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うーむ。2050年には身寄りなし問題ですと(๑˙―˙๑)?え。いや、2050年ではなく、もうほんの手前のような気何しているのは私だけなのでしょうか確かにここ何年か幸いにも亡き父の介護というか、家に引き取った過程であまり親しくやり取りをしていなかった親戚と顔を合わせる機会があり、身元保証人や入院の際の連帯保証人をお願い出来る状態が続いていますが、むしろもう数年前には私の入院連帯保証人のサインの際に、同居家族では全く受付ともらえずやむ無く90オーバーの母方の伯母に入院保証人をお願いしていた時
いよいよ父の葬儀を行う事になった私達。葬儀場には5人くらいまで泊まれるとの事だったので「じゃあ皆で泊まろうよ!」みたいになって、修学旅行的なワクワクな感じで集まったのでした・・・●前のお話『その25:父の葬儀(2)』父死亡の知らせを受け、とりあえず役所に行くことにした我らに次々と奇跡が起きまくる・・・(全6回)●前のお話『その25:父の葬儀(1)』2020年5月…ameblo.jp★「守護霊さんと話せる娘の日常」のLINEスタンプはこちらり
明日は父のお葬式です。余命半年から1年を信じて行動してたのに。40日でお別れ。下り坂を転げ落ちるように体力が無くなり、骨と皮になった父。それでも、もう少し時間があると思っていたのに。最後は寒い、寒いと言い。暖房を強くし、電気毛布を敷き、電気カーペットで温まり。だのに今は霊安室に居ます。ドライアイスを当てられ、冷蔵庫の中に居ます。明日、冷蔵庫から出られる。体が無くなり、自由になれるよ。お父さん…明日、自由になれるから。父が亡くなり、その瞬間から統合失調症の弟の様子がおかし
2020年5月のある日、見慣れぬ役所から突然届いた父の死亡を知らせる手紙。子供の頃に別れ、消息もわからなくなっていた父の死をめぐって起こった出来事を綴ります。(全6回)●前のお話『その24:ピクニック』引っ越し先にほど近い所に大きな公園があるため、天気のいい日はお弁当を持って、娘とよくピクニックに行きますりんが守護霊さんと話すようになってから初めて行ったピ…ameblo.jp★「守護霊さんと話せる娘の日常」のLINEスタンプはこちらりんと守護霊さんの
父は最後の時を待っている。11月の終わりから体力が落ちた。12月に入って足を引きずり歩く様になった脳梗塞かも知れないと言われたことが発端だった。検査で病院を巡り肺がんからの脳転移とわかった。余生について考えた矢先に脳梗塞で倒れた。白い部分が脳梗塞になったところ。言葉を失い自力で何も出来なくなった。耳は聞こえている様だけれど確かめる術はない。そんな父は、今年の夏で74。誕生日を迎えて74になるのが父の生きる上での目標だった。私のおじいちゃん父の
嵐をぬけて虹を見る夢も愛も手に入れよう!モラハラ脱出コーチのヨーコです。大好評プレゼント中ナルシストセルフチェック動画4本セット公式ラインに登録して貰ってね!プロフィールはこちら!ヨーコズ・コーチングさんのプロフィールページ自己肯定感どん底から、自分大好き、そして経済的自立までの伴走コーチング初めましてモラハラ、毒関係脱出をサポートするヨーコです大阪出身今はニューヨーク🗽🇺🇸9年間続いたアル中との結婚生活で鬱になり、カウンセリングへ。そこで初めて自分が【虐待
妻の認知症の衰えは想定外だった…昨日⋯妻の父親の葬儀がありました。『【在宅介護日記】妻に父親の死を話してみると⋯』妻は父親の死を理解してくれるだろうか…妻の義父が急逝したことを妻に伝えました。『【次女弁当と在宅介護日記】訃報の悲しみと安堵の狭間に⋯』義父に言えなかった妻と…ameblo.jp妻に義父が亡くなったことを伝えても何の反応が無かったのですが、せめて最後の姿を見せようと、妻を葬儀へと連れていくとこに⋯。認知症の進行が更に顕著になった妻⋯喪服への着替えもひと苦労⋯💦着替え
