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自分の中に神はいる,とよくいいますが,これは本当である。人間は,自分の外に神を求める必要はないのである。自分自身が神であるという事実に気がつけばいいだけである。「自分自身が神」であることに気づくよう修行するのが正しい宗教である。ちなみに,仏教は,自ら悟りを開いて成仏することを目指す。「自分自身が神」であることに気づくよう修行するのである。悪い宗教は,同じ人間(教祖)を崇拝させる。あるいは,外に神をつくり,人を洗脳し支配していく。表向きは仏教でも,人間(教祖)を崇拝させると
(『新・人間革命』第4巻より編集)10〈春嵐〉10ー彼女の夫は、勤行もし、妻の活動を積極的に応援してくれたが、仕事が多忙なこともあり、会合には、ほとんど顔を出さなかった。ある時、地元の壮年の幹部が、彼女に言った。「お宅の御主人は、活動に参加しないが、それは単己(たんご)の菩薩というんだよ。それじゃ、だめだね」単己の菩薩というのは、地涌の菩薩が出現する際、眷属をもたず、単独で出現してきた菩薩である。”単己”といっても、地涌の
娘が春休みに京都に旅行する。神社仏閣を観光して回るらしい。どうせ見学するならその場所についてのエピソードなどを知っていた方が楽しい。古典の面白いエピソードを教えてあげようと考えている。親心である。清水寺に関して、わたしがいちばん好きな話は、これである。同内容の話が色々な説話集に採られているが、『古本説話集』のお話を要約しておく。検非違使(京の警察のような役職)の忠明が、京童(京の不良少年)たちと乱闘になった。京童が刃物を持って取り囲んだので、忠明は清水寺に逃げ込んだ。御堂の
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん臨済義玄「臨済録」臨済録は、中国の禅僧で臨済宗開祖・臨済義玄の言葉をまとめた書物です。ちなみに、羅漢とは位の高い修行者、親眷とは身内や親族を指します。今回の言葉、字面だけを見るととても過激に感じます。しかしもちろん、そのままの意味で「殺せ」と言っている訳ではありません。解脱(悟り)に至る為には、あらゆ
カタカナの中で1番画数が多いのはネとホなぜねとほの画数をこれ程までに伸ばしたのか。何か理由を持つのだろうかとカタカナの成り立ちについて調べてみたところ以下の文面を見つけた。片仮名の起源は9世紀初めの奈良の古宗派の学僧たちの間で漢文を和読するために、訓点として借字(万葉仮名)の一部の字画を省略し付記したものに始まると考えられている。この借字は当初、経典の行間の余白などにヲコト点とともに使われていた。それが小さく素早く記す必要から字形の省略・簡化が進んだ結果、現在見る片仮名の原型とな