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車輪の音が聴こえた気がした。窓の外は、もう明るくなっている。微かな嘶いななき。……マルコーではない。傍らで、妻は穏やかな寝息を立てている。少女のような淡い桃色の頬に、アレクセイはそっと触れた。昨夜ゆうべは、少し無茶をさせた。弁解を許してもらえるなら──どうもあの瞳めには弱い。昔から弱い。ドイツに居た時から弱い。だから止むなく避けたのだ。僅かに眉根を寄せ、上目遣いで何かを訴えかけるような──潤みを湛えた碧眼に囚われた途端、あらゆる枷かせが躰中から抜け落ちる。理性も、自制も
「まあ、アレクセイ!怪我は大丈夫なの?昨日の今日なのに……」ドアを開けたガリーナが、開口一番そう言った。「一人で大丈夫って言ったのに、ついて行くって聞かないんだよ」「いや、お前一人じゃ道が分からないだろうが。ほら、昨日はもう暗かったし……」「一つ目の角を曲がるだけじゃない。子供だって分かるよ」「いや、だけど、この辺は似たような造りの建物ばかりだし、それに、万が一、路地に連れ込まれでもしたら……」「こんな真っ昼間から?」「お前なぁ、そういう油断が一番危険なんだぞっ」半ば痴話喧嘩
龍の傷口から熱い血潮が流れ出し、天晴れな勇士がそれを体に浴びた際、両方の肩の間に一枚の広い菩提樹の葉が落ちてきました。この場所こそあの人の急所なのです。これが私の心配の種なのです。(ニーベルンゲンの歌/第15歌章)人は誰も、長い人生において、幸せと不幸せの配分は平等であるという。今がどれだけ不幸でも、果てなく続く道の向こうには平穏な未来が待っている──と。では、長く生きられなかった者はどうなのだ?望む望まぬに拘わらず、第三者の手によって、その未来を絶たれた者
キッチンでは、美しい人妻と老齢の執事が二人並んで、夕食の準備をしていた。「私がいたします」と一歩も譲らないオークネフ。「もっと料理を覚えたいの」と負けじと押し通すユリウス。結果、勝敗はユリウスに(妻は強し)。「ねえ、隠れ家ではオークネフが料理したの?メイドや料理人は居なかったんでしょう?」じゃがいもの皮を剥きながら、ユリウスが訊いた。「はい。厨房に立つのは数十年振りでしたが、見習い時代、厳しく叩き込まれましたので」オークネフは、人参をシャトー切りにしている。「見習い?
【caption】前回、怒涛の方向転換をしたこちらの続き『《クリスマスの奇蹟》ただ…その幸せを嚙み締めて…』龍の傷口から熱い血潮が流れ出し、天晴れな勇士がそれを体に浴びた際、両方の肩の間に一枚の広い菩提樹の葉が落ちてきました。この場所こそあの人の急所なのです。これが…ameblo.jp春色の各駅停車(ドイツ発ロシア行)に乗る二人。前話の隙間を埋めながら少し時間を進めました。1914年初春──「お帰りなさい、アレクセイっ」アレクセイがドアを開けると、山盛りのブリ
突然──、旧ふるい友人が訪ねてきた。「いったい、どういう風の吹き回しだ?」「いえ。特別な用事があったわけでは。不足した薬を調達に来たついでに、久し振りに貴方の顔を見たくなった──それだけです」思わず、笑いを嚙み殺す。明日をも知れぬ禍乱のさなか、貴族までもが右往左往する時勢に於いて、捉えどころのない飄々ひょうひょうとした態度は相変わらずだ。「今でも、あの辺鄙な場所から動かずにいるのか?」まるで時候の挨拶のように、何の他意もなく私は尋きいた。こんな質問は何時いつ以来のことだろう。
あの襲撃の日に──。ヴァシリーサの独白。そして……。いきなり、馬車に乗せられた。お世辞にも綺麗とは言えない馬車だった。豪奢なものは命取りですから、と男が言う。相変わらず、表情は読み取れない。まだ、二日しか過ぎていないのか。随分昔のことのように思える。違う。自ら、そう思い込ませようとしているのだ。──恐ろしい襲撃の日。あの日のことを思い返すと、今でも全身に戦慄が走る。その日も、命からがら、馬車に乗せられ、運ばれた。暴徒と化した群衆が屋敷に押し寄せ、あわや殺されかけ