父の死。それにまつわる家族(うん?僕だけかな???)の不協和音を書きましたが昨晩ちょっとだけ切れてしまいました。母に遺産相続を集中させる(本来の法定相続率で言うと母50%で兄・僕・妹で残りを1/3。の通りではなくすべて母に。現金化できるものとマンションの名義を母に変更)で同意。でした。これは僕が提案して全員同意したもの。そうするための手続きも役所に僕が電話してやり方もわかっている。でです。急がずに落ち着くのを待ちたい。ということだったので、では声がかかるまで待っているよ。ということで僕は
みんなの回答を見る今のブログタイトルにしたのは一年前の事でした。本当は2018年、父が亡くなった時点で変えても良かったけど、介護の思い出や経験についてまだ書きたかったのでその後5年も放置していました。何よりも未練があったからかな。父母と生きた時間が遠くなるにつれて悲しさや寂しさまで愛おしく感じてしまう時があります。もっともっと悲しみたい、悲しめば悲しむほどそばにいるような気がする、、、でもそんな感情に溺れてしまうと毎日がちゃんと過ごせないからやめときます。とりあ
ご無沙汰しております久々のブログ更新となってしまいました題名の通り、先月、父が永眠しました人生100年と言われる現在、70代前半の早すぎる別れでした治療のため入退院を繰り返していましたが、まだまだ治療の余地があると信じてましたが、最後は急変してしまい私も家族もそして多分、父本人も覚悟のないまま逝ってしまいました時間があれば覚悟できたのか?と言われるとそうでもない気がしますが・・・とにかく急すぎました前日まで意思疎通が出来ていて「また明日、来るからね」と病室を
おはようございます父のしんだときのことを書こうと思って、ちょっと馬力が必要だなって足踏みしています。あんたんとこの父ちゃん、しんだんやってな!「と、ひとから言われた😭」「他人にそんなこと言われる筋合いないわぁ😡」と、芋子が泣いて電話してきたのでした。そのとき、かめのこは夜勤明けで、相方とくつろぎの外食中でした。JR松山駅前の居酒屋ゑびすにいたのだった。10年ほど前のこと。当時の写真も何もないですと、ここまで書き進めていたところ。緊急地震速報⚡️地震が起きる前、ランチを食べに行
現在の状況をかんたんに三行でまとめると…毒親育ちの私、二十年以上、絶縁していた父の遺産を放棄。そしたら母から連絡が!故・父のきょうだいに遺産を取られちゃう!とのこと。母の言い分を3行で言うと、こう。娘の私が一筆書けば、妻の取り分が増える。そしたら、自分が死んだとき残る遺産を全部あげる。だから言う通りにして。…とのこと。取り合いになるようだから、遺産はプラスの額だったみたいですね。遺産を父のきょうだいにやらず、母の生活費にするならすればいいとは思いますが…父のお金ほしさに、母
なんだか嫌なタイトルですが。。。正直父の死を知らせれた時から葬儀を終えても。。。いつその悲しみが襲うのだろうか。と思っていたのですが。。。。それが訪れない。我ながらやっぱりおかしくないのかなあ。と思ったりもしたので理由を考えてみました。一番は、よく考えたら日常に父がいなかった。じゃないかと。普段から頻繁に連絡を取り合っているわけでもないし、会うのは年数回。1回2時間程度。なので”いなくなった”と言ってもそれって普段と変わらないじゃん。ってことなのかなと。あとは癌だとか、余命1年くら
父死亡の知らせを受け、とりあえず役所に行くことにした我らに次々と奇跡が起きまくる・・・(全6回)●前のお話『その25:父の葬儀(1)』2020年5月のある日、見慣れぬ役所から突然届いた父の死亡を知らせる手紙。子供の頃に別れ、消息もわからなくなっていた父の死をめぐって起こった出来事を綴ります…ameblo.jp★「守護霊さんと話せる娘の日常」のLINEスタンプはこちらりんと守護霊さんの日常-LINEスタンプ|LINESTORE漫画「守護霊さ
2023年9月6日(水)前回の記事↓『心を病み始めた父』2023年9月4日(月)母は昨日まで2泊3日で友人と旅行に行っておりました。一緒に行ったのは母のいちばんの友達で、母と同じく、胃ろうの夫を老々介護している高齢…ameblo.jpこの続きです。母の希望では父の事をたっぷり2週間ショートステイに預ける予定だったのですが胃ろうの人には水も含めた食事が提供されないというショートの規則?(多分、厚労省からのお達し?)により、父は、口から何も飲食出来ず心の平穏が崩れて
