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今回のシリーズは京阪電気鉄道の土居駅~旧蒲生信号所間が戦前に高架複々線になる以前の蒲生から土居までの旧線の跡を歩くという企画です。なお、今回のウォーキングの際に参考にした資料は佐藤博之(さとうひろし)氏と浅香勝輔(あさかかつすけ)氏の共著「民営鉄道の歴史がある景観III(平成11年・古今書院発行)」です。京阪電気鉄道の「守口(守口市への改称は1971年)~蒲生(後年の蒲生信号所)」間の複々線は1933年12月の急行列車線(A線・・・内側の2線)の供用開始をもって完成しました。このうち普通列
探索日2015/11/22大日影トンネル内から西側新旧線分岐点までの区間新線切り替えは1997年2月23日『中央本線旧線(甲斐大和~勝沼ぶどう郷)①』訪問日2015/11/22横吹第二トンネル東口付近の旧線跡この区間は二度付け替えが行われている一回目は1917年(大正6年)(旧)横吹第二トンネルが地盤崩…ameblo.jp『中央本線旧線(甲斐大和~勝沼ぶどう郷)➁』訪問日2015/11/22深沢トンネルと横吹第二トンネルに挟まれた明かり区間切り替えは1917年と19
探索日2017/10/09烏川橋りょう架け替えにともなう線路移設烏川には現在までに四本の橋が架けられたそのうち初代/二代目橋梁は廃止、三代目/四代目が現行上り/下り橋梁となっている➁では二代目線跡を調査二代目線の開業は1910年(明治43年)、廃止は1972年E231系電車の走っているとこは現行上り線(三代目線)右を二代目線が並走していた線路は現行上り線その左沿いが旧下り(二代目線)跡ここが二代目線跡橋梁跡色の異なるレンガを組わせてい
探索日2014/12/31切り替えは1977年12月13日の複線化時その際、日高川橋りょうが架け替えられた同橋は1957年にも架け替えられているつまり初代、二代目、三代目橋が存在する1976年の空中写真このへんが和佐駅方新旧線分岐点旧線は左へ分かれ、現在線カーブの内側を進む分岐点からのびてくる旧線の路盤跡道成寺駅方面を見る旧線は津村板金の位置へ続いていく護岸の上が旧線跡津村板金は旧線跡に立地左へ曲がっていく旧線用地奥の高架橋が現在
探索日2011/10/09切り替えは1969年9月29日の複線化時(電化は同年10月1日)筒石/能生駅が新線上に移転久比岐自転車歩行者道となった廃線跡レンガ積み橋台が残る糸魚川方の橋台北陸本線旧筒石駅跡地1969年10月1日廃止新旧駅は2kmほど離れているしかも新駅に至るには坂道を上らなければならない新線切り替えは、沿線利用者に大きな負担を強いることになる左下に記念碑ここに旧筒石駅があった頚城トンネル大藤崎斜坑入口斜坑に入れんのか?濁澄川
探索日2012/11/24切り替えは1965年5月27日の複線化時細呂木駅方新旧線分岐点旧線は奥の林の手前を通過する砂利道になっている廃線跡いかにもといった曲線盛り土上を走る旧線左は福井県道153号線築堤を下から見てみる砂利道となって続く旧線跡レンガアーチの架道橋むこうは現在線の架道橋奥へ続く旧線跡現在線を681系電車特急〔サンダーバード〕が通過細呂木駅方面を見る旧線は右奥からのびてくる旧線時代の監視所か
探索日2016/12/111959年8月9日、新上り線として新船坂トンネル使用開始旧上り船坂トンネルを仮下り線とし、本来の下り線を電化工事1960年10月1日上郡~倉敷間電化、旧上り船坂トンネルは廃止前回はトンネル坑口のみ確認今回は踏破を目指す※トンネル内で県境を越える(旧上り)船坂トンネル上郡駅方口開業は1891年(明治24年)3月18日こっちは兵庫県、西口は岡山県船坂隧道明治廿ニ年六月一日起工トンネル長は1137.5m西口はふさがれてい
