ブログ記事1,257件
当時、私の母親は86歳数年前から食事を作るのも掃除をするのも面倒になってきた様子なので老人ホームに入ってもらうようにしましたが、職員のイジメに会ってしまいましたそして2か所目のケアハウス(要するに老人ホーム)に入ってやっと落ち着いた頃でした娘と違って息子なんていうのは大体がそんなもんでしょうが今まで母にプレゼントはおろか優しい言葉の一つさえもかけてあげたことなんかありませんでした他の誰よりも親には世話になっているにもかかわらず子供なんて自分勝手なもんです老い先短い母
「ホント、いいニオイ」君も言ったから、その日はANAL記念日。四つん這いにされて、ガムテもされて...2人のshitaがperoperonamenameとANALの機内清掃真っ最中です。チカラ抜けって重富さんがnamenameしながら言うんですが、チカラ抜いたら...ANAがオープンしちゃう。ANAの紋所を優しく優しくnadenadenadenade...ビリビリビリッ!カラダ中に電流が駆け巡ります。全身が痙攣しまくり島倉千代子なんですが、全日空の機内清掃はきっとうまくいく.
昨晩の先物急落も驚いたがこれにはもっと驚いた😳多分今後2度とない!そう思ったので記念に撮っておいた🤣中日ドラゴンズが首位😳開幕戦で負けて今年もダメか…😰2戦目も引き分けで勝てない😭特に遊撃手ロドリゲスの失策昨年の再現やないか!💢打てん守れん勝負根性なし!まるでナイスネイチャやんか※ナイスネイチャは競走馬実力はあるのに勝てないアンカツがまだ地方競馬にいた頃騎手が下手やから勝てん!と豪語してたが中央競馬に移籍後このナイスネイチャに騎乗したがやっぱり勝てなかっ
感謝してもしきれないくらい感謝していましたからその後島倉さんから治療費を頂くことは一切ありませんでした父親を亡くしたのは小学校4年生でしたから当時どれほどの悲しみを感じたのかもう覚えてはいませんが母を亡くした悲しみというか脱力感といったらありませんでした本当に仕事をやる気が失せてしまいましたねぇ私のところは7月決算なのですが後半の歯科医院の売り上げの落ち込みは凄まじくそれでも「何とかしなければ…」という気持ちも湧いてはきませんでしたしかしこの年を大底にして
島倉さんの思い出話は今回で最後になると思います話しが前後してしまいましたが5,000万円の顛末について詳しくお話ししておこうと思います贈与税の対象になるのかも知れませんが…まぁそうなったらそうなったでしょうがないです事実ですからね(『あれは贈与です』と言い張る小室佳代さんが追徴課税に応じたら私も支払うことにしましょう)亡くなった年である平成23年4月の週末に電話で連絡があり「先生に預けている5,000万のうち3,500万だけわたしの口座に入れてくれません
亡くなる数日前(2,3日前だったと思います)の夕方6時ちょっと前に島倉さんから携帯に電話をもらいました「(弱弱しい声で)先生お世話になりましたね先生はいつも『わたしに借金している』って言ってましたがそんなものはありませんからね」「はいわかりました」「もう疲れたからこれで切るわね」「はいわざわざありがとうございました」そして平成25年11月8日に亡くなりました数日後最後の最後まで島倉さんと一緒だった"ちよさん"から「告別式は14日だから出席して下さい」と連絡があ
キッカケは深夜12時過ぎに急患で来院した患者でした治療が終わった後に「忙しそうだけどどんな仕事してんの?」「芸能関係のプロダクションにいます」「ほ~どんな人がいるの?じぶんとこ」「実は島倉千代子の個人事務所でしてそこでマネージャーやってます」「なーるほどぉそれじゃぁ忙しいよなぁ歯医者なんかなかなかいけんよねぇ」「ええ忙しいですだけど行けないことはないんですが…」島倉千代子と聞いて子供のころの記憶が呼び戻されてきました単なる記憶の断片なので事細かに覚え
食べ物商売ならいざしらず「芸能人の誰それが来ました」とか「マスコミに取り上げられました」とか誇らしげに言って集患をはかる医療機関もありますね顔の整形なんか昔は秘密裏にやるものでしたが今は化粧に毛が生えた程度の認識しかないようです都内で20年以上歯科医院をやっていればしかも『24時間急患随時』などと謳っていれば尚更のこと超有名な方からいつブレイクするのか(しないのか)わからない芸人さんまで色々な業界の方々がみえます有名人が来れば(私も”普通の人”ですから)「えっ!こんな人
『歌手島倉千代子の逸話⑨』のブログを書いた時にアップしたかったんですがうまくいかなかった亡くなる前年の春に受け取った手紙が☟です”眼の手術のこと”が書いてありますそれから「実印を返してもらえず」とあるのは当時トラストミュージックの役員に名を連ねていた『千代田区の女性眼科医(住まいは港区虎ノ門)』からということですそれから「銀行は誰も入れず私とだけ話をしたい・・・」とありますが銀行ですからお金の話でしょうけれどもこのことについては何も聞いていません今思うと
