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久しぶりに図書館に行って、戦国茶の湯倶楽部という本をみつけた。著者の中村修也氏が、あとがきに書かれているように利休のネットワークから広げて、肩肘はらずに、分かりやすく茶道の歴史を解説しておられる。最近の知見の紹介や、ご自身の見解も含めて、私の断片的な茶道史の知識を通観して補ってくれるありがたい本でした。さて、前回の茶道はすたれてしまうのか(その2)のご意見に、濃茶の回し飲みは抵抗があるような意見や、そもそも、いつからなぜ?回し飲みするのかといった疑問がありました。通説では、天正14年(1
一度取りまとめてみたかった肥後の中世戦国時代の国衆、山之上三名字衆について取り上げてみました。「国衆の定義」戦国当時、肥後には52人の「国衆」がいたとされる。国衆とは自分の所領を持ちながらも、守護やその時々の勢力によって誰に与するか判断しながら戦っていた。52人との出典は豊臣秀吉が佐々成正に出した「佐々肥後国受領之時五ケ条之制書」や国衆一揆平定後九州の諸大名に宛てた「陸奥守前後悪逆之事」に「国衆=国人」を城主と指していることから52の城主=国衆とみなす。(他説では54名または
1980〜90年代のアーケードゲーム黄金期。その中でも異彩を放つ存在だったのが、SNKが誇るハイスペック基板「NEOGEO」だ。そのNEOGEO黎明期に登場したアクションゲーム『戦国伝承(Sengoku)』は、プレイヤーが戦国時代から現代へと時空を超えて戦うという、和風ファンタジーとアメリカン・ヒーローものが融合したような奇妙な魅力を持っていた。そして1993年、シリーズ第2弾『戦国伝承2(Sengoku2)』がアーケードとNEOGEOロムカセットで登場。容量は堂々
戦国期に伊代国新居郡金子城主であった金子備後守元宅。その人物のことを記した郷土資料の中に、光蔵寺に関連する記述を見つけました。予陽盛衰記にも出てくる越智駿河守と光蔵寺。それと同じ、もしくはまたその後のことも記載されていました。光蔵寺というのは1600年代からの寺名で、それ以前は高蔵寺だったと伝わります。自坊が記すもの以外、外部の書物である予陽盛衰記に加えて、今回の資料にも高蔵寺の名と逸話が記されていることは、寺伝の通り、江戸時代以前よりお寺があったことの証明とも言えます。また加えて、