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惨殺された文吉は、洛北の御菩提池村(みどろがいけむら。現・京都市北区上賀茂狭間町。深泥池とも書く)の出身です。生年はわかりませんが、殺害された文久二年(1862)に四十代に見えたとする史料が複数あることから、文政年間の前半、西暦でいえば1820年前後の生まれなのではないかと思われます。農民の出だといわれていますが、所司代与力佐野正敬の手記に「下人」とあり、もとは武家や商家、名主などに仕えた下男であった可能性もあります。もっとも「最低の男」という意味とも解釈出来る文脈ではあるのですが。
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
文久二年(1863)八月二十九日の夕刻のこと。京の都は鴨川の東岸、川端通の二条の辻をやや南に下がったあたりを、ある父娘(おやこ)が歩いていました。※.「文久二年京都細見図」より。父親は名を文吉といい、「猿(ましら)の文吉」の異名を持つ目明かしでした。世に名高い安政の大獄においては島田左近に従い、時の大老井伊直弼に反目する水戸派の検挙に功績をなし、その報奨金(※)を元に高利貸しをはじめて莫大な冨を得ていたことなどから、尊王攘夷の志士は無論、京の町の人々にもひどく憎まれていました
鳥取市内に「因幡二十士山口謙之進正次の墓所」という案内板を見つけ立ち寄ってみました。因幡二十士は全国的には無名ですが明治維新に大きく関わった人々です。幕末の混乱時、どこの藩内でも公武合体派と尊王攘夷派、どちらを支持するか議論が行われていました。鳥取藩では最後の藩主となる池田慶徳公は尊王攘夷派の中心人物・水戸藩の徳川斉昭の息子で鳥取藩へ養子に入ります。一方、鳥取藩は徳川家康の血を引く徳川親藩であった事から微妙な立場にありました。文久3年(1863)当時、朝廷内は三条実美など長
さて、そろそろ時間を戻しましょう。慶応四年(1868)二月三十日の夜、三枝蓊に対して二回目の尋問が行われました。一回目の尋問では共犯者はいないと述べた三枝でしたが、二回目の尋問では共犯者がいることを認めました。ミットフォードの回顧録によると、「朱雀操と名乗っていた共犯者の本姓は林田というが名前は知らない。彼は京都の近くの桂村の村医者の息子で士族ではない。彼は浪人で御親兵の南一番隊に属していた」と三枝は供述したようです。が、先述したように、実際には朱雀操はれっきとした武士であり、おそらく三
押小路高倉上ル目明し文吉右の者、先年より島田左近に随従いたし、種々奸謀の手伝いたし、あまつさえ去る戌午年已来姦吏の徒と心を合し、諸忠士の面々苦痛をさせ、非分の賞金を貪り、その上島田所持いたし候金子を預り過分の利足を漁し、近来に至り候ても尚又様々奸謀を相企み、時勢一新の妨をなし候間、かくの如く誅戮を加え死骸引き捨てに致し候。文吉殺害の理由については、斬奸状に「(安政の大獄で)島田左近に従って勤王の志士を苦しめ、更に島田左近の所持していた金を利用して金貸しを営み暴利を貪っていた」と書か
ネット上で「幕末の四大人斬り河上彦斎の写真」として広く出回っている古写真について、3年前に記事にしました。興味のある方は下をクリックして下さい。河上彦斎写真の謎この写真は河上彦斎のウィキペディアにも本人の写真として掲載されているのですが、実は出典が不明となっています。そこで調べてみたところ、スペインのアニメファンの方のブログが出どころとなっていて、根拠のないものだということがわかったのですが、その後も調べ続けたところ、ちょっと有力情報かなと思えるものにたどり着きました。この