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「伊勢神宮は支配層・八咫烏にとって最も重要な松利権の工作拠点。江戸時代には、徳川幕府が推奨したお伊勢参りによって多くの人々が参拝する神社となりました。大勢の人々が集まる場所は表裏の金儲けの仕組にも通じます。伊勢神宮を支援団体が伊勢神宮崇敬会であり、初代会長は八咫烏の役割を担っていました。」静岡県浜松の地から愛知県の渥美半島を通って三重県の伊勢神宮まで神御衣(絹織物)を運ぶ儀式としての「赤引糸の旅」は、渥美半島を通る中央構造線を封印する役目でもあります。それは伊勢・志摩を中心とする光の土地を
一人の刺客が、首をかしげた方の男へ、「コナクソ」と叫びながら、刀を抜き打ちざまに前額部を払いました。首をかしげたのは坂本龍馬です。この時、龍馬の頭から脳漿が飛び散ります。この脳漿と血痕が、龍馬の後ろに掛けてある、先ほど板倉より贈呈された掛軸に悲劇の後を残します。驚いて屏風の陰に置いてあった刀をとろうとした中岡も背中を斬られます。龍馬はだるまのようにふくらんだ身体を動かし、床の間に掛けてあった刀をとろうとしたところ、向けた背中を斬られます。さらに振り向きざま、にぎった刀で鞘ごと防ぎます
峰吉と岡本が出ていって間もなく、「近江屋」の店先にひとりの武士が姿を見せました。ちょうど爪楊枝を削っていた藤吉が対応すると、大きな名札を差し出しました。「拙者は松代十津川郷士だが、才谷先生にお目にかかりたい、ご在宅か」大和十津川の郷士たちには龍馬も知人が多いことを藤吉は知っていたうえに、龍馬の変名である才谷梅太郎の名前で訪ねてきたので、藤吉はこの武士は龍馬の知人であるだろうと考えました。「少々お待ち下さい」藤吉は名札を手に階段をのぼりはじめました。藤吉の様子から二階に坂本龍馬がいるこ
駒牽朱印(こまびきしゅいん)ってなに??土曜日の敬老会で、両親が駒牽朱印のお菓子をいただいてきました自分たちは食べないので孫にやり、孫も食べないので、私が食べる、と・・・ありがたやありがたや・・・・駒牽朱印とは、徳川幕府が公用に、伝馬を使用する時に用いた権威ある印鑑のことですこの印が押された朱印状が公用旅行者の伝馬使用許可証となり、これを見せる事で、宿や馬の調達が最優先されたそうですちなみに私は、二十七曲がりせんべいのぱりぱり
岩ちゃん(がんちゃん)って言うんでしょジェイソールなんとかの3代目のなんとかの徳川幕府三代将軍は徳川家光公ねヒロポンが食べに行った鎌倉のアレが食べたいあ、岩ちゃんどうなるの?って気になるよねー
前回のブログで、「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」を番外編含め、合計12基+1基で終了しました。「現存三重櫓」(12基+1基)は、下記をクリックしてください。https://ameblo.jp/highhillhide/theme-10112595030.htmlしかし「三重櫓」は、現在でも「天守」にも勝るとも劣らず魅力的な建造物が、数多く存在しているのを見てきました。江戸時代通じて、「三重櫓」を備えた「お城」は、今回紹介してきた「お城」の「三重櫓」以外にも存在し
17世紀半ば、中国の明(みん)王朝は、北方の女真族が満州に興した清(しん)の侵攻を受けて滅亡した。これにより、北京を都とする清王朝が中国の支配を確実なものにしたが、南部の諸地域に残存する明の遺臣らは、南明を建国し、明の再興をめざして抵抗を続けた。正保2年(1645年)、南明は、鄭芝龍(ていしりゅう)を使者として、日本に援軍を要請してきた。これが、以後度々繰り返された南明による援軍要請“日本乞師”(にほんきっし)の最初であった。時の政権徳川幕府は、三代家光の時代
さて、今日は、「犬公方」で有名な将軍・綱吉について書きます。家光の正室・側室そして子供達今日の主人公である綱吉を語る前に、家光の側室とその子供達について、先に説明した方がわかりやすいと思います。上の図は、家光と正室・側室(お里佐、お琴は除く)の関係を表したものです。家光は、「女嫌い」で有名ですが、実際には30歳を過ぎた頃から、側室を多く持つようになります。(女性に目覚める?)先ず最初に関係を持ったのが、家光の初恋で伝承上の側室「お古五の方」です。「お古
最初に申し上げますと、将軍に信頼されているとか好かれているとかは、偉さとは全く関係ありません。外様大名は幕政に参加できないから譜代大名や旗本より下だ、というのは大きな勘違いです。徳川幕府というのは、つまり徳川家が全国政治を担当しているっついうことで、その仕事はもともとの徳川家の家来(譜代大名と旗本)だけで行う、というものです。徳川の家来ではない、いわばお客様である外様大名は、自分の領地の経営に専念してください、という、つまり中央と地方の役割分担をキッチリ分ける、というのが幕藩体制です。いわ