皆さんお元気ですか?久しぶりにブログを開けてみました過去を振り返ると、色んなことを思い出して泣いてしまいそうでなかなか開くことができませんでした父の四十九日も終えました。悲しみや寂しさは全然変わらないけど節目として、前向きに切り替えれたら良いなと思います思い出してたまには泣いてしまうかもですがだけとそれも含めて「私」なので自分の気持ちに正直に生きていこうと思います。父が亡くなってから色んな感情、色んな出来事を味わう日々でした。父を亡くし改めて生と死に向き合いこれ
引越し早々、我が家への最初のゲストとして母と兄が来たことをお伝えしました。母がうちまで自力で来られるか、家政婦としてパートとして雇えるか(母の生活にメリハリを与えるため)を確認するため。まあそこで父の死に関する話をいろいろしたわけですが、彼ら(いなかった妹含む)の僕への怒りの一つは、父が死んでも病院に駆け付けなかったことらしいです。散々僕を薄情すぎる、非常識と言っていたらしい。そんな僕を批判している感情があるなら父の死を悲しんでいればいいのに。。。でですね、僕からは下記を⚫︎もう死んで
先日、札幌西区役所から届いた文書は衝撃的だった。父の死を知らせる内容と、「行旅病人」という初めて聞く言葉。色々な意味合いのある言葉のようで、「行旅者又は住所及び居所のない者若しくは明らかでない者であって、引取者がなく、かつ、警察官が救護の必要があると認めて引き渡したもの」という事も書かれている。ここだけ読むと、父は氏名、現住所、本籍がはっきりしない状態で亡くなり、死後に名前などが判明し、私の姉弟達に連絡がきた・・・のか?そこでこの文章を読み進めると父はどこで見つかり
父の死を知った私でしたが、長年絶縁してきたため、葬式への参加も辞退。すると、しばらくして母からの手紙が。内容は…まとめると、こう。・父が亡くなり、銀行口座が凍結された!・そのため、生活費が困る・なるはやで相続の書類に判を押して送って!父の遺産ですが、プラスなのかマイナス(借金)あるのかもわからない。私には知らされてない。ウチもフリーランスでカツカツ自転車操業暮らしなので、ぶっちゃけお金なんてあればあるだけほしいけれども、そんなリスクある相続はできない、ムリ。たとえプラスの遺産だ
初七日と四十九日の法要をまとめてやりました最近はまとめてやるのも多いそう父の人柄のお陰で葬儀には200人近くの人が来てくれて香典のお陰で葬儀の支払いが7万円ぐらいになりましたうちの地元は郷友会がありその子孫しか入れない固い絆があり父の古い友人が昔話をしてくれて昔、大勢の先輩に呼ばれてボコられるとこを父が助けに入って戦った事ボクシング部のキャプテンをやってた事コザ高校のボクシングを部を作ったのは父達だったり私の記憶では常に沢山の人に囲まれてた父姉の旦那の自死でかな
葬儀中、彼は母の車椅子をずっと押してくれた。母も彼に感謝でいっぱいと言っていた。私からもありがとう。本当にありがとう。父からも、ありがとうと言っていると思う。"太郎、すまんな。ありがとうな"って。
病院のパーキングのレシート未だにふと、「え?何でもう会えないの?いやどうにかしたら会えるっしょ」って気持ちが込み上げてくる時がある。こんなに「死」が遠いって事を思い知らされたのが初めてだ。祖父、従姉妹の死を目の当たりにしてきたけど、「父の死」は全然違う。パートナーの死を経験をした方は尚更壮絶だろう。。毎日毎日病棟に行くのが少し恥ずかしささえ覚えてたあの頃。コロナ?インフルの影響で15分しか面会できないところを毎度2時間は居た。そして、呆れたおばちゃんナースに電話越しに反抗したのを今も
