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今日はついに「平家物語」最終巻の灌頂巻(かんじょうのまき)についてです平家の子孫は巻第十二で途絶えてしまいましたが、「平家物語」は最後に、生き残った建礼門院を通して、平家の栄枯盛衰を見つめていくのです。《灌頂巻のあらすじ》壇の浦合戦で捕えられた建礼門院(けんれいもんいん)は帰京し、出家する。大原の寂光院へと移り住んだ建礼門院は粗末な庵で仏道に専心し、平家一門の菩提を弔う。そこへ後白河(ごしらかわ)法皇が訪ねてくると、建礼門院は自らの一生を六道輪廻(ろくどうりんね)にたとえて語
藤原定家は、いろんな梅の和歌を詠んでいます。梅花こずえをなべてふく風にそらさへ匂ふはるのあけぼの(梅の花の梢に、おしなべて吹く風に、空さえ香るように感じる、春の曙。)(治承5(1181)年、定家20歳の時の歌、『初学百首』より)なかなかによもににほへる梅花たづねぞわぶる夜半(よは)の木のもと(あちらこちらに梅の花の香りが漂っている。歩き訪ねて思いが乱れる、夜中の梅の木の下で。)(同上)梅の花したゆく水のかげみれば匂ひは袖にまづうつりけり(水面に映った梅の花。その
『吾妻鏡』によると・・・源頼朝と弟の源義経の対立が決定的となった1185年(文治元年)10月、義経は後白河法皇に頼朝追討の院宣を迫ります。一方、頼朝は、義経を討つため土佐房昌俊を刺客として差し向けますが失敗。後白河法皇はどうしたか・・・10月18日、源行家と源義経に源頼朝追討の宣旨を発給しました。京都に駐屯しているのは義経軍だけなので、もし宣旨を出さないで、乱暴をはたらかれたら、防ぐことができません。その難から逃れるため宣旨を下し、頼朝には後で事情を説明することとしたのだとか。宣旨