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昨年9月にオープンした酒場食堂翁花(おうか)にランチタイムにお邪魔してみた。徳山名産のふぐ出汁スープを使った「徳山旨(うま)塩ふぐまぜそば」(880円)ふぐ出汁スープに、鶏ガラ、豚骨のトリプルスープ「豪火(おうか)そば」(880円)他にもたくさんのメニューがあるが、店名でもある、0~5段階までの辛さを設定した「おうかそば」、辛さ3を注文おうかそば(880円)とご飯+温玉セット(220円)上品なふぐの出汁をベースに、鶏ガラや豚骨のコクが加わって、それがしっかり麺に絡まって
おはようございます本日は山口県の西京きずなスタジアムに出没。皇子山の甲西、別大興産の津久見など色々な観戦候補校があった中、「あの」試合以来のチームを選択させていただきます。それは徳山高校。36年前の昭和62年夏、甲子園初出場で9回2死までリード更に最後の打者もピッチャーゴロでゲームセット……のはずがまさかの悪送球で同点、更にタイムリーで逆転され、その裏追いつくチャンスも本塁憤死で試合終了という悪夢の東海大山形戦以来の観戦それ以降甲子園出場はおろか、県ベスト8も昭和63
大東亜戦争末期の昭和20年(1945)、米軍による日本本土への空襲が本格化しましたが、徳山は2度の大規模な空襲を受けました。最初の空襲は昭和20年5月10日で、第三海軍燃料廠と大浦油槽所が狙われました。午前9時50分、B29約110機による燃料廠への爆撃が開始され、その15分後にはB29約80機が大浦油槽所を襲いました。空襲は午前10時50分に終わりましたが、投下された3,500発以上の爆弾(燃料廠に2,017発、大浦油槽所に1,533発)により、設備の大半は破壊されて事実上壊滅、5
東京の短大を卒業して初めて社会人デビューした会社が金融業界で、日本の民間で最大の機関投資家としても知られている会社である。その時の上司と先輩がこの周南(徳山)に遊びに来てくれることになった。初日は徳山に宿泊、二日目はせっかくなので三人で萩の温泉宿に泊まることにした。仲の良かった先輩は20年ぶり、上司に関しては30年ぶりだ。尊敬して止まなかったお二人がまさかこの地元に来て下さるとは。東京からわざわざ徳山に来て下さるからには徳山でしか味わえない最高のおもてなしをしたい。山口県と言えば
2019年11月23日飯田動物園の動物たちとおさらばして、向かったのは焼肉店です。まだ時間も早いので閉まっている店も多い中、おいしそうな香りに引き寄せられたのは、「やきにく徳山」さんでした。既に、観光客と思しき人や、常連さんたちが食べています。私たちは、入り口に最も近い席で陣取ります。年季の入った鉄板に火がつけられ、何を注文しましょうかねぇ~お通しに野菜盛が来ましたよ。取り敢えず、ビールで乾杯しましょうか。秘境駅の忍耐ツアーに乾杯!!
皆さまは吉田弘文という選手を、覚えてくれてますか?4年前に徳山で展示中に意識を失い1マークを回らずそのまま岸壁の方に激突してしまい四肢不自由になってしまった選手です。私は1回もお見舞いに行けず気にはかけてはいましたが最近彼の方から連絡してくれて毎日のようにラインでやりとりしております❣️彼が事故ったのが徳山だったのでやはり徳山を走る度に、思い起こされるしこの間下関を走った時にも岸壁にぶつかって亡くなった鈴木詔子先輩を思い出し津に行くと津のレース中に亡くなった同
海軍燃料廠の前身となる煉炭製造所が徳山の地に開設されたのは明治38年(1905)でした。これ以降海軍の燃料基地として大いに貢献しましたが、昭和20年(1945)8月の敗戦で閉鎖となり、40年の歴史に終止符が打たれました。煉炭製造所の開設から燃料廠への改組(明治38年~大正10年)までの概略は以下の記事をご覧下さい。『山口県の戦争遺跡52~大嶺炭田(海軍練炭製造所採炭部)(美祢市)【概略】』これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地
今週は水曜日以降ずっと忙しくて金曜日なんか全く宣伝してなかった鉄八わんぱく食堂が大好評だったのに加えて夜は大変混雑し皆様にはご迷惑をお掛けしたと思います。若い子達が増えてる辺り春休み効果⁉️土曜日は少しスローダウンして「これは平日忙しくて週末伸び悩んで結局平均なパターンか❓」と思っていたら今日は盆正月並みに忙しくなりびっくり‼️クタクタです💧ですがですが明日もハッピーマンデーお好み焼き5%OFF営業をしますよ❗️30連勤ウェーイ😂