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お読みいただきありがとうございます。人生の彩どり師・関みゆ紀です。おわりははじまり-126「女塚神社の護りと七五三の祈り」の続きとなります。女塚神社へご挨拶した後、「にしむくさむらい=西向く侍」一路、西へ、「じろう・新田神社」へ向かいます。←←←←←西へ移動おわりははじまりー115「じろうの横目がもう流れない」「にしむくさむらい・246911・二四六九十一=西向く侍」とは、31日までない小の月のこと。「十」と「一」を縦書きすると「士≒侍」に見え、「西向く侍(に・し・む・く・さ
文化財てんこ盛りの狭山不動尊。そのお隣には、山口観音があります。正式名称、吾庵山金乗院放光寺(通称・山口観音)ご本尊、千手観音(行基作)の真言宗豊山派の寺院です。弘仁年間(810~824)、僧・行基が観音堂を創建。のちに弘法大師・空海が金乗院として開基。1333年(元弘3年)には、新田義貞が鎌倉攻めの際に戦勝祈願をしたといわれています。のちに義貞が奉納した白馬を模した馬が霊馬堂から睨みをきかせていました。「目が怖い~」本堂
おはようございます。先週、出張で群馬県の太田市に足を運びました。業務の合間を縫って、太田の駅に足を運び、入場券を買ってホームへ足を運びました。3年ぶりに訪問しましたが、やはりこの駅は長いホーム有効長を持て余しているように思えます。ホームの長さは、明らかに10両編成分があると思いますが、ここへやってくる列車は最長でも6両編成です。ここにTHライナーが足を延ばしてくれたら面白そうなのに。太田駅は、実は10番線まで設けられています。ちょうど写真右側、白地に赤い斜線の部分に
え~みなさん、こんにちは。本ブログはいきなり移転→開始しましたので、ここで改めて自己紹介です。歴史作家の智本光隆(ちもとみつたか)と申します。2008年に新田義顕(新田義貞の息子)を主人公とした、『風花』(未発売)で「第14回歴史群像大賞優秀賞」を受賞し、2010年1月に大谷吉勝(大谷吉継の息子)を主人公にした、『関ヶ原群雄伝ー大谷吉勝の決意』でデビューしました。以後、『関ヶ原群雄伝シリーズ』(全3巻)大谷吉勝2010年『本能寺将星録シリーズ』(全2巻)細川
「湘南?湘南なんて誰も言わないのこの辺りじゃあここは稲村、稲村ヶ崎」このセリフをご存知のアナタは、きっと同世代ですねぼっちゃまが校外授業で鎌倉へ行くことになり、しおりをパラパラ見ていたら、「稲村ヶ崎」がコースに入ってまして。「おお、稲村ジェーン!」と叫んだら、めっちゃ怪訝な顔されましたわ「稲村ジェーンって、なに?なんで稲村ヶ崎が稲村ジェーンなんだよ稲村ヶ崎と言えば、新田義貞でしょうが!」世代間ギャップでしょうか稲村ヶ崎は、稲村ジェーン一択義貞の入る隙ナシ肝心の映画
雨模様の中、分倍河原までやって来ましたJR分倍河原駅前と言えば古戦場「新田義貞」像で知られていますよね駅から5~6分の所にあるのが真言宗豊山派梅花山光明院御本尊は不動明王です分梅道(鎌倉街道)といった古街道の光明寺坂と言う坂道に面しています山門前には庚申塚と六地蔵境内に入ると弁天様が近代的な建物ですが二階が本堂、一階が寺務所になっています正面には不動明王のお前立ち御朱印を頂いている間に雨脚が速くなり、今日一番の降りになってしまいました二階の本堂前で立ち往生山門を
「寄進地系荘園」が消える?(1)から読む前回まで、・寄進地系荘園から領域型荘園にシフトした教科書が3社あったこと・改めて『国史大辞典』を見ると「寄進型荘園」という第3の名称があったこと・清水書院との説明と「寄進型」との間には、共通する背景があることということまでお話しました。では、次に実教出版の説明を振り返ってみましょうか。再掲します。中世荘園が成立するおもな契機は寄進と立荘である。寄進を重視した寄進地系荘園の語が広く使われてきたが、寄進よりも立荘の重要性が明らかとな
4月23日です、こんばんわ。今日は日曜日に群馬県の舘林と太田に行ってきたので、その話にしましょう。作り置きして、お義母さんとこにちょっと寄って、電車に乗った。思いつきの旅。ずっと時刻表とにらめっこして、地震や呼び出しや色々あって迷ったけど。母との思い出話で、行こうと決めたのだ。舘林の駅前に。やはりここは「ぶんぶく茶釜」の町。お隣駅の「茂林寺(もりんじ)」様にこのお話があるのです。子どもの頃に来たの…半世紀近く昔…。え?巨人の初Vって何?時刻表をずっと
東寺の外周を歩いてみよう。南大門(重要文化財)今の南大門は、明治28年、慶長6年(1601)創建の三十三間堂の西門が移築されたもので、以前の南大門は、明治元年に焼失した。南大門を入ると金堂・講堂・食堂が南から北へ一直線に並んでいる。南大門から東大門へ歩く。築地塀の東南角を「猫の曲がり」と言った。江戸時代より以前、猫は貴人や僧侶などしか飼えない高価な動物だった。だが、江戸時代には猫の数が増え、見た目のかわいさもあって、庶民の間でも飼う人が急増した。特に、養蚕農家では猫は鼠を獲ってくれる神
白佐波神社(しらさわじんじゃ)☆☆☆主祭神日本武尊配祀神大山祇命外四十座(村誌より)境内社水神社鎮座地群馬県沼田市白沢町高平154由緒白佐波神社の創建は、慶安二年(1649)で、当時は武尊神社と称していました。白佐波神社は白沢地域の産土神で、鎮守の杜は「うつぶしの森」といいます。うつぶしの森は、新田義貞の三男新田義宗が最後をむかえた地と伝えられ、沼田市の史跡に指定されています。白佐波神社の御神体は、市指定重要文化財の新田義宗公木像で、製作年代は不明ながら徳川