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地下鉄サリン事件から、30年。今、思い返しても、恐ろしい教団による卑劣なテロでした。あの日は、私が非常勤で教えていた「お受験塾」の卒業式があり、10時に出勤でした。目黒区にある教室ですから、霞ヶ関とは遠いものの、私鉄と地下鉄のどちらも通る電車ホームで待っていると、地下鉄事故により、霞ヶ関で電車が止まっているというアナウンスが入りました。私は、私鉄で何の問題もなく目的地に行けましたが、地下鉄が止まっている分、若干いつもより乗車人数が多かった気がします。卒業式が終わり、職員室でテレビをつけ
暇神です。今回は・・・「英語がまったく苦手なおっさんが輸入代行業者を使って海外から玩具を取り寄せた」と題しまして、その「前編」「中編」「後編」を書かせて頂きます。まずはじめに・・・私は英語が苦手で、ほとんど・・・いや、まったくと言って良いほど、英語を話す事、聞く事はもちろん、読み書きも出来ない男と思ってください(汗)特定(趣味がらみ)の英単語は大体、OKなんですけどねwそんな僕ですが、どうしても欲しい物が出て来ちゃったんです。それが・・・・2013SDCCSANDIE
亡くなってから3日後に通夜が営まれた。その間、私たちは打ち合わせをしたり自分たちの用意をしたり。夫は義父の跡を継いで家業を営んでいたから、取引先などに訃報のお知らせをしたり。これが一番辛かった。泣き叫びながら文章を作成した。でも通夜までの期間が長かった分、私たちは少しずつお別れができたのかもしれない。そういえば通夜が始まる前義父に「まだ泣くな。すべて終わってから泣くんだ」と言われた。そう言ったのに、「やっぱりだめだ…」と夫の顔を見ようとせずその場から離れようとした。だか
霊安室から出たのは午後1時過ぎ。病院から渡された封筒には死亡診断書が入っていて、その場で確認をされた。死因は窒息だった。何が何だかわからなくて封筒をもらって霊柩車に乗り込んだ。なんでかな?なんでだろうな?私のせいだよね?そう思っているうちに葬儀会場に着く。ここからの記憶はほぼない。おそらく葬儀会場の方と義父、義理弟と打ち合わせをしたと思う。子どもたちもいたと思う。覚えているのは夫を触ったとき、冷たくてかたかったこと。表情は寝ている時みたいで、今に
あの日、あの夜、あなたは、静かに目を閉じて、ため息みたいに、ふぅ~っと、長く息を吐き、そして、もう二度と、吸う事をしなかった。誰かの言うみたく、どこかへ旅立った。信じていないけど、天国とかがあるのなら、そこへ、ひとりで行った、私、ひとり、置いて。ふたりは、いつも一緒だった。喧嘩もしたし、大笑いした時も、数え切れない。いつも一緒にいた、いつでも。何も言わなくたって、手を伸ばせば、すぐに、ぎゅっとしてくれた。別に、特別な事なんてない、一緒にいただけ。いつまでも
火葬場に着いた。今、こんなにきれいになっているんだと驚いた。喪主は義父と私。2人で夫であるかを最終確認し、炉に入っていく夫を見送る。待って。待って。待って!心で叫んだ。炉への入り口の扉が閉まったとき、泣けた。いなくなっちゃう。夫がいなくなっちゃう。現実だ。これが現実なんだ…。と言い聞かせるしかなかった。その後は覚えていない。覚えているのはお骨箱があたたかかったこと。あたたかくてあたたかくて。ぎゅっと抱きしめていたこと。小さくなっちゃったとか死ん
私の戯言ばかりのブログをいつも読んで頂いて有難うございます同じ病気の方や、箇所は違っても病と向き合っている方々のブログに日々励まされています子どもの夏休みも今日で終わりかぁ…夏も早いなぁって思います。今日は、ちょっとネガティブ内容もありますが、ご了承お願いします🙇⤵️手術も終わり経過観察中の私生活となり、最近の私の気持ちは、癌に患っても、毎日、前向きに明るくいたい(いなくては~👊✨)ポジティブな事ばかり考えたり、楽しい事ばかり考えたり、気持ちだけは、常にそう思っているけど・・・。
夫が実家に帰ってからさらに寂しさが増した。冷たい部屋。静かな部屋。私には広すぎる空間。一人ってこういうことか、とふと思った。夫と最期に会話した時間になると、とてつもなく寂しくて怖くて、切なくて。大泣きしていた。引越をするという手段もあるのかもしれないけれど、子どもたちも「実家は残してほしい」と言うし、私自身も2人であれこれ考えながら建てた家だから手放せるわけがない。泣きながら1日が始まって泣きながら終わる毎日。それでも頑張って仕事には行っていた。