早すぎた父の死父が亡くなったのは私が26歳の時。突然だった。父は1人で暮らしていて、地元から遠く離れた場所に住む私に電話を度々かけてきては「ちどり、早く帰ってきて」「もうお父さんを看れるのはちどりしかいないよ」なんて言い出すようになっていた。当時の私からすれば「親らしい事もしてもらってないのに何で今更私が面倒を見なきゃいけないの」と、思っていた。病院からの電話どうやら父は入院していたらしい。心配してはいたが、すぐ退院出来るとの事でホッと胸を撫で下ろした。1
4月9日(火)からテレビ朝日系列で放送開始です。ラベルダウンロード「私たち友だちでいようね、永遠に」という仲間との約束を一瞬にして打ち砕いた運命の事件。それから12年の月日が流れ、舞台は長野から横浜へ―。35歳、念願の検事になって6年。そんな奏の前に、「あの」事件以来、消息不明だった同級生が現れ、再び“過去”と向き合うことに…。数多くの疑惑に包まれた「大学時代の事件」と対峙したことをきっかけに、新たに見えてくる20年前の「父の死の真相」、そして仲間たちの秘密の顔と、恋人との再会
母を入院させ、私の中では先ずは丸三日くらいはただただ寝続ける予定だった。ひたすらひたすら。んが、何故だかある意味不思議に健康的な一日をまず過ごしてしまった。いや、本当に健康的ならそれに越したコトはないのだけど先ずは「あゝ1人って素晴らしい」正確には(母のいない)1人なんですが(笑)。で、しばらくシャワーしかしていなかったので、明るいうちから湯船にお湯を張って、ゆっくりお風呂に入ろう!と思い立ち、脱衣所とお風呂場の境目に何故か出来ていた洗濯物干しスペースを整理何故ここが干し場になっ
2005年4月26日お通夜4月27日社葬泣くことも、死に顔をしっかり見ることもなく、準備におわれ、社葬は始まり、私の友人たちが、「あんなに大人の男の人が、泣く姿、初めて見た」と、言ってくれるほど父に関わった多くの人々が嗚咽し、泣いてくれていました。そんな中、私は、父が手術した日に心に決めた通り、涙を一粒も流すことなく、社葬を終えました。社葬の翌日ほとんど眠ることもなく、従
バレンタインデー。父が退院して家に戻ってくる予定だった日。12時間前にいつものようにお見舞いに行き、父に会ったばかりでした。でも、その日は不安がよぎり夜中2時まで起きていました。緊急の電話は今のところないからパパは大丈夫かな、9時半に介護ベッドの搬入や色々な作業があるから寝ないと、と布団に入った矢先でした。母へ病院からの電話。「体調が急変したので今から来て頂けますか?」その日は翌日から始まる父の介護のために、実家でリモートワークに切り替えてくれた弟も実家に居まし
昨年の晩秋父が亡くなったので新年のご挨拶は失礼させていただきました。いろんなことがあり過ぎてブログに向き合うことも出来ませんでした。自分の今を記しておかないとと思い今日やっぱりブログにすることにしました。完全ジコチューなのでそういうものを目にしたくない方はスルーしてください🙏父の葬儀の後右股関節を人工股関節にする手術を受け退院してからは必死でリハビリに励んでいました。13年前、義弟に腰部脊柱管狭窄症の手術をしてもらい、その後は同じように痛みに耐えながらアクアウォークを
昭和47年7月オイルショックの始まる少し前に、会社創立。それからは、不景気との闘いでした。小さな工場から、どんどん大きくしていって、初めは、見向きもしなかった金融機関に、あちらから「融資させてくれ」と頼まれるまでに、15年くらいかかった。手形を割ってくれず、金策に走り回って、夜も眠れなかった日々。私が、夜中に目を覚ますと、布団に座って、目は閉じているのですが、ずっと会社の事を考えて、眠れていなかった父。寝言で怒鳴り散らして、大声出している父。やっ
アサシンクリードヴァルハラのリンカン学校ではなくリンカンシャー篇がやっと終わりました。リンカンシャーはちょっと北の方にある紅葉が綺麗なエリアです。そしてフンワルドという人物の護衛ミッションから始まる。フンワルドをまず自宅まで護衛するもいちいち戦闘時に近寄るので巻き添い死して蘇生するの繰り返しでうざい。そして自宅まで行ってから今度はフンワルドの父の行方を捜索するはめになる。いちいち敵兵士のいるエリアを通っていき、戦闘になったり、痕跡を調べたりでけっこう手間がかかった。しかし手間をかけて