探索日2014/12/31切り替えは1967年9月17日(29日?)の複線化時1968年の空中写真この先が藤並駅方新旧線分岐点旧線はここへのびてくる旧線の路盤跡現在線の右を有田鉄道が走っていたわけやけど、切り替えに際し若干山側に移動したように見えなくもない高架橋は現在線旧線はほぼ同じ位置を走っていた竣工1967年5月31日切り替えは1967年9月17日(29日?)旧線は現在線とほぼ同位置を走る左へカーブし、現在線と離れていく道路
訪問日2015/11/22深沢トンネルと横吹第二トンネルに挟まれた明かり区間切り替えは1917年と1997年2月23日『中央本線旧線(甲斐大和~勝沼ぶどう郷)①』訪問日2015/11/22横吹第二トンネル東口付近の旧線跡この区間は二度付け替えが行われている一回目は1917年(大正6年)(旧)横吹第二トンネルが地盤崩…ameblo.jp新旧横吹第二トンネル西口左は1903年から1917年まで使われた(旧)横吹第二トンネル右は1917年から1997年まで
探索日2017/08/121978~1986年に存在した北上操車場操車場敷設にともない、下り線が操車場西端に移動している操車場廃止後、移設された下り線は廃止、上下線並走にもどった北上駅方新旧線分岐点旧線は右へ分かれていく高架橋は東北新幹線斜面沿いが旧下り線跡架道橋上ここを旧下り線が走っていた段差上が旧線跡水路左沿いが旧下り線跡タイヤ置いてるとこが廃線跡ガードレール左沿いが旧下り線跡更地が北上操車場跡旧下り線はこの
探索日2017/08/11切り替えは1967年12月14日の複線化時目時駅は新線上に移転金田一駅は現在の金田一温泉駅カーブしてるとこが金田一駅方新旧線分岐点旧線は写真右下へ続く左の上り線は線増された線、右の下り線がオリジナル線左の砂利道が旧線跡右は現在線金田一トンネル南口廃線跡の道旧線はここを走っていた国道4号線沿いが旧線跡段差上が廃線跡廃線跡上に来てみた鉄道時代の擁壁ここが旧線跡か?駐車スペースが廃線跡
探索日2015/12/30切り替えは1972年5月27日の複線化時写真下付近が土気駅方新旧線分岐点旧線は、現在線より急なカーブで左へ曲がっていく209系電車左の竹やぶが旧線跡やと思う民家の並び、および道路が旧線用地ここは切通しで抜けていたけど、埋められ周囲と同じ高さになっている住宅の列がカーブしていることに注目していただきたい大網駅方面から見てみる奥へ続く民家の列がほぼ旧線跡奥へのびる道路とその左の公園、民家が廃線跡柵に囲まれた
探索日2014/05/02切り替えは1972年6月12日新線は山側を1,710mの真鶴トンネルで通過この先が真鶴駅方新旧線分岐点旧線はここへのびてくる分岐後、新旧両線トンネルに入る左は現在線真鶴トンネル、右は旧線長坂山トンネル神戸方口さすが天下の東海道本線、石積みで複線型や「隧道」だけは読み取れる坑門前から真鶴駅方面を見る674mもあるけど、直線なので向こう口の光が見える東京駅まで94km
探索日2017/08/15地下化にともなう線路移設切り替えは2000年3月11日ちなみに、仙石線の前身宮城電気鉄道の仙台駅は地下にあったつまり、再び地下にもぐったということ東北本線貨物支線(宮城野貨物線)との交差地点旧線はここを走っていた現在線はこの真下現在線はここで半地下から地下に入る撮影地点が旧線跡線路橋の位置から見て、新旧線は平面的には同位置にある道路を横断し奥へ続くドーム屋根建物の場所が旧陸前原ノ町駅跡現行駅はあの真下旧陸前原
