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母との面会を終えた後、待合室に戻りました。明日仕事だったのですが、心配で仕事どころではない為社長に休みをずらして欲しい旨を伝えました。1週間前、会社で母と電話してる姿を見ていた社長は、母が今日明日が山かもしれないと言った私の言葉が最初信じられなかったようでした。冗談を言っているんじゃないかと思ったそうです。私自身も信じられないのだから、周りはもっと信じられないんだと思います。とりあえず明日休みになったので、今日は一旦帰り朝一でまた病院に行こうと父と相談しました。そして、今
納棺の前日実家に行き、母の棺に入れるものを探しに行きました。タンスの中から、母が生前気にっていた洋服を選びました。タンスを開けた時、母の香りがフワッと香り胸が締め付けられました。そして、入院中通販で購入した真新しい洋服が何着か入っていました。ストーマになったから洋服買わなくちゃと言って購入したものでした。一度も袖を通すことがなく亡くなってしまいました。母自身も、まだまだ生きれると思っていて最近になって洋服だったりバックだったり購入していたんだと思います。バックも数回使用しただけ。私や
翌日は、仕事に向かいました。仕事中も、ずっと母のことが頭から離れませんでした。11時頃、会社の買い物を頼まれ運転していました。すると、小石を踏んだのか車の下からカランと音がしました。なんとなくその時、何かを知らせる音なのではないかと感じました。それから、会社に戻り仕事をしていると父から電話がきました。きっと、また何か悪い知らせだろう…そう思い電話に出ました。『もしもし。』『今、叔父さん連れて病院来たんだけどお母さんもう息してないんだ。』『嘘でしょ
我が家のポストの下には、花が植えられるところがあります。庭の草木の手入れが本当に苦手なので、ほぼ放置で何も植えていません。でも、今年も花が咲きました🌸母が、生前植えてくれた花です。去年も今頃の時期に咲いていましたが、今年も咲いてくれました母が植えた花かと思うと、花を見る度涙が溢れそうになります。去年、花が咲いたときものすごく嬉しかったのを思い出します。母は私とは違い、草花が大好きで我が家の庭に花を植えたりプランターに寄せ植えを作ったりしてました母が亡くなってからは、花を植えることもしてないの
数十分待っていると、看護士さんが呼びに来てくれ母の病室へと通されました。母は、目を閉じていました。母が亡くなったことを受け入れられなくて直視出来ませんでした。苦しそうな顔ではなかったことが、せめてもの救いでした。そして、看護士さんがうっすら化粧をしてくれたのかもしれないですが、血の気のない感じに見えました。その姿を見た時、私は泣き崩れてしまいました。そして、顔に白い布をかけられたとき、本当に亡くなってしまったんだと思いましたが、現実を受け止めることが出来ませんでした。無理な事
病院につき、泣きながら消化器外科の待合い室へと向かいました。そこには、父と叔父が…。来た時には息をしてなくて、声かけても反応がなかったことを改めて伝えられました。そして、病院側から霊柩車を1時間以内に手配して欲しいと頼まれたので、叔父の知り合いの葬儀屋さんを手配したからと言われました。霊柩車…葬儀屋…色々なことを言ってくるけど、私は全く頭がついていきませんでした。ついていかないというよりも、受け入れられない気持ちの方が大きかったと思います。今は、看護士さん達がエンゼルケアをし
家に帰る車の中、心配してるかもしれないと思い主人に電話をしました。すると、寝ていたようで眠たい声で電話に出ました。何も心配してなかったんだなぁと思いました。『お母さん、肺に水がたまって1度抜いてもらったんだけど、結局すぐたまっちゃってダメなんだって。』『そうなんだ。』『それで、利尿剤投与して水が少しでも出るようにやってみましょうってことになったの。』『そっかぁ。でも、どうせもうダメでしょ。』私は、この人には人間の心があるのだろうかと疑い
先日、あさみちゃんとお昼ランチしに鶴よしさんへここの蕎麦屋さんは、生前母がとても好んで通っていた、蕎麦屋さん。亡くなってから3年経ってから、やっと足を運べるようになりました。母が必ず頼む天ぷらも。。亡くなったばかりは、ここへ来ると思い出して涙がでそうだったので、避けていましたが。やっと、来れるようになりました。天国の母へもその蕎麦の味が届くといいな☺️
