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『『川島神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~善入寺島と七十五の神事の謎~』『『中内神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~阿波藍と秘密の女神~』『『事代主神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~大物主と二柱の事代主~』『『建布都神社』…ameblo.jp↑のつづき。さて、善入寺島(粟島)に想いを馳せながら川島神社を後にして、車でさらに西へ数分。『大明神農村公園』の看板を発見。カッコよすぎる園名に興奮しながら奥の石段を進む。立派な鳥居。この山の上には、多くの古墳群が眠っている
『出張の合間の神社巡り奈良編2023『大神神社①』~大神の道は宝の道~』『出張の合間の神社巡り奈良編2023『元伊勢檜原神社』~多数決では決まらないこと~』『出張の合間の神社巡り奈良編2023『国津神社~ホケノ山古墳』~最古…ameblo.jp↑のつづき。さて、狭井坐大神荒魂神社からさらに数分歩いた。そして、たどり着いたのが御存じ、『大神(おおみわ)神社』である。この時は7月下旬。AM8時頃。太陽が拝殿の真上に輝いていた。拝殿の奥には三ツ鳥居『三輪鳥居』。大和国一之
ご訪問ありがとうございます。さて、前回リブログでご紹介した「2人のハツクニシラス天皇」では、九州から来た「神武天皇」と第10代の「崇神天皇」について一人の始祖を分化させた疑いがあるということと崇神天皇は「ミマキヒメもしくはミマツヒメ」のところに婿入りをしてミマキイリヒコになった可能性を考えてみました。しかし、考古学会には神武東征を否定する見解があります。例えば、国立歴史民俗博物館名誉教授の白石太一郎さんは、畿内から九州への土器の流入はあっても、九州から畿内への流入が極めて少な
『日本書紀』を読んでいると、不思議な数字に気が付くことがあります。『日本書紀』編纂時に現れるのは、天武天皇の崩御日と川嶋皇子の薨去日が同じ9月9日という不思議な一致です。川嶋皇子は、天武天皇が国史編纂の詔を出されたときに、筆頭に名前を記されている皇子です。その川嶋皇子が、天武天皇が崩御された5年後の同じ日に亡くなっています。神武東征に関連して、神武天皇が東征出発前に語られた言葉の中に、1792470年という数字が登場します。東征出発の年が、瓊瓊杵尊が天孫降臨してから17
ご訪問ありがとうございます。今回から垂仁天皇の巻に入ります。とりあえず読んでみましょう。活目入彦五十狹茅イクメイリヒコイサチ天皇(垂仁天皇)は、御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ天皇(崇神天皇)の、第三子である。母の皇后曰御間城ミマキ姫は、大彦命の娘である。天皇は、崇神天皇29年壬子ミズノエネの年春正月1日瑞籬宮に生まれ、生まれながらに秀でた容姿で、壮年になってからは度量も広く、人となりは真理に叶い、歪めたり飾ったりしなかった。(崇神)天皇はたいそう可愛がって、お側にお置きになっ
今日は徳島県北西部の神社などを精力的に巡ります。今回の3日間の旅行では時間的に全然足りない事が分かったので、アクセスの悪い徳島県の北西部、吉野川北部を中心に巡る計画です。飛行機のフライト時間ギリギリまで頑張ります。先ずは朝ご飯を食べに食堂へ降りました。昨晩にスタッフの方から言われた通り冷蔵庫のトレーを取り出しました。食パンをトーストして紅茶を淹れただけの作業です。これで夕方まで頑張ります誰も居ない宿のフロントに鍵を置いてチェックアウトです。玄関を出たら隣家の方が門を開けてくれ
日本の歴史(Historyofjapan)真・この国のかたちホアカリとウガヤフキアエズは、、、ひじかたすいげつホアカリ追申「邇邇芸ニニギ」の子は「火照ホデリ・海幸彦」①、「火須勢理ホスセリ」①、「火遠理ホオリ・山幸彦」①。火遠理ホオリの子は「彦渚武ヒコナギサタケ」②、安曇の祖「宇都志日金拆」②、尾張の祖「振魂(布留玉)」②。彦渚武命の子は物部の祖「宇摩志麻遅ウマシマジ」③と神武天皇の兄「五瀬イツセ」③。「イナイ」、「ミケイリノ」、「サノ」もいたといわれる
「神人分離」の始まり、奈良の大和神社金澤成保石上神宮から徒歩で天理駅に戻り、JR万葉まほろば線(桜井線)で長柄駅まで行って、駅の南東徒歩10分ほどにある大和神社(おおやまとじんじゃ)を訪れた。石上神社とともに、「上古」の神々への信仰について触れてみたかったためである。大和神社は、天照大神とともに宮中に祀られていた倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ、日本大国魂神とも表記)を遷してお祀りした神社で、国の主要神社である「二十二社」に列し朝廷から特別の奉幣を賜り、9世紀末には伊勢神
~大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立~古来、和歌にも詠まれてきた大江山へ、真名井神社からの帰り道で差し掛かりました。和泉式部の娘・小式部内侍の余りにも有名な歌。当時、母の和泉式部と同じく女官として出仕する傍ら、歌人としても知られ始めていた小式部内侍でしたが、一部には、彼女の詠む歌は母の和泉式部が代作しているのでは?などと悪評を流す人々もおり、その噂がまことしやかに都人の間で流布されていたそうです。この噂を受けて、とある歌合せの場に参加していた小式部内侍に対し、同席した