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朝6時半お目覚め。「もう起きる!」サチュレーション低くて酸素をつけるように当直の先生が説得してくれるけどつけない。7時半に当直の先生が採血。朝ごはんに紅茶飲みたいと言われ買ってくる。エコーと採血結果。WBC:0.15千HGB:9.5PLT:14千CRP:5.05T-BIL:18.8「血培から大腸菌とクラブシエラ両方生えた。血小板とFFP両方入れます。エコーの結果ボリュームはあるので水を引いていきます」午前中2時間かけて保育士さん2人がかりで酸素を付けるように説得してくれる
ここ数年はアルコール依存症が酷くなり焼酎25度ストレートで飲む日が増えそれと同時に私への暴言が増えていただが5月中は完全にビールしか飲まなくなり暴言は数回になったそしてもう一つ自宅から歩いて行ける距離に長男の塾があり今までは約4年間徒歩で送り迎えを私がしていたが夫が行ってくれるようになった。これには、娘は驚いていた送ってもらう息子は全く気にしていなかった夫はいつも息子が塾へ行く時間は泥酔して寝て気になどしていなかったから…何だか5月は前の我が家に戻ったようだった
ここまで振り返ると、6月に健康診断で血小板の減少を指摘され、7月は検査を繰り返し、8月に肝硬変の診断を受け、9月に胃静脈瘤破裂を防ぐ緊急手術を行い、10月は入院生活。10月末に退院し仕事に戻れたと思えば11月に細菌感染、白血球が減少し免疫力も落ち高熱が出て再度入院。健康診断を受けてから、これから自分の身体がどうなってしまうのか、仕事や生活はどうなるのかと心配事が多々あり眠れない夜も増えました。疲労もどんどん蓄積されていた時期でした。しかし疲労していたのは自分だけではありません。妻や親に
胃静脈瘤の治療として私が受けたのは、バルーン下逆行性経静脈的塞栓術(B-RTO)という血管造影での手術でした。大腿静脈からカテーテルを挿入し胃静脈まですすめ、静脈瘤の原因となる血管でバルーンを膨らませ、血流を遮断したあと、遮断した先の血管に硬化剤を入れて胃静脈瘤を固めてしまう治療法です。手術は無事終わり、後日胃カメラで検査した結果、胃静脈瘤が破裂する心配は無くなりました。いきなり吐血してそのまま亡くなる。この心配がなくなっただけでこの時どれだけ安堵したことか。しかしこの治療、私の場合今
子どもが早く寝てしまい静かな時間が持てました。夫の病気と向き合って、一つだけ思ったことがあります。今、まさに病気と戦っている方もこのブログを見て頂いていると思います。このことを思ったのはきっとこんなに治療して頑張っているのに何で報われないんだろうという家族の思いからで決して病気と戦っている人を否定しているわけではありません。不快に感じる方もいるかもしれません。JINというドラマの言葉「歴史の修正力」ある時からこの言葉が頭の片隅にあり、消えずにいました。何
相続手続き、終わらない…もう半年なのに。それとも、そんなものですか?お金ないのに無駄に銀行口座がたくさんある。クレジットカードもたくさんある。ついでにポイントカードもたくさんある。ポイントカードはほったらかしだけど。口座一つ片付けるのに約1ヶ月。何故、こんなに口座作ったの夫よ…何故、使わないなら解約しておかないの…お金のある人は専門家に頼めばおしまいかもしれないけど、我が家は赤字なのです。不動産登記の手続きも自力です。仕事と家事と育児をこなしつつかつ、メンタルやられ
前回、体調改善の為に飲み始めた漢方薬2種類。黄疸、筋痙攣軽減の為の漢方薬。苦手な顆粒と味にも耐えたけど、全く効果はなく、逆に体調不良が直ぐに出現。それは、お腹ゆるいゆるい病。(と、微熱としゃっくり。これは謎)今までいろんなお薬を飲んでも、腸に迷惑をかけられた事はありませんでした。絶好“腸”が、自慢なほど。朝晩漢方薬を飲むので24時間常にお腹がぐるぐる言ってて、トイレともお友達。トイレットペーパーだって普段はシングルなのに、奮発してダブル仕様に変更。主治医の先生が言ってた
