある。城域は東西約80m・南北約100mを測る小規模城郭である。白岩城北東の台地には「殿屋敷」と呼ばれる広大な平地があり、ここが城主である白岩氏の居館跡であり、昭和40年代まで白岩氏が居住していた。吉井集落の対岸の台地になぜ白岩氏だけが屋敷を構えたのかは不明である。「白岩系図」(『白岩文書』)によれば、白岩氏は竹田城主太田垣氏の後裔という。同系図では天正5年(1577
電車が通り過ぎて鉄御門跡に行きます鉄御門から陣浦曲輪を桜を見ながら毘沙門曲輪の石垣と中堀を見て通ります追手門に近づくと左側に追手向櫓右側に追手東隅櫓が見えてきました正面の石垣の下は駐車場になっていました10台くらいは止められそうですいよいよ追手門(梅林門)に到着です❣️
三津ヶ崎御本陣城(鳥取市)天正九年、羽柴秀吉が吉岡将監の籠もる防己尾城攻撃の時に設けた本陣である。山頂に三つの平地がある。大手は東である。(※日本城郭大系より)北曲輪群北三郭北曲輪群北二郭北堀切北曲輪群東二郭北曲輪群主郭北曲輪群南二郭北曲輪群南三郭北曲輪群南四郭北曲輪群南五郭北曲輪群と南曲輪群の間の中曲輪南曲輪群主郭南曲輪群西二郭南曲輪群南二郭帯曲輪状の南曲輪群東二郭南曲輪群南三郭南曲輪群南四郭南曲輪群南五郭南曲輪群南六郭方向を転じ、南曲輪群東三郭南曲
牛久市のお目当て小坂城跡に着きました公園になっています整備されていると案内板があるのでわかりやすいです結構大きいな小規模な城だったと思うがこう見ると広いわ他がもっと大きいってことかしらね小田氏から分かれた岡見氏が築城さすが城登るんじゃ~整備されているから上りやすいんだがやはり・・・きついわぁあ
城の日の重大(10大)ニュースで未確定情報として発表した「プロジェクトN」について、その全貌がいよいよ今日明かされます!!新たに「ニッポン城めぐり」に実装される機能とは…“縄張図取り込み機能”です!“縄張図”の“N”でした!リア攻めに役立つ機能の最終兵器といっても過言ではない縄張図の領域に、ついに足を踏み入れてしまいました( ̄□ ̄;)!!この機能は、アプリに縄張図を取り込み、それを地図と連動させることで、今自分がどの曲輪にいるのか、この先にどんな
追手門は梅林門とも呼ばれています追手門をくぐり追手門の裏側から左に行き毘沙門曲輪から追手向櫓・多聞櫓を眺めてから戻り常盤曲輪に向かい城址会館に行きましたが休館日⁉️仕方なく再び毘沙門曲輪に向かい天守台の見える場所まで歩きます1559年に松永久秀が大和国に侵入すると当時の郡山城主・郡山辰巳は松永久秀に寝返り筒井順慶から離反します筒井城が松永久秀(松永弾正)軍に属した為郡山城は筒井順慶軍の拠点となり1570〜1571年まで松永久秀・久通親子の攻撃を受けていました。
熊本市東区神園に所在する長嶺城跡(神園山城跡)です。文化財の指定は受けていません。託麻三山の一つ「神園山」の山頂に所在します。運動公園方面から歩いて登ることもできますし、熊本IC方面から車で登ることもできます。本丸には現在テレビ塔が立っていて、その下の曲輪には大きな展望台が立っています。城主等は不明ということですが、眺めのいい場所なので城を作るにはいい場所だったんだと思います。すぐ隣の小山山の小山城とも連携していたと思います。本丸跡です。本丸跡にはテレビ塔が立って