2019/8/25投稿ねぇもうすぐお昼だよ君の声で目が覚めてでももう少し寝たい気もするなでも君に怒られるな最近の幸せといえば美味しいものを食べる事で確か前はもっと大それた事を語ってたはずなのにな洗濯物をぱたぱた伸ばしてる君をソファーの上で眺めてたらなんとなくわかった気がしてきてそうだあの日君がこっちを向いてバカねって笑ってくれた時きっとあの時に変わったんだこんな毎日を願う僕にたとえアイドルと付き合えなくたって外車に乗れなくたって君がここにいるなら幸福な人生
その後警察の事情聴取を受けた。何を聞かれたかよく覚えていないけれど、女性の方がゆっくりと話を聞いてくれた。自宅へ行って状況を見ると言われたので、長男と両親は病院に残り、私は病院から一度出ることになった。その時自分の両親と妹と会った。妹の顔を見た途端、涙があふれた。泣いて泣いて泣いて。自分でも理解しているけれど理解しているけれどそれでも「夢だよね?」と妹にすがった。妹は静かに「お姉ちゃん、夢じゃないんだよ…」とつぶやいた。いやこれは夢だ、いや夢じゃな
霊安室で長男と両親、妹で待っていると次男が到着した。状況が飲み込めない次男は「お父さん、なんで死んだの?」と泣きながら聞いてきた。彼ももう大人だ。隠したってだめだ。ちゃんと話さなくちゃと思ったのを覚えてる。「あのね、自殺しちゃったんだよ」「え?うそでしょ?一番嫌がっていた死に方じゃん!」そう言い、次男は大泣きした。お父さん子だったから、泣いて泣いて…。最後は泣き叫んでた。長男は不思議と泣いていなくて、妙にそれが大丈夫かと気になった。私
こんばんはぁ。今日からマンションの二度目の大規模改修で、足場の組立が始まりました。お仕事お休みで、急にベランダの向こうが騒がしくなってせやせや、今日からやったなぁと理解しました。暫く、鬱陶しい掃除してゆっくり買い物行って、何てことないお休み日。笑風。の音取りは、2曲しっかりしたさ!1曲難しいさて、その内書こうと思っていたこと。もう、まだ、4年と3ヶ月前のこと。顔面神経麻痺になったこと。今から思えば発症した当日は、まだ軽い気持ちだった。息子家族も来てくれてて、気が紛れてもい
もうすぐ「あの日」がやってくる娘が眠りについた日二年前の12月22日の夜に搬送して、23日未明に脳死状態になった。あれから二年・・・まだ二年しか経っていないのか・・・もっともっと長い時間が流れたような気がする長かった、この二年この二年の間にいろいろあった実家を売却し、思い出の家とお別れした母の遺品を整理する作業も大変だった娘を送った翌月、息子は新社会人になったがストレスも多かったのだろう入社し、すぐに休職した半年休んだ後、復職したが結局その会社は退職し今は
そして朝が来た。喪服を着つけてもらう。覚悟はできた?自分に問う。できるわけない。最後の最後まで離れることができなかった。葬儀会場の方が「そろそろお時間ですから」と夫を迎えに来た。そっか。いってらっしゃい、か。もう会えないのか。でも今ここで泣くことはできない。喪主の一人としてしっかりしなきゃ。出棺に間に合うよう夫の大学時代のお友達が遠いところから来てくれた。その方たちは夫の本当の死因やこうなってしまったいきさつを知っている。そういえば夫の体のそば
1歳の子どものうち、死因が原因不明の死亡率(SIDS含め)0.03%みたいです。3333人に1人。そこに私の娘があたってしまうとは。でもそんな運命なんてまだ信じられることは難しく、何かがいけなかった、あの日に返ってやり直したい、そう思う日々です
今となってはどうでも良い気がするが、思い出した事を書いておこうと思う。12月も2週間にわたり長期出張に出ていた主人がクリスマスに帰宅した。昔から、行事ごとだけは家族を優先してと頼んでいたので、それはすると本人も浮気相手の女も言っていた。息子がサンタさんからのプレゼントに喜んだ25日、娘が友達とのXmasパーティーへ行くのにケーキを買っていくとの事で主人が送迎に出掛けた。実は、前日に長期出張から帰宅した時、洗濯物に見たことのない下着があり、とてもショックを受けた。失礼だがとても趣味の悪い