1999年NHK「ふたりのビッグショー」「いつまでも青春これからも青春」前半舟木一夫・島倉千代子コロムビアの先輩後輩になる島倉千代子さんと舟木一夫さん。舟木さんは「お千代姉さん」と呼んで、大変中の良い関係でした。長くコロムビアを引っ張って行かれたお二人です。大変舟木さんも楽しんで歌われているのが判ります。お千代姉さんの、小指にチュ!微笑ましいです。「いつまでも青春これからも青春」前半「星空に両手を」「学園広場」「修学旅行」「初恋」「想い出さん今日は」
♪昨日のことなら忘れたが遠い昔は今も鮮やか…(「風のワルツ」詞・秋元康)と舟木さんも歌っておられますが、自分も年を重ねていつの間にやら「高齢者」と呼ばれるようになりました。秋元さんは、僅か32才でこの歌のような心境がわかるなんて、凄すぎます。父親の影響からでしょうか、わたしは、まだ幼い少年期から歌が好きだったようで、それこそ"遠い昔"に耳にした歌を、今でもしっかりと覚えています。それも場所・光景付きです。♪赤く咲く花青い花この世に咲く花かずかずあれど…島
今回は、先日初めて存在を知った"謎の曲"についてですシングル曲(地方盤、PR盤含む)、アルバム曲、雑誌や会報、歌詞集などの資料から様々な情報を集めて島倉千代子さんの曲を調べてきましたが、今回、例によって古いオープンリールテープに録音されていた放送音源の中に、私が初めてその存在を知った曲が録音されていました。音源を聴いても全く聴いたことのない曲で、大変驚くと共に興奮と喜びが同時に溢れましたその曲は昭和35年頃の番組で放送された「海ほおずきの浜」という曲ですが、島倉さんの美しい歌声が冴え渡る
3月30日島倉千代子さんの誕生日は大勢のファンが集まり、皆の歌で誕生日を祝いました。その後、島倉千代子資料館に一部の方たちは来館して頂き、お花見をしたあと展示品をご覧になりました。皆さんに満足して頂き大変喜ばれました。昭和30年代、島倉千代子さんの後援会は全国各地に支部があり、それぞれファン活動をしており旅行などをして親睦を深めていたそうです。独自の会報も発刊していた支部も多数ありました。昭和36年当時の支部一覧こちらは支部報や後援会解散後、独自にファン活動をしていた頃の会報です。
島倉千代子さんが生まれ育った北品川を訪ねた番組より。プロになる前の島倉さんは北品川の商店街の方々と若旦那楽団を結成しアマチュアながら各地を慰問に訪れるなどして歌声を響かせていたそうです。最初に歌声を披露した場所は実家からほど近い聖蹟公園。品川橋には若旦那楽団が!嬉しそうに人生いろいろを歌う島倉千代子さん🎤ご実家にも立ち寄りました。下町らしい細い路地を通り・・・ご実家へ。島倉千代子さんは爆弾騒ぎに3度巻き込まれており、ご実家にも爆弾が置かれたことがありました。残念ながら島倉千代子
島倉千代子さんは子供の頃、歌手志望だった12歳年上の長姉敏子さんの杖代わりとなり歌謡教室に一緒に通っていました(敏子さんは小児麻痺の為足が不自由でした)。通っていた先生が童謡を歌うのに適年齢の歌の上手い子がいるということで島倉千代子さんをテイチクに紹介し、そのまま童謡「お山のお猿(大正8年作曲)」を吹き込むことになり晴れてレコードが昭和24年3月発売されることになりました。しかし、担当者が島倉の「島」を途中で書き損じたのか「戸」にされてしまい"戸倉千代子"という存在しない名前で世に出てしまっ
明日3月30日は島倉千代子さんのお誕生日。ご存命であれば86歳を迎えます。島倉千代子さんは7ヶ月で産まれ、400匁=1500gに満たない早産児でした。早産だった為、長命であってほしいとの願いを込め「千代子」と名付けられたそうです。その後は順調にすくすくと育ちましたが…島倉さんが7つの頃(昭和20年)戦況が悪化し長野県芳川村村井(現松本市)に疎開しました。その疎開先での出来事ですが、水を汲み1人で乳母車を押していたところバランスを崩し転倒、手首に47針を縫う大怪我をしてしまい生死をさまよ
今年も島倉千代子さん関連の記事を発信したいと思います。よろしくお願い申し上げますさて、月1度ペースで更新している当ブログですが、早いもので6年目に突入。お読みくださっているファンの方が意外にも多くいらっしゃり嬉しい限りです今回は島倉千代子さんの長年のファンの方が資料館にお越しくださり、島倉さんが亡くなられてから始めたというピアノを披露してくださいました🎹それぞれファンごとに島倉さんに対する想いがありますが、今回ピアノを演奏してくださった方は、島倉さんの歌われてきた曲を自分で弾きたいという一
