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「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛については、このブログでも散々取り上げて来ましたが、時々思い出したように書いていたので、飛び飛びだったり、途中で終わったりしてしまったので、ここらでひとまずまとめておきたいと思います。田中新兵衛は天保三年(1832)に鹿児島城下で生まれました。ただし実家や両親については何もわかっていません。『忠義公史料』に「下町に住す。幼年の時、森山新蔵が手伝いとなりたる者なり」とある事から、幼い頃から森山新蔵の元に奉公していた事がわかります。森山新蔵は薩摩の商人で、そ
それは文久二年七月二十日の事でした。旧暦の七月二十日は現在(グレゴリオ暦)の8月21日に当ります。島田左近は二条木屋町通り樋之口の、君香の為に借りた貸座敷を訪れていました。この日は暑い一日だったようで、暮れ六つ時頃、現代でいえば夕方6時頃の事、左近は暑さをしのぐために下帯姿で行水をしていました。貸座敷には左近、君香の他に下男の清助、下女二名、そして左近が呼んだ祇園新地の芸者三人がいました。あるいは芸者たちの雅な踊りを眺めながら、君香に背中でも流してもらっていたのでしょうか。その
文久二年七月二十日、木屋町二条樋之口の妾宅において九条家の家来島田左近が襲撃を受けて行方不明となり、翌二十一日早朝、そのすぐ近くの高瀬川に首のない死体が浮いているのが発見されました。ただちに町奉行所や所司代から役人が現地に赴き、死体の検分が行われました。死体の右腕に「尾州」の入れ墨があった事から、島田左近である事が君香と下男の清助により確認されました。この入れ墨は、左近がかつて尾張国で罪を犯し刑に服した経験がある事を示しています。更に午後からは九条家の家臣秦岩太郎、久下栄之助と、左近
伏見義挙の計画は寺田屋騒動によって水泡に帰してしまいました。庄内浪士清河八郎は同志飯居簡平のもとに身を寄せていましたが、一度関東に戻って再起を期する事にし、京を出立しました。文久二年六月六日の事です。しかし、京を出て間もなく同志の一人村上俊五郎とばったり出くわす事になります。村上俊五郎は阿波国美馬郡貞光村の出身で、清河の虎尾の会の一員でした。剣術の達人であり、粗暴な性格で知られていました。のちに浪士組道中目付役となり、山南敬助と大喧嘩をする事になるのですが、この時は伏見義挙計画を知って清河
木屋町二条樋之口の妾宅を襲い、島田左近を殺害した田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉の三人は、首のない左近の胴体を高瀬川に投げ捨て、討ち取った首を抱えて薩摩藩屋敷に戻りました。ちなみに二本松の薩摩藩邸(現・同志社大学の地)は文久三年に建てられたらしいので、新兵衛らが戻ったというのは錦小路にあった藩邸でしょうか。一方、君香は堺町丸太町通りの島田左近の自宅に走り、何者かが侵入して左近が襲われ、それ以来左近の行方がわからない事を正妻のゆかに知らせました。ゆかはただちに役所に使いを走らせ、夫
文久二年、島田左近は同姓の正辰と同じ従六位下左兵衛権大尉の官位を得ます。しかし、同時に尊王攘夷派の志士に命を狙われる事になり、一時大坂などに潜伏していました。そして寺田屋騒動により尊王攘夷派の勢力が弱まると、再び京に舞い戻って来るのですが、左近はその後、堺町通丸太町下ル半町西にあった自宅には戻らずに妾宅を転々としていたようです。艶福家であった左近は、当時多くの妾を囲っていました。「手先文吉娘、二条新地芸子、同夷川煎餅屋娘給金十両、その他五、六人有り」(『平塚清影雑集』文久
寺島忠三郎や久坂玄瑞ら長州藩士の襲撃が失敗した事で、島田左近の居場所は再びわからなくなってしまいました。左近との縁が切れた中西君尾も、もはや打つ手をなくしてしまいました。中西君尾は晩年、自らの体験談をまとめて『勤王芸者』(※)という本を出版しました。晩年の思い出話であるし、生涯芸妓として勤め上げた君尾の、お座敷での“ネタ話”として少なからず脚色された可能性はありますが、幕末維新期の実体験談として貴重な証言である事は間違いありません。その『勤王芸者』の中で、島田左近の暗殺事件に関して君
一方、伏見義挙に参加するべく上京したものの、寺田屋騒動で“飼い主”森山新蔵を失ってしまった田中新兵衛は、同じ薩摩藩の藤井良節や海江田武次(信義)のもとに身を寄せていました。その寺田屋騒動で、尊王攘夷派志士中の面目を失ってしまった彼ら薩摩藩士は、奸賊島田左近を殺害する事で信頼回復を図ろうと画策します。その刺客に選ばれたのが新兵衛でした。新兵衛は左近の潜伏場所を探し回る事になります。その一方で、島田左近の居場所が突き止められる過程について、非常に興味深い証言があります。その証言をしたのは
さて、島田左近とは一体何者だったのでしょうか。いきなりですが、これまで調べてきた事を元に、僕なりの結論を出したいと思います。それは島田左近とは、もともと島田正辰が幕府の隠密として長野主膳(井伊直弼の側用人)らと連絡を取り合う際に用いた変名であった。というものです。西本願寺の御家司筆頭にして九条家諸大夫であった正辰は、そのままでは疑われやすかったはずです。だからこそ、島田左近という別人があたかも九条家に仕えていた事にして、万が一長野主膳らと交わした書簡が尊王攘夷派の手に渡るような
今回はるろうに剣心-明治剣客浪漫譚-の登場人物、剣心の宿敵、志々雄真の3つ秘剣について考察してみよう。基本的にはこの3つの秘剣は無限刃の発火能力がなくては成立せず、既に新井赤空が亡くなっているため新たな無限刃が制作できないという将来性のない秘剣である。壱の秘剣・焔霊(ほむらだま)抜刀の鞘走りや地面等の摩擦で着火させ敵を斬るシンプルな技である。恐らく抜刀斎が無限刃を使えば同じ現象が起きるのではないか?比古清十郎なら空気摩擦で発火しそうである。弐の秘剣・紅蓮腕(ぐれんかいな
島田左近は正妻ゆかとの間に三次郎と彦の二男をもうけましたが、実は二人の間にはもう一人子供がいました。その子は女子で、二人にとって最初の子供だったようです。しかし、残念ながら大人になる前に死んでしまいました。島田左近の娘の墓は、西本願寺大谷本廟の南谷墓地に、父左近龍章の墓と並んで建っています。島田左近の娘の墓。左に傾いてしまっています。正面には「染香院釋真英童尼」と刻まれています。「童尼」は「童女」と同じく5歳から15歳ぐらいまでに亡くなった女子につける位号です
ネット上で「幕末の四大人斬り河上彦斎の写真」として広く出回っている古写真について、3年前に記事にしました。興味のある方は下をクリックして下さい。河上彦斎写真の謎この写真は河上彦斎のウィキペディアにも本人の写真として掲載されているのですが、実は出典が不明となっています。そこで調べてみたところ、スペインのアニメファンの方のブログが出どころとなっていて、根拠のないものだということがわかったのですが、その後も調べ続けたところ、ちょっと有力情報かなと思えるものにたどり着きました。この