探索日2008/10/06曲線改良のための線路移設新線には新玉手山トンネルが掘られ、旧線の玉手山トンネルは放棄される切り替えは1992年関屋駅方新旧線分岐点9020系電車が走っているとこが現在線左は新玉出山トンネル東口、右が旧線玉手山トンネル玉手山トンネル関屋駅方口上り線のレールは留置用か保線用として残されている坑口上を走るのは国道165号線国道上から旧線跡を見るこちらにむかってくるのが旧線トンネル内から大阪上本町駅方面を見るレールはまだ続いている玉
「なんだこれは・・・」山武地方誌に目を引く写真が載っていた。ガッチガチに固められた長い掘割、そしてその真ん中に土被りがほとんどない隧道がある。どういうことなんだ。道路でも鉄路でも異様としか思えないその大掘割と隧道は、かつて外房線の土気駅から大網駅の間にあったもので”土気トンネル”といい、いまは現在は埋め立てられているという。こんな不思議な景色が存在していたとは。痕跡でもなんでもいいから見たいと思い、ある日の休日、夜明けとともに土気に向かった。土気駅は外房線の中では1番標
探索日2014/04/19切り替えは1989年の複線化時この先が亀岡駅方新旧線分岐点旧線はこっちへ直進してくる柵の立っているとこが旧線の路盤跡西川に架かっていた橋りょうの橋台左は現在線西川橋りょう現在線を221系電車が通過奥へ続く旧線跡旧線はこのへんを通過痕跡はまったくないここに旧馬堀駅があった旧線は交差点の位置を左右に走る奥に見えるのが現在の馬堀駅右はローソン亀岡馬堀駅前店道路がほぼ廃線跡旧線は画像右
探索日2017/10/09烏川橋りょう架け替えにともなう線路移設烏川には現在までに四本の橋が架けられたそのうち初代/二代目橋梁は廃止、三代目/四代目が現行上り/下り橋梁となっている①では初代線跡を調査初代線の開業は1884年(明治17年)、廃止は1910年(明治43年)倉賀野駅方新旧線分岐点初代線は右へ分かれていく痕跡はまったくない烏川北の初代線跡は一部道路になっている烏川南に残る初代線の痕跡倉庫の位置および手前のスペースが廃線跡廃止後100
訪問日2014/05/04『東海道本線旧線(用宗~焼津)【2004】』撮影日2004/01/14静岡県道416号線から廃線跡を撮影崩壊した護岸やトンネル坑門が見える崩落したトンネル坑門レンガのアーチ部分が転がっている海…ameblo.jp石部トンネル(旧石部トンネル)東京方口に残るオリジナルの坑門現在は落石除けが延長されている静岡県道416号線石部海上橋から大崩海岸を見る海岸に転がるレンガ塊が見えるやろあれが(旧)石部トンネル神戸方口坑門の一部や真上から
探索日2001/04/22八田原ダム建設にともなう線路移設切り替えは1989年4月20日この奥が河佐駅方新旧線分岐点植林のラインが旧線跡芦田川沿いのコンクリートの護岸は鉄道時代からのもんやと思う遊歩道「せせらぎの小路」になった廃線跡福塩線の駅の駅名板を模したモニュメントがあるここで使われていたもんか知らんけど、枕木が敷き詰められている歩道の橋となった第八芦田川橋りょう橋脚、橋げたは鉄道時代のもの第九芦田川橋りょうこれも人道用の橋として現役後方に八田原ダ
今回は東京モノレール整備場前駅から出発。羽田空港拡張前の旧羽田空港駅までの旧線跡を辿ります。駅前には、詰所跡があります。拡張前は、文字通り海側には整備場や格納庫があったため、ここから先は保安区域のため、入退場のチェックポイントだったと思われます。整備場前駅から天空橋駅までの高架線。高架柱が手前2本と奥の方の意匠が異なります。もしかすると奥の方は開業時のもので、手前は新線のときに作られたものかもしれません。ここにT字路があります。ただ左折路は信号に関係なく曲がれるようになっています。さして交
