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もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇としてのあるべき姿、すなわち、上皇としての政務を執っている姿は特筆すべきことではなかったからであろう。藤原定家の日記を紐解くと、建久九(一一九八)年二月三日に後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸したことの記録が出てくる。藤原定家はその御幸の様子があまりにも壮麗であり、卑近な言葉で言えばどんちゃん騒ぎを繰り返したことを非難している。また、後鳥
*:..。o○○o。..:*梶間和歌プロフィール小説梶間和歌YouTubeチャンネル歌集『生殖の海』のご購入はこちら歌をやり取りするfacebookグループ*:..。o○○o。..:*近日中にインスタグラムにて読者プレゼントを始めます*:..。o○○o。..:*秋の歌とて秋ふけぬ鳴けや霜夜のきりぎりすやや影さむしよもぎふの月後鳥羽院新古今和歌集秋下517【現代語訳】秋は更け、夜も更けた。鳴けよ、霧の降りた霜夜のきり
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》604五十首歌奉りし時藤原雅経秋の色をはらひ果ててやひさかたの月の桂(かつら)に木枯(こがら)しの風☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆五十首の歌を差し上げた時藤原雅経木枯らしの風は、世の秋の紅葉の色をすっかり吹き払って、今、月の桂に吹いているのであろうか。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴︎✴︎✴︎✴
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》614冬の歌の中に太上天皇冬の夜(よ)の長きをおくる袖濡れぬ暁方(あかつきがた)の四方(よも)の嵐(あらし)に☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆冬の歌の中に太上天皇冬の長い夜を眠れないでいる私の袖は、いつしか涙で濡れてしまった。明け方の、四方から聞こえてくる嵐の音で。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆✴
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で