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↑↑↑たくさんのクリックをいただきありがとうございます!(^^)!いろんなディープなエリアのございます京都という町。次は京都市北部の同和地区である楽只地区のさらに北、京都市内を流れます天神川が紙屋川と名を変える上流部に「紙屋川砂防ダム」というのが昭和28年(1953年)に建設されました。華やかな古都、金閣寺のすぐ近くのそんな場所に、ダム建設直後から砂防ダム内の川べりには、在日コリアンたちの住む集落が不法に建設されたという。
🏠🏠⛪🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠🏠⛪②終わっているDONDON商店街かつて南太田にあった日本最大のスラム街は、不良住宅地区改良法の施行により、その多くの部分が同潤会アパートなどに吸収されはしたが、根本的な解決にはならず、昭和30年代頃までは谷戸の斜面沿いに残っていたスラム街があった場所は両側に丘陵が迫る谷戸の地形であるため「乞食谷戸」と呼ばれていたそうだ現在も保土ヶ谷方面に続く谷戸の中心部が商店街を形成しており昭和初期から賑わいを見せて
↑↑↑たくさんのクリックをいただきありがとうございます!(^^)!2021年4月10日(土)の記録です。河原町通りの東側、七条通りとJRに挟まれたエリア(正確には高倉通りより東、七条以南、八条以北?)が先日ご紹介した崇仁地区でした。ではJRより南は今でも昔の面影を残すところが多いエリアで、そこは在日コリアンタウン、通称「トンク(東九)」と呼ばれる地域なんです。京都には崇仁地区を抱える「皆山(かいざん)中学校」というのと
3月11日。ここからが上大廻間バラック集落の本丸。寂れたバラック集落とは一線を画したパステルカラーのカラフルなトタンが強烈な印象を残します。上大廻間バラック集落〜大村自治国放浪記2023アグレッシブな幸福実現党のポスター。この地区専用なのかも知れません。炬燵と扇風機の残骸。夏と冬の共存です。こちらのお宅は屋根が落ち、完全に廃墟化しておりました夏の海辺を思わせるトタンの壁。不思議と爽やかなイメージが感じられました。玄関が屋根
映画『⑧この子の七つのお祝いに』はいm(__)m。今日も幼少期トラウマの最高峰『この子の七つのお祝いに』です。ストーリーをかなり省略化しているのに、長くなってしまいましたね。それだけ強烈なインパクトを受けたシーンが多い作品なんでしょう。🔻マヤは自分がマヤではないと言われて狼狽えます。高橋佳哉から「お前の本当の名前はキエだ…」と。父親は高橋佳哉に違いないが、母親は岸田今日子演じる真弓では無いと説明。🔻高橋佳哉の説明は続きます。終戦後、中国からの引き揚げ者が身を寄せていたバラック(粗末な材
沖縄旅行3日目の続きです今回、渡嘉敷島の阿波連ビーチに宿を取ったのには理由がありました世界屈指の透明度を誇りケラマブルーと謳われる美しい海に浮かぶ無人島・ハナリ島阿波連ビーチからボートで10分程のところにある小さな島ですその島に渡って無人島探検をしたりシュノーケリングを楽しんだりしたかったんですビーチから見える場所にありますが途中、流れが強い場所があるため泳いで渡るのは禁止されています阿波連ビーチ入口にマリンショップがたくさんあって、ハナリ島への日帰り送迎も行って
3月11日。上大廻間バラック集落は名古屋市と東海市に跨る特異な集落なのですが、その境目がちゃんと分かるように手作りの標識が取り付けられています。上大廻間バラック集落〜大村自治国放浪記2023こちらのエリアもどこか東南アジア風の雰囲気が漂っています。こちらはお店?なのかも知れません。窓には猫トラブルの張り紙がしてありました。集落の外れには祠。村社の成れの果てなのかも知れません。そしてお約束の公明党のポスター。昭和初
飯塚市はかなり撮影してきましたが、まだまだあります、DEEP地区‼️バラック集落‼️素晴らしい景色です。トイレは外ボンビー山下じーさん隊員の住む飯塚市をまわっています。
バラック駅舎だった蒲田駅戦争の歴史乗り越えて・・・太平洋戦争(大東亜戦争)の頃、東京の街は空襲で多くの鉄道関連施設の他、家屋が焼失し、死者・負傷者もまた多く出しました。蒲田駅も立派な木造駅舎でありましたが、空襲で焼けてしまい、跡形もないレベルの被害を受けました。その後、復興を急ぐとともに、バラック駅舎での復旧が行われ、営業を何とか再開したようです。蒲田駅は後に、現在の位置にずらすことになり、旧駅舎・旧線は矢口渡の間にあった道塚駅と共に廃止されました。電車とバス
🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶🍶④千葉県最後のバラック地帯を見るかつて首都圏には、海外のスラムに匹敵はしないまでも、それに迫る勢いの貧民窟とでも呼ぶべき町があった川崎の多摩川河川敷を第三国人が不法占拠していた河原町、板橋の傾斜地にあったバラック街の大谷口、そして千葉には船橋の運河にあった東南アジアのようなバラック街……そのいずれもバラックは取り払われ、大谷口などは痕跡すら消し去れて消滅してしまい、やがて人びとの記憶からも消え去り、そ
****バラック建築、闇市あがりの商店街は、当ブログの定番ネタであるが、まだひとつ“大物”を紹介していなかったというのもこの物件は、もろに地元なので、見馴れているため地元ぶらぶら歩きのような記事に、ちらっと何度も出てきており、わざわざ単独で取り上げる気が起きなかったからだしかし、あらためて第三者的な視線でこの場所を見ていると、やっぱりちょっと凄いな……と思ったので、気合いを入れて撮影してみた。前述のとおり、日常的に通り過ぎている場所なの
今回はバラック建築物の特集を3回に分けて紹介していきます。①第一回は西尾市平坂町最大級のバラック住宅群②第二回は半田市有楽地区最大級のバラック長屋(ほら穴の婆ちゃんが昔住んでいた😅)③第三回は名古屋市瑞穂区に存在するバラック商店街となります。バラックの定義は長期間の使用を目的とせず、有り合わせの素材で建築された建物だそうです。また最近ではトタン等を使用した戦後の建物を指す場合も多く、今回紹介するバラックは後者になるかと思います。さて今回紹介していくのは西尾市平坂町にあるバラック住宅群
再開発が進み駅ビルの象徴だった名鉄百貨店が取り壊される名鉄神宮前駅。あたしの名前はこの熱田神宮の中にある上知我麻神社で一文字頂き父が名付けてくれた。熱田神宮にアクセスする駅前。開発が進むも未だレトロな商店街が残ってる。この商店街の裏手に青線跡地として残ってはいるものの取り壊されるのを待っているよう。家主は連絡くださいって張り紙沢山貼ってあった。こちらは遊郭ではなく青線。実はこの辺り20になる前だったか実家からも近くたまに飲みに来ていた。しかも1人で。青線だなんて言
🌼🌼🌼🌼🌼②北千住崖っぷちバラック地帯🌼北千住の中心街から西に向かう。いつの間にか通りの名前が「いろは通り」から「ニコニコ商店街」にかわっていたこの商店街を横切る道を左に曲がると、以前の記事で紹介した柳町の赤線跡地に出るが、今回はそのまままっすぐにすすむ柳町には千住の果てのような印象があるが、その先には元町があり、荒川と隅田川にはさまれたやけに狭い千住桜木町は、さらにその果てにあるような町であるこの写真