探索日2015/11/22天神山トンネル付近の旧線切り替えは1966年11月30日の複線化時現在線第四笹子川橋りょうむこうに旧線第三笹子川橋りょう初狩駅方橋台が見えるあの先が初狩駅方新旧線分岐点やけど、近づく手だてはないと思う拡大投影わかりづらいけど石積み第三笹子川橋りょう笹子駅方橋台橋台の中にはアーチトンネルがあるアーチ部分はレンガ積み橋台上に来てみた現在線を211系電車3000番台が走る右端、旧線第三
探索日2003/02/09切り替えは1995年8月29日の複線化時雑木林と化した旧線跡レールが残っている架線柱などは撤去済みレールはこの先で途切れる手前の高架は国道371号線奥に現在線と小原田検車区が見える新線と交差し、西側に出た旧線跡ふたたびレールが現れるレール付きの廃線跡が続く遊歩道が廃線跡むこうに見えるのが現在線御幸辻駅駅の北で新旧線が合流する真上は和歌山県道731号線
探索日2015/11/22横吹第二トンネル東口付近の旧線跡この区間は二度付け替えが行われている一回目は1917年(大正6年)(旧)横吹第二トンネルが地盤崩壊のため短期間で放棄二回目は1997年2月23日下り線として使用されていた明治・大正期のトンネルを廃止、新下り線用に二つの新トンネルが掘られた1968年の複線化による線増を含めれば初代、二代目、三代目、四代目線が存在することになる甲斐大和駅方新旧線分岐点211系電車の走っているとこは1968年開業の三代目
探索日2015/08/10切り替えは1967年の複線化時浅虫駅は現在の浅虫温泉駅浅虫川を渡るとこ現在線の手前に旧線の橋梁が架かっていたこの左が浅虫駅方新旧線分岐点あそこに橋台があるはずやけど草で見えへんこっちにも橋台残ってる?跨線橋跡奥を現在線が走っている左端、建物の位置が旧線跡右が現在線左は現在線浅虫トンネル東京駅方口右端の建物の位置を旧線は走っていた山沿いが廃線跡民家の建ってるとこが旧線跡旧線はこのへんを通過
探索日2014/10/12、2017/05/03切り替えは1966年11月22日の複線化時旧和南津トンネルが廃止、和南津/中山トンネルが設置されたこのへんが北堀之内駅方新旧分岐点旧線は左へ分かれていく新旧和南津トンネル高崎駅方口言うまでもないやろけど左が旧トンネル旧和南津トンネル北堀之内駅方口スノーシェッドで延長されている坑門前は二度延伸されている一回目の延長部分は継ぎ目がはがれてしまった入ってすぐのとこで閉鎖オリ
訪問日2014/10/12魚沼線は1944年に不要不急路線として休止、1954年に1067mmnに改軌のうえ再開しているその際、両端区間でルート変更が行われた今回たどったのは末端の旧線区間先端区間の探索記事はこちら→魚沼線旧線(片貝~来迎寺)魚沼線は右の家の位置を奥にむかって走っていたこの先が来迎寺駅方新旧線分岐点航空写真を凝視しても跡は見出せないここの地名は「平沢」なので、平沢駅はこのへんのどこかにあったと思われる平沢駅は軽便鉄道時代の駅で、復活後は存在しない
探索日2011/03/06新船坂トンネル開業にともなう上り線付け替えによって放棄された、(旧)船坂トンネルを介する旧上り線下を走るのは現在線下り線左に旧上り線があったむこうに船坂トンネル下関方口が見える最大望遠旧上り線は左へカーブし、下り線と離れていくあの奥に旧船坂トンネルがある山陽鉄道時代の1891年(明治24年)に開業した(旧)船坂トンネル下関方口すべて自然石で構成されている1910年の複線化後は上り線トンネルとして機能した1959年(昭和34年)、新船坂