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白藤を見た場所は、黒渕河川自然公園である。清流の川俣川に足を浸して涼むのを目的として夏休み中は子ども連れの家族が押し寄せる。ところが階段があって上方を見上げれば、そこは城跡なのだという。「別に~」と関心も無くこれまでスルーしてきたけど、一応、どんなものか見ておこうかと階段を上ってみた。見晴らしのよい場所に平らなところがある。説明板によれば、ここは黒渕城跡。恵良惟澄の申状によれば、少弐頼尚が八代を攻撃したとき、本城は一旦頼尚の手中となったが、恵良惟澄が奪い返したという。
8月4日かくし平、明神滝からの帰りに三之公神社へお詣りしました。祭神は尊義王。南北朝統一後、尊義王が神璽を奪って三之公へ朝廷をたて、尊義王・自天王・忠義王の3人が住んだので三之公と呼ばれているそうです。尊義王は病死、自天王、忠義王は、赤松家のお家復興の為に赤松家家臣に殺害されます。
2017年12月9日醒井宿から鳥居本宿への中山道を歩くさわやかウォーキングに参加しています。醒井宿を後にして、中山道を歩いています。柿の木に、柿がびっしりと実ってます。所々に鳥がついぱんだ跡が見られます。道中に史跡案内図がありました。米原インターチェンジの近くを歩いているようですね。中山道の石碑が立っているのは、一里塚の跡のようですね。名神高速道路を通るときによく見えた、アイリスオーヤマの工場も見えてます。中山道は、小気味よいカー
毎木曜日の夜は、YouTubeで竹田恒泰チャンネルで、明治天皇の血筋を引くという竹田恒泰氏の番組を楽しみにしております。本日、竹田氏から、驚くべき話を聞きました。なんと、天皇家南朝の血筋を引く、竹内睦泰氏が1月13日に急逝されたというのです。竹内氏というと「第七十三世竹内宿禰・南朝小倉宮正統竹内文書伝承者」として、蘊蓄の広く深い著作やブログを展開されていらっしゃいました。お立場が、南朝の正当性を主張なさるので、今の時代では極端なところがあったように思います。しかし、竹内氏は、YouTubeなど
こんにちは。緊急事態宣言が解除された新型コロナウイルスですが、6月2日には東京都から、警戒を呼びかける「東京アラート」が出されています。まだまだ油断は禁物です。さて、話は変わって・・・少し前に記事にさせていただいた八幡神社(伝・伊達朝宗奉斉)の桜の続きです。こちらが茨城県筑西市中舘にある八幡神社の境内(写真を撮ったのは4月なので、まだ桜が咲いています)↓境内の案内板には、前回記事にしたように「文治年中伊佐朝宗(伊達氏の祖)は伊佐城主となった時、諏訪・八幡両神社を奉斎し、守護神として、
西番場公民館から、往年の宿場町らしい通りを歩いて10分位で蓮華寺に着きます。元々は聖徳太子が創建した寺の1つです。花園天皇より、菊の寺紋を許されました。なぜ、血の川ががあるか?今は小さい堀に見えますが。14世紀、南北朝時代。鎌倉で再起を期して、都落ちして番場まで来たのですがついに力尽き、430余名が自刃したのです。それが血の川のようになったのですね。オソロシ…供養の墓碑群。庫裏では、たまたま全国の北条氏の子孫で作る菊花会の法事の集まりがありました。びっくり。中庭には弘法大
北方太平記3部作、『悪党の裔』、『道誉なり』、『楠木正成』。先に『道誉』なりを読み終えた。順序としては逆になるけれど、2番目に『悪党の裔』を読む。とりもなおさず初めに読んだ『道誉なり』が面白く、北方謙三の筆に魅了されたので、次も読もうと思った。上巻裏表紙播磨の悪党の首魁には大き過ぎる夢だった。おのが手で天下を決したい――楠木正成と出会った日から、大望が胸に宿った。軍資金を蓄え兵を鍛えて時を待ち、遂に兵を挙げた。目指すは京。討幕を掲げた播磨の義軍は一路六波羅へと攻め上る。寡兵を率