亡くなってから知ったけど、仕事中にも飲酒問題で色々あったらしい。今までお世話になっていた元請け会社から仕事がほとんどもらえなくなった。「もう、あそこの会社は切る。〇〇と〇〇でやって行く」と、仕事をもらう会社が2社になった。仕事の量はまだまだ少なく旦那自身もどんどん不安になっていた。「もう、死にたい」しきりに死にたいと言うようになった。生きてる時は私には言わなかったけど本当に本当に飲酒問題で元請けの会社ともめてたみたい。従業員の子も巻き込んで。本当に、最後の最後までついて来てくれ
何年半前の朝、通勤中に急に脱力して膝から崩れ落ちたことが始まりでした…。なんとか職場に着いて同僚看護師に「白目きいろない?」このひと言で受診することになり色んなことが発覚しました異常に高い肝機能数値肥大した脾臓変形した肝臓クリニックから総合病院に代わり、今では大学病院に通ってます病状も【非代償性肝硬変】に進行して合併症も出てきて対処法を行いながら様子観察をしているところです。私なりに非代償性肝硬変について勉強をしているのですが、予後は決して長くはなくとても厳しいことも理解しました
一晩中咳がひどく眠れず。朝血圧141/96採血有り。席を伝える。回診「レントゲンとエコーに後ほどきます」エコーで大丈夫そうなのでサムスカ追加。血圧が160まで上がり、セパミット。サムスカ注入した後でIDr.に「お薬の件でお話があるので」と面談室に呼ばれる。サムスカの指示の仕方が悪く思っていた量の倍を投与してしまった。投与してはいけない量では無いんだけど本当に申し訳ありませんでした。その後大量に尿が出る。水分摂取量500ccに制限されてる二男くんは水が欲しくて大変。その後の採
今日は通院日でした採血の結果は最低最悪で…先生からは肝硬変も進行してるかもと思われると言われましたここ最近の自覚症状を話すと、やはり入院を再び提案されました年越しは自宅で迎えたいと懇願して、強く“絶対安静”を言われ承諾自覚症状からエコー検査をそのまま受けることになり、結果は胆石や胆嚢の状態に変わりはないことが分かるも…ここに来て腹水が確認されました再び診察室に入り先生とお話し…これから先のことを考えて大きな病院へ受診することになりました神戸大学附属病院、このままだと生肝移植を視野に入
10/15、検査結果を聞きに行ってきました11:00予約のはずが…待てど暮らせど順番は来ず結局12:30過ぎにやっと診察室へ■先日の血液検査の結果・自己免疫性肝炎の疑いが強い■CTの結果・肝臓の一部の表面が波打っていて変形している(肝硬変)・肝臓の右側が肥大している・膵臓が肥大している(血液が逆流している可能性が高い)・急激に進行したのではなく少しずつ時間をかけて悪くなったと思われる↑↑↑これを踏まえて、診断を確定させるべく生検検査とやらを受けることになりました汗【生検検
7月の半ば。仕事で帰宅すると旦那が誰かと電話していた。「2週間くらい休むので、よろしくお願いします」?姿を見ると左足に包帯。「脚立から落ちて左足を捻挫した」「病院行ったけど折れてはいなかった。2週間くらいで治るらしい」との事。あーあ、また怪我した。それくらいにしか思わなかった。その時は。自分から病院に行くなんてよっぽど痛かったんだろうなとは思ったけど足が痛くて歩くのもやっと。這いつくばって動いていた。「もう寝るわ。2階まで登るのしんどいから下で寝る」とリビングのソフ
今日は遺影の話。お葬式を頼むとすぐに写真を用意しておいてと言われます。本当にすぐにです。私はデータで送りましたが…なかなかこの作業キツイです。亡くなってすぐに思い出をあさる作業ですから。この頃はまだ元気だったのに…なんでやっぱり思っちゃうんです。夫の遺影は、8〜9年前のものです。間質性肺炎が見つかった時、最初は過敏性肺炎に限りなく近いと診断を受けました。その為、N95という鳥のくちばしのようなマスクを付けて生活をしていました。本当にいっときも外さず…カビも駄目だから
間質性肺炎で肺移植をし、その後肝硬変で肝移植をした夫の闘病記です。移植病院医師からは、初めての症例と言われた程、稀な病気の経過を辿りました。苦しい闘病生活だけではなく出来なくても最期まで生きることと楽しもむことを目標としていた夫と同じ病気のかたの参考になればと思っていますお風呂掃除をしていてふと思い出したことがあります。夫は、間質性肺炎には珍しく痰がからむ咳がでることがよくありました。痰が絡むと呼吸ができなくなる悪循環。お風呂に入っている時も、おじいさんのような痰を
