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【昭和の時代】修学旅行に行くのも命がけだったコロナ禍で修学旅行が取りやめになったり、最近では修学旅行自体をやめる学校も出てきているようですが、修学旅行は、卒業したのちも折に触れて思い出すことの多い学校行事ではないでしょうか日本における修学旅行の歴史は明治時代にまでさかのぼりますが、第二次大戦後は1950年代以降になってようやく再開されたそうです。しかし、まだ各種インフラの整備が不十分だった昭和の時代には、修学旅行中の事故で命をおとす子どもたちがたくさんいました!最近の
かつて、四国にも、島内を走る夜行の交通手段があったのを御存じだろうか?運行形態に様々な変遷はあったものの、宇高連絡船が発着した高松を起点に、瀬戸内沿いに松山方面へ向かう予讃本線641D列車と、四国山地を貫いて高知方面へ向かう土讃本線721D列車の2本が、鉄道における最終期の姿だった。昭和63年10月の時刻表を紐解けば、641Dは、高松を午前0時10分に発車して、予算本線の小駅をところどころ通過しながら深夜の瀬戸内を走り、松山に3時54分着、終点宇和島に7時10分に到着する。高松から
昭和61年の夏の週末のこと、僕は、東京駅を20時15分に発車した宇野行き寝台特急列車「瀬戸」の2段式B寝台車の一隅に収まっていた。今では、宇野、という地名を聞いてピンと来る人が、どれほどいるのだろうか。宇野は瀬戸内海に面した岡山県玉野市の中心となる町で、江戸時代は特に港湾設備が設けられている訳でもなく、産業も漁業より農業が主で、入浜式塩田による製塩業が主たる収入源であったと言う。明治時代に隣りの玉村と合併して、双方の一文字ずつをとって玉野村となったものの、後に宇野村として独
姫路では、網干始発の普通列車(18:44発)が先発ですが、もちろん117系でシートがいい新快速へ乗り換えました。【3682M】新快速・野洲ゆき姫路18:54→明石19:27すっかり日が落ちてしまった姫路駅4番ホーム停車中の117系。明石まで、クハ117-24に乗車しました。今思うと謎なのが、なぜ明石で下車したのか?確かに次の目的地は新快速は停車しないのでどこかで乗り換えが発生するのですが、始発電車が利用できる西明石でないのが不思議。きっと、特急が停車する明石の方が街
明石からは、緩行線を須磨まで乗りました。【京阪神緩行線】高槻ゆき明石19:36→須磨19:53東海道・山陽本線の緩行線に乗るのは、今でも結構好きです。空いているのはもちろんですが、それだけではなく好きです。ただ、理由は思いつきません。きっと当時もそんなんだったんでしょう。クハ103-151と低運転台の若番車に乗ってます。須磨駅4番ホームに到着した、103系7連。当時はJR東海でもこの手の103系はいましたので、珍しくなかったです。ただJR西日本では、N40化さ
香川県の高松に鉄道が開通したのは1897(明治三〇)年2月21日。駅舎は現在の高徳線昭和町付近にに置かれ、木造平屋で瓦葺だったということです。現在の場所に誕生したのは、1910(明治四三)年7月1日。岡山・宇野と高松を結ぶ宇高航路開設に合わせ、内陸部にあった駅舎から軌道を付け替えて港寄りに移転したのが始まりです。その二代目駅舎は、洋風木造建築の、2階建の駅舎は延べ1450平方メートル。当時、巨大とされていた大阪・梅田駅を凌ぐものだったとされます。ほぼ現在の駅舎の場所に南向きに建てられました。