日本中の「ご当地ごみ収集車メロディ」を紹介しようという「ごみ収集車音楽メドレー」以前、地元の横浜市と隣で勤務地だった川崎市のごみ収集車メロディを紹介しました。ここにもマニアはいるのですね。去年の11月の記事なのにいまだにコンスタントにアクセスがあります。これは今年の8月・9月10月の1ヶ月のアクセス数なのですが、各月150〜170、平均すると1日5回ほど見てくれて
島倉千代子さんの切り抜きのご注文をいただきました。島倉千代子さんを見ると人生いろいろと勇気づけられます。LINE@始めました「友だち追加」していただきますと毎週金曜日ホームページ商品追加情報ヤフオク出品おすすめ情報などを配信ご質問などもLine感覚で可能ですQRコードをお読みただくか下記ID検索で「友だち追加」をお願いします。@614bblcx<写真集・雑誌・切り抜きなどの買い取りついて>-------------写真集買取のお申し込み雑誌買取のお申し
明けましてお目出度う御座居ます。本年も宜しくお願い申し上げます。今年は卯年ということで自分の干支です!飛躍の年にしたいと思います年末年始は、行事が多い我が家。今どきの人は日本の風習より外国の風習の方が大事、正月もただの長期休暇と思う人が大半かと思いますが、私は古風なこと、時代に逆行することが好きな人間なので、これからも古くからの日本の習わし、地域の習わしを大事にしていきたいと思います。日本にはハレとケという言葉がありますが、毎日、正月や誕生日のような祝い事や記念日が常態化していては、お
先日船村徹さんの特番がBSテレ東にて放送され、船村さんのご子息で作編曲家の蔦将包氏が、島倉千代子さんの「哀愁のからまつ林」について作曲家目線で語っていました。島倉千代子さんの「哀愁のからまつ林」は最高音がミ(hiE)で最低音がソ(mid1G)です。語るようなメロディーを高音から低音まで切々と歌い込まれていて、哀愁ある美しい歌声が一段と引き立ち心にしみ入ります。今の女性演歌歌手の歌う曲で最高音がミの曲はほとんどありません。高くてもド(hiC)ぐらいまでで、島倉さんの曲をカバーする際も最高音を
当ブログをご覧頂いている皆様、新年おめでとうございます㊗今年は寅年、島倉千代子さんの年ですね🐅本年も宜しくお願いします今年最初の記事は、島倉千代子さんの第一回リサイタル(1962年)とデビュー10周年リサイタル(1964年)を録音した5号オープンリールテープをご紹介こちらが昭和37年(1962)11月17日・18日に浅草国際劇場で開催された3時間半に及ぶリサイタルの模様を1週間後の11月25日に1時間に編集して放送したテレビ番組の録音テープです。60年前に放送された歌謡番組なので恐らく
昨日ラジオを聴いていたら、変わったダジャレが聞こえてきた。「至れり尽くせり石川セリ」、石川セリは井上陽水の奥さん。「しまったしまった島倉千代子」「こまったこまったこまどり姉妹」「ラッキークッキー八代亜紀~~~」「あたり前田のクラッカー」明日は友達とカラオケに行くので、島倉千代子の「愛のさざなみ」と石川セリの「8月の濡れた砂」を曲目に入れるつもりだ。友達といってもおっさん二人で・・・・古希のおっさんと来年1月古希をむかえるルイパパと。同級生である。さて今朝のルイ君の散歩は
先月歌舞伎座に行ってきました正月公演だけに絢爛豪華の舞台で大満足一度見てみたかった白浪五人男も見られました5人が手に持つ「志ら浪」の番傘は粋ですね⛱こういった和の小道具、子供の頃から大好きなもので、小学生の頃本物の番傘を買ってもらい、登校しようとしたら重くて諦めたことがあります今回売店で志ら浪まめ番傘(限定20本)を見つけて、どうしても手元に欲しくて買ってしまいました誰もわかってくれないであろう趣味ですが、4月頃届くそうで楽しみ島倉千代子さんも舞台で番傘を持って演じています。な
来る11月8日、島倉千代子さんは没後10年を迎えます。ファン誰もが思うことだと思いますが、本当にあっという間の10年でした。今年は10年の節目ということで、島倉千代子さんのファンによる集いが品川で開催されるとのことです。ファンであればどなたでも参加できるので詳細はお墓にある案内をご確認ください。そして11月5日は林家たけ平さんによるミュージアム講座「島倉千代子この世の花」が古賀政男音楽博物館に於いて開催されるそうです。詳しくはこちら島倉千代子この世の花|古賀政男音楽博物館古賀政
島倉千代子さんが亡くなり今月8日で丸10年の節目を迎えました。お元気でいれば85歳、平均年齢を考えるとまだまだお元気で居られたはずですが、子供の頃の大怪我による輸血でC型肝炎を患ってしまっていたことが50代の頃に判明し、医者からは75歳までは生きられると言われていたそうです…島倉千代子さんは「命ある限り歌い続けます」とずっと仰っていましたが、やはり、人よりも限りある命を強く意識し大切にしていたのではないでしょうか。それ故に1日1日歌えることの喜びを誰よりも感謝していたのだと思います。それ