2回目の入退院の後、次の定期外来までに大学病院での臓器移植外科と血液内科に行く様に紹介状を出されました。大学病院と言うものが、どんなものなのか興味もあったので早々に受診してみると、正直建物はいつもの病院の方がきれいで、オペレーションも上から目線、長い長い待ち時間の末に診察した医師は消化器内科医。紹介状は流し読みで、1〜10まで口頭で説明を求められました。そして、面倒臭そうに、あなた肝硬変じゃなくて肝不全ですよ。移植する為にきたのならわかるでしょ。と。。。え?肝不全?詳しく見ても
体調はさほど悪くないけど、険悪な雰囲気の我が家。死にかけの時は、もうすぐお別れか、と優しい気持ちもありましたが、自宅療養もうすぐ3ヶ月。イライラしかありません。たぶん、ダンナも体調が落ち着いているからいろんな欲が出てくるんだろう。買い物行ったり外食したりしたい。でも私の財布のひもが非常に固い。→自分にはゆるいけど昨日明日仕事行く時、お金置いてってと言われては?なんで?この間一万渡したしあれは眼科代。靴も古くなったし、もうない。そのちょっと前にもご飯の買い出しにいるって一万渡したわ。
今日は定期外来。採血はすでに看護師さんの中でも採血室での処置ができないという認識がされていて、外科の処置室へ毎回誘導。今回も腕からの採血はむりで、太ももの付け根からとなるも今回激痛で太い血管に刺すも、血も出にくく取るはずだった本数分採血出来ず必要最低限の量となりました。ベッドでの採血な訳ですが横になると胸水からの咳が止まらず作業も咳の合間を見計らうように先生も処置。。。サムスカを飲んでも思ったほどの効果が得られず、腹水胸水ともにそこまでへらず、咳の出方からして、胸水
【γ-GTP、506ですと!】入院3日目の朝、若手のドクターがやってきた。「makn-maknさん、血液検査の結果です。やっぱり数値、悪いですね」どれどれ。と手に取る。うわっ本当に悪いな。前回の胃潰瘍の吐血で、血液検査の数値は何度もみてきたから、だいたいのことはわかる。ASTが210(基準値13~33)、γ-GTPが506(基準値10~47)ですと!?T-BILも救急室では1.9程度(基準値0.3~1.2)だが、翌日は2.8に跳ねあがっている。自分のこんな検査数値
先週の定期外来。最近スパンが少し短め。脳死移植についてモヤモヤしている事を主治医の先生に伝えると、悩んでる根本的理由が色んな意味での「怖い」なら、家族と相談しても、どれだけ悩んでも、病状が悪化しても、答えはもう移植しないで揺るがないと思うよ。と。(的を得てたな先生。さすが主治医w)この時はまだ、移植希望者登録するか大学病院で話を聞いてすぐだったので、主治医の先生の話も上の空というか、あわよくば、血液検査結果が良くなっていれば移植を免れられるんじゃないかとさえ思っていまし
8日に3人で旦那の様子を見に行った。もう、会話できない。ずっと寝てる。子ども達は冷静。「もう仕方ないよ」旦那は聞こえてたのかな?大事で大事で仕方なかった息子。息子も父ちゃんが大好きだった。酒ばかり飲んで私達家族の話を聞かず飲み続けた旦那。娘に至ってはもう、本当に厳しい。母として娘の将来が心配になるほどの厳しい意見。ここには書けないほどの冷静さ。これから先の事が心配で不安でたまらなかった。死ぬのか、生きるのか、一生このままか。そして、9日。朝、職場に着く直前お義母さ
胆管ステントを入れて2週間。1週間目の血液検査結果はビリルビン数値は若干改善、逆にALP/IFCCの数値は過去一に改悪…一時的に少し黄色味が薄くなった気がしたのも束の間で、この前友達とご飯を食べに行った時、木のテーブルと私の手と腕が同色化していて、友達に聞いても、否定はなく…明るいライト下で見ると目は相変わらず黄色でした。良くなっても悪くなっても、どちらでも対応できるように、今持っているクリアレンズのサングラスを少しでも黄疸の目をカモフラージュできればと、ベージュのカラーレンズに変更