担当医からの説明が終わった後、母に15分だけ会えることになりました。コロナ禍ということで、許された時間はたった15分。母は個室の病室にいました。医療麻薬がまだ効いていないのかまだとても苦しそうでした。酸素をつけており苦しそうな息の音が聞こえ胸が締め付けられました。『大丈夫?苦しい?』と聞くと小さな声で『ちょっとね…。』と母。6日前は、あんな元気な声だったのに。信じられない気持ちでいっぱいになりました。体も更に痩せてしまっていました。父が『元気になって
母との面会の時間を終え、再び待合室に戻りました。とりあえず、昨日よりは落ち着いていると先生も言っていました。このまま、ずっと病院にいても母に会えないため1度実家へ戻ることにしました。実家に戻る前に、叔父に報告しに行きました。叔父も、ショックを受けていました。みんな声を揃えて言うのは、一体余命2年~2年半というのはなんだったんだろうと。仕事にも復帰出来るって言ってたのに…。みんな頭と心がついていかない気持ちは一緒でした。その後、実家に戻り父と弟と3人で過ごしました。母のいない空間が本当に不思議
家族会館へ着き、母を霊柩車から下し部屋へ安置しました。室内は冷房が凄く効いていました。そして、葬儀社の方が母の体の側にドライアイスを置いていきました。認めたくはないけど、本当に亡くなってしまったんだなぁと改めて感じました。そして、病院でうっすら化粧をしてくれましたが葬儀社の方がきちんと化粧をしてくれ綺麗にしてくれました。父は叔父に葬儀は生前母が家族葬みたいな小さな式がでいいと病院で伝えていたようです。そして、叔父は私に『お父さんとお母さんはそう言ってたみたいだけどどうしたい?』と聞
更に1時間経過した時、面会の許可が下りました。中に入ることが出来るのは、2人のみと看護士さんに言われました。父が、朝会ったから私と弟で行ってきなさいと言ってくれました。弟と二人で、母の病室へ向かいました。医療麻薬のおかげなのか昨日よりは少し楽そうに見えました。そして、やはり意識は朦朧としているようでした。私達二人が母のベッドの横に行くと一瞬目を開けました。『あれ、日曜日なのに仕事は大丈夫なの?』と言いました。『お母さん、今日はね火曜日だよ。ちょうど休みだから来てくれたん
翌日、朝早く病院へと向かいました。父はまだ来てないだろうと思ったのですが、父も弟もすでに消化器外科の待合室にいました。みんな心配で仕方なかったことが凄く分かりました。母は、家族のみんなから愛されていたんだなぁと改めて思いました。父は、朝方一度来て母に会ったそうです。昨日よりは、少し落ち着いてるように見えたそうです。病院に到着してから1時間以上経過しましたが、一向に母の病室に入ることが出来ませんでした。なぜだろうと思ったら、弟が東京から来ており県外の人を中に入れる許可をとるために
葬儀の打合せがおおよそ終わり、叔父は家に帰りました。そして、父は弟が夕方新幹線で帰って来るので駅まで迎えに行きました。家族会館の室内は、母と私の二人きりになりました。その時、張りつめていた空気がプツンと切れてしまい、嗚咽するほど泣いてしまいました。バタバタと葬儀の事を決め悲しむ暇はなかったけど、母が亡くなってしまい一気に目の前が真っ暗になり世界中に一人ぼっちになってしまったような感覚になりました。本来なら生きている時に言ってあげたかった言葉を、母に伝えました。どうし
父が弟を乗せ戻ってきました。昨日も朝一の新幹線で戻ってきて病院にいったのに、まさか翌日亡くなるなんて思いもしなかったと…。山を越えて少し落ち着いたと言っていたから、大丈夫なのかなぁと思っていたようです。弟も母の死を受け入れられないようで、母の顔を見れずにいました。ただ、昨日母が生きている時に会えて本当に良かったと言っていました。もし、最期会えずに亡くなってしまったら後悔しか残らなかったと…。今まで入退院を繰り返していたのも知らなかったから、余計に信じられない気持ちが大きいと言
(本文に入る前に、私のブログ名「永遠のいのちの証し人」について、その「いわれ」をお聞きくだされば感謝です。毎回同じ文を冒頭に載せますので、不要な方は本文に飛んで下さってかまいません。私は2018年6月27日に最愛の母を亡くしました。年齢に不足はなく、97才11か月の超高齢でした。しかし、やはりショックでした。10年間、私一人で介護してきた、かけがえのない、小さな、小さな、純真で、かわいい母でした。ところが、何と、その「母の死後の声」がYOUTUBEの動画に録音されたのです
今日は舟木一夫さんのお誕生日。天国の母とお祝いしてヤマザキさんの5つに切ったロールケーキのプチアレンジで「おめでとう」しました(*´▽`)ロールケーキバニラにあんず巻き。コチラのあんずを巻きました。ロールケーキバニラにホイップクリームと甘栗のせ。なかなか美味しかったです(*´▽`)