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本日、図書館に行って借りてきた本です。『源頼家とその時代』御家人同士が領土問題で訴訟しているところで、地図に一本の線をビッとひいて、「これがお前らの土地の境界だ」と一刀両断にする豪快さ、などのエピソードが有名な二代目の将軍頼家。これが果たして史実なのかは疑問の残るところではありますが、いろいろと二代目としての資質に疑問符がつけられている方ではありますね。ただ、のちの幕府、足利の二代目義詮、徳川の二代目秀忠と違い、まだ成熟する前に二代目の重責を背負わされている時点で
【問題】【日本城郭検定1級】江戸の町家は密集しているうえ屋根が茅葺などのため火事で類焼しやすかった。幕府は様々な防火対策をとってきたが、贅沢ということで制限していた瓦屋根と塗籠の家をついに解禁した。それはいつか。【選択肢】文政元年(1818)万治3年(1660)明暦3年(1657)享保5年(1720)【正解】享保5年(1720)【解説】幕府は、「町家の瓦葺きは身分不相応」として禁止していたが、享保5年(1720)4月、大岡忠相が「町屋の普請について、土蔵造り、塗屋、瓦屋
頭の長い福禄寿5つ目は大法禅寺です。福禄寿を祀っています。1633年に阿佐布(現在の麻布)に創建され、1932年にこの地に移転してきました。江戸時代の当時、多くの大名家が帰依していたといわれています。(撮影:2024.1.6)
会津は、戊辰戦争で新発田が裏切ったと言います。では、新発田の当時の立ち回りをザックリ見てみます。新発田藩は、新政府軍と旧幕府の奥羽越列藩同盟のどちらにつくか迫られていました。米沢藩と会津藩の兵に囲まれ、結局は、奥羽越列藩同盟に入ることを宣誓させられます。しかし、それを聞いた江戸駐留の新発田藩士が、新政府側にゆき、「新発田藩は、圧力をかけられて、やむなく奥羽越列藩同盟に加担させられた、天皇に弓を引くつもりはない。」と申し出ます。新発田藩は、会津や米沢から、新政府軍と戦うための兵を差し出せと迫ら
先日、二条城行ってきました。詳細は後述しますが、やはり難易度は高く苦戦を強いられましたが、無事攻略完了。二条城を占領出来ました。これも二条城攻略の背中を押してくれた各一族の皆様、同盟メンバーの奮戦のおかげです。この場を借りて御礼申し上げます。二条城については謎が多く、私を含めて詳細を知らない方が多いかと思いますので、夜な夜な調べた内容を記載していきます。二条城攻略までの道のりも記載しますので、他鯖の皆様の参考になれば幸いです。二条城について:事前準備二条城攻略を目指すにあたり、
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E8%A1%97%E9%81%93幕府により作られた佐渡島から金を高崎へと運ぶ最短ルートhttps://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASMB14J5WMB1UHNB007.html%3Fusqp%3Dmq331AQOKAGYAe6xp-i_zqDwuAE%253D新三国トンネルも貫通した様ですね😁関越自動車道
2月に入り、とても冷たく強い風が吹く頃になると私の頭に浮かぶ事があります。「明暦(めいれき)の大火(たいか)」通称「振袖(ふりそで)火事」のことです。1657年に起こった歴史上最大規模の大災害です。歴史に詳しい方はご存じかと思います。明暦三年正月十八日(3月2日)の未の刻(午後二時)に火の手が上がり、折からの強風に煽られてたちまち江戸中に燃え広がりました。火の手はまるで巨大な化け物のように町を覆い二日間に渡って町を燃やし続けたのです。江戸城本丸(天守閣のある建物)をはじめ二の