2020年6月5日~土曜日だと思ったら金曜日だった💨💨。コレ?1日得したのか?損したのか?どっちなんだろう?と。思う。一人暮らし。63歳。2年前の自分の記事。リブログするには?訳が?・・・ないの。でも、・・いい加減。脱皮すればいいのだけれど。彼が亡くなっちゃって。そろそろ15か月経過。上の記事を読み返し。コレ?本心だろうか?と。ちょっと思う。肝硬変って。。長いのよね~。肝臓は沈黙の臓器だし。辛抱強い。日々の生活をどうするか?本当に悩んでいる自分が見えるの
旦那の具合はますます悪くなる。足は全然、浮腫が治らず整形外科で水を抜いてもらうけどまた溜まる。そしてついに大きな病院の外科に行く。私は仕事で連れて行けないのでお義母さんに頼んで連れて行ってもらった。背中も痛いと言っていたのでCT、血液検査。結果、脾臓が亀裂していた。脚立から落ちた時に背中も打った時の物。整形外科では足しか診てもらってなかった。「もう、時間がたってるから血は止まってるけどよくこの血小板の数値で止まったなー。足の浮腫も水じゃなくて血液だね。内出血が止まらないから
ご訪問いただきありがとうございますかいマムと申します。現在夫婦共働きで長男きぃまる、次男ちゅけぷん、長女あーたんの3人の子供を育てています。このブログでは妊娠中に胎児ポッター症候群と診断された次男の物語を綴っています。どうも、マムですこんにちは。長らく書いてまいりましたポッターシリーズもいよいよ本日で最終回です前回のお話はこちら『#110【最終話①成長】』ご訪問いただきありがとうございますかいマムと申します。
なんでこんなに歩かせる…まだ、夫が生きていた頃。肺移植の為に大学病院に通院していたのですが…酸素ボンベを持っても公共交通機関に乗る体力は全く無く、少し動くと息切れでぶっ倒れそうになる夫を車で送って行きました。夫が通院していた大学病院は都内にあり(バレますね笑)、駐車場からはこれでもかという程歩く。車椅子に乗っても尚、受付までに息切れをするという…。送って行けない日には、夫がひとりで行くこともあったのですが(運転は許されていました)コーディネーターの方に駐車場まで無理を言
その日は試合で遠征に出ていた。骨折している息子はキャプテンの為、骨折していてもベンチに座る。卒団も控えていて今のチームの仲間との時間も後わずか。旦那は相変わらず痛み、出血はあるが昼までは酒を飲まずに(自分で作れないのでお義母さんが作ってくれない)我慢して寝てるらしい。毎日LINEをするが返事はない。「今日は〇〇に行くからね」一応旦那にもLINEしてあった。試合中、旦那からものすごく久しぶりに電話がかかって来た。後から掛け直す。「家に帰りたい。迎えに来い」「試合の帰りに迎えに来
先日の母が倒れた一件ね。母は心配するから私には連絡するなと言ったらしい。そんなわけいかないからと母にナイショで連絡をくれた弟。そう、こんな大事な事、娘に連絡しないわけいかないだろうに。でも自分だって、手術後追加治療になったなんて言えず、抗がん剤治療をすることを母には内緒にしたし、アナフィラキシーの処置を受けているときでさえ、遠くから微かに聞こえた、ご家族に連絡をという看護師さんの声に、苦しい息で、自宅には電話しないで、母には言っていないからとお願いしたっけ。生還したから良かった
間質性肺炎で肺移植をし、その後肝硬変で肝移植をした夫の闘病記です。移植病院医師からは、初めての症例と言われた程、稀な病気の経過を辿りました。苦しい闘病生活だけではなく出来なくても最期まで生きることと楽しもむことを目標としていた夫と同じ病気のかたの参考になればと思っています『いろいろからまる酸素のチューブ間質性肺炎』間質性肺炎で肺移植をし、その後肝硬変で肝移植をした夫の闘病記です。移植病院医師からは、初めての症例と言われた程、稀な病気の経過を辿りました。苦しい闘病生活
先日、ザックリ余命宣告されたのだけど標準的にはそのくらいなのかぁ〜くらいであまり当てにはしていないなぜなら私の20年来の友達は昨年の6月に胆管がん、肺転移で余命2ヶ月と言われたのだが今も短時間のパートに行けるくらいまぁまぁ元気にしている波はあるみたいだけど痛い時はオキシコドンと強い睡眠薬とお酒でやり過ごしている彼女はアルコール依存性だったアルコールからの肝硬変、からの胆管がん私が癌になった時、彼女に言ったらめちゃくちゃ心配してくれどうして、真面目に頑張ってるみなちゃ