ブログ記事154件
もっともっとしてあげられることがあったのに、ついつい先延ばしにしたこと。時間はあったのに。最近それを考えると心がえぐられるほど苦しい。私は本当に母を愛していたと母を失って始めて思い知らされる。正月も、桜も、つつじも、紫陽花も冥土の旅の一里塚。めでたくもありめでたくもなし。
『母が膵臓癌になりました51』『母が膵臓癌になりました50』『母が膵臓癌になりました49』『母が膵臓癌になりました48』『母が膵臓癌になりました47』『母が膵臓癌になりました46』『母が膵…ameblo.jp母の膵臓癌関連のblogにご訪問&イイね👍ありがとうございます🙇♀️8月15日に母が好きな先生訪問ドクターがきてPCAポンプを使うことに。(自己調節鎮静法)電池🔋が必要で父に電話があったそうです。8月16日お昼前に面会へ行くと👩痛いし気持ち悪いと朝に医療麻薬の坐薬
もちろん今まで何度もいろんな人の死に直面したことはあります。そのたびごとに嘆き悲しみ、また悲しむ人を見てきました。私も母との別れはいずれ経験することはわかっていました。それでもここまで自分を破壊するだなんて夢にも思いませんでした。確かにその時々の時間で忘れることはありますが、すべてから元気です。おいしいものを食べてなんになる?旅に出かけてなんになる?なんもない。なんもしたくたい。思い出すのは母のかわいい言葉やしぐさだけ。1リットルの涙なんてもんじ
そりゃ人を愛すればこそ、美しいドラマは生まれる。でもその美しさは愛する人を失ったときに残酷なドラマになる。愛は生きていく力を与えるが、愛を失うと生きていく力を失う。男は女を、女は男を、夫は妻を、妻は夫を、親は子を、そして子は親を…自分のすべてを愛した人を失うのはすべてを失うということ。失って何が残る?何も残っていないのになぜ生きる?愛する人がいなければもっと楽しめるのに。神は慈愛に満ちている。でもだからこそ残酷だ。善人だけが永遠に生きるよう
今日はあまり寝ないでクルマで1時間ほどかかる病院へ朝に出かけました。阪神高速湾岸線が工事のために通行止めになっており渋滞していました。「眠たいなああ」とつい口に出しました。今まで横にいた母は「ねんといてや」と言っていましたが、その声を聴くことはありません。そのことを思い出して「何で何も言うてくれへんの、お母さん」と何度も繰り返していると大号泣。おかげで目が覚めました。母の思い出が守ってくれたんですね。
母が良く通っていたデイケアではお風呂用にバスタオルとタオルを一枚ずつこちらで準備しなければなりませんでした。私はいつも白い大小のバスタオルとタオルを入れていました。白だと清潔感があるからです。区別するために名前も書いていました。ご存じのように白いタオルはしばらく使うと、水に濡れると真っ白ではなくなるやや黒ずみます。それが嫌で白いタオルはしょっちゅうまとめて買っていました。1か月に10枚くらいかな。家でもフェイスタオルやハンドタオルには白のタオルを使用していたので結構使い
その瞬間に「あ、お母さん、これから朝ごはん作らなあかんな」といつもソファに寝ていた後ろを振り返るともちろん誰もいない。それで悲しいかというとむしろ逆でなぜか安心した気持ちになりました。母と一緒に日々を過ごすことが私の命の水だったのだなと改めて深く感じました。それで一日が始まっていたのです。今はAMの6時か夕方の6時かわかりません。寝るのが不定期で夜中の2時に目が覚めてそのままずっと起きていたり。お母さんという言葉は毎日数百回口から出ます。
母はマグロの刺身が大すきだった。焼き肉が大好きだった。この二つに手を伸ばそうとすると急に胸が苦しくなる。最後の最後は私の家に連れて帰るべきだった。その公開が日々大きくなる。母の身体を抱きしめながら息を引き取るのを見届けるべきだった。その公開が私を責めたてる。ホスピスなんかで死なせるべきではなかった。お母さん、本当にごめんなさい。起きているときはほとんど泣いている。大好きで大好きなお母さん。いろんな旅行が思い出される。その時の言葉と表情も一
洗面所の掃除をしていると、小物を入れるボックスを動かすと黒いボタンが見つかりました。これは母のオーバーコートのボタンです。「あ、お母さん、ボタンがなくなってるわ、どこでなくしたんやろ?」「さあねえ」「これ着られへんな」「まだほかにもあるから大丈夫」「ほんまやな、しっかりせなあかんな」こんなところでかくれんぼしていました。見つけたらすぐに縫い付けられたのにと思うと申し訳なくてまた号泣。さがしものはなんですか、みつけにくいものですか探すのをやめたとき見つかるこ
この時はまだ元気でした。ただ旅行後すぐに脳梗塞になったので旅館の温泉に入ったのはこの時が最後でした。87歳でしたがまだまだまだまだ死なんて遠い先のことでしかなかったのです。介護も必要ではありませんでした。楽しかった。本当に楽しかった。涙が止まらない。思い出は笑って話せるるものじゃない。世界で最高に愛した母です。この母が晩年は私を頼りにしたのです。
「100まで生きる」とにこやかに語っていた母が亡くなった。私はもう生きる意味も楽しみもなくなった。何年後かしらないが私は死ぬときに必ずこう思うだろう。「俺の命は65歳で終わっていたのだ」
母は、去年3月に特養に入所しました。ふっ…と「お母さん。」と想います。先日、新聞で認知症のマフという物が、認知症の人の心を安定させる効果があるという記事を読みました。昨日、100均で毛糸と鍵棒を買い、作り方をYouTubeを見ながら編んでみましたとりあえず、毛糸を1玉しか買わなかったので、途中なのですが…30年ぶりに編み物をしたので、できるのか不安でしたが、ひと針編む事に母を想いながら編んでみましたこの中に手を入れる事で、心が安定するという事です。編み終わったら、ワッペンを縫い付け