こんにちは。忘れてはいけない日本人が狙われ続け日本人が狙われ続け大虐殺に、あって来たこと日本人が標的にあって来た歴史を、日本人より知っていて世界の何処かで今日も、憂い、心配してくれている人が居るプーチン、イーロンマスク、スノーデン、日本人のことを心配し、イザとなれば助ける気持ちも持ち、実際に動き。世界アライアンス地球アライアンス日本アライアンス世界各国にアライアンス連合軍が居る軍しか悪魔崇拝者組織を倒せない。こうなる
タペストリーを春にしました〜3、11あの日私は近くの教室に1人でいました娘は3人目の検診で海側の産院に私は上の2人の孫を見に行く、前のあの時間⏰揺れが収まり産院に行くと海側の工場地帯で爆発があり、診察中止で家に我が家は山側何で揺れが収まり、ちっちゃい2人も、お産の娘も無事でいました3/31生まれた女の子は中学生です相馬へのオペレーション・サンタはその時から始まり今も続けていられる事が私の生きる証となっています(巻き込んだメンバーの皆さん、ありがとうござい
こんばんは。何が言いたくて書くのか?2011310相棒が一緒に行くはずのHさんが都合で行けなくなって、急遽わたしが同行した。2011年3月10日一泊2日ハワイアンリゾートホテルに宿泊帰りのツアーバス🚌に乗り込み数分後に、大揺れが……時計を見た。14時45分過ぎの記憶がある。バスが横転するか❓乗客の悲鳴と共に、ホテルから、バスタオル一枚だけの姿で、外に出て来た宿泊客が大勢……そんな中、また大揺れが。前の晩、酷い頭痛で眠れず、ホテルの
告別式の次の日に家に帰ってきた夫。家では仮祭壇を作って、毎日語りかけていた。でも心のどこかで怖い思いがあって、夫の部屋に入るのには勇気が必要だった。夜は入れなかった。仕事が休みの日、明るい時間なら入ることができた。夫の匂いがする。つい最近までここでくつろいでいたのに。今は誰もいない。「少しずつ片付けなくちゃ…。」と思うけれど、どれも捨てられない。捨てちゃったら夫がいなくなってしまいそうで、できない。でもやらなくちゃ。覚悟を決めて少しずつ片づけを始めた
夫が家に帰ってきてからは毎日がバタバタだった。まず仕事。私が経理や事務を担当していたから、自分であれこれ手続きをしなくちゃいけない。登記変更や書式の変更、健康保険の代表者変更などなど山ほどあって、書類作成のたびに「代表者死亡」と記し、嫌でも現実を突きつけられた。周りを見渡せば、夫のものがそのまま。夫の字。夫の服。夫のスリッパ。夫の名刺。夫の筆記用具。本当に突然いなくなったから、本当にそのままで。やりかけの書類もそのままで。私は泣きながらいろいろな書類
初めての月命日を迎える日。夫が好きだったメンチカツを作ろうと思った。「買ったものよりおいしいんだよね~!」と月に1回は食べていたメンチカツ。メンチカツを作る日は「ほかのおかずはいらないよ~」と言い、ビール片手にほおばっていたっけ。亡くなった月は心の調子が悪くなっていてフライ系を食べたがらなかったな…。作るには勇気がいる。でも唯一褒めてくれた、おいしいと言ってくれたメンチカツ。作らなくちゃ、となぜか思った。仕事から帰ってきて、寒い部屋の中無心に玉ねぎをみじん切りにす
次男は熱が下がった段階で、帰ることになった。次男が帰る晩、長男も家に来ていたから3人でゆっくりとご飯を食べた。私だけじゃなく子どもたちもそれぞれ傷ついて、自分を責めている。あの時こう言ってれば…。きっとそんな思いだと思う。だから、あえて言ってみた。「お父さんはこんな風にいなくなっちゃったけど、私は大丈夫。2人とも見てて!お母さんは立ち直るから!」そんな私を見て2人はふっと笑いながら、「大丈夫じゃないだろ?」と言った。そっか。お見通しか。でも…。うう
父が宇宙に還り今日で25年…今月の7日に伯母…母の義姉も宇宙に還った…25年前、父が還り、ショックで何も手に付かず、食事も出来ない我が家に、近くにいた伯母が毎日ご飯を作り食べさせてくれたのだった…伯父(母の兄)を亡くしたショックで、食事が出来ずに1年で凄く痩せてしまったことから、心配してのことだった…料理上手で、なんとなく趣味も合うところもあり…なので、今回の突然の訃報に驚くと同時に、父と同じ2月に、なんともいえず…つらつらと、そんなことを思いながらの今日27日…父の命日です…