ブログ記事2,022件
死にゆく人たちは,魂がそれまで宿っていた肉体から分離するという,変容のプロセスを経験する。死は,「すべてが終わること」だと考える人もいるが,実際には,その逆というのが真実である。人間は,死ぬときに肉体を失うが,永遠の生命エネルギー体(魂)は,本当の世界(霊界,大霊)と融合する。普通の亡くなり方をした人は,地上に縛りつけられていた肉体から解き放たれ,安らかな,懐かしい場所へ早く帰りたいと感じるようである。肉体の命が終わりかけると,人は誰でも,高い次元の意識と触れ合うことができるようになりま
見に来て下さってありがとうございます。先日、父が亡くなりました。危篤と聞いた時は少し泣きましたが、その後は普通に死を受け入れて、「体から開放されて自由に動けるようになって良かったね。ありがとう、お疲れ様でした。」と思うようになり、それからずっと、死に際も、お通夜の時も、お葬式の時も、今もそんな風に思っています。全然泣かないので、「私、薄情な人みたいだよね?」と思いました😅斉藤由貴の歌「卒業」の歌詞みたい。脳梗塞で左半身麻痺になってから今年で10年目、色々あって正月
私の車で義弟と斎場へ向かった。義実家から斎場へは車で5、6分の距離にある。斎場に着いて、2階へ案内された部屋で待つ事になった。そこには先に到着していた義母が1人、椅子に座っている。この部屋は後でわかったけど、通夜振る舞いをする部屋だった。そこに旦那が運ばれてきた。葬儀屋さんが「これから湯灌の準備をしますので、できるまでこちらでお待ちください。」と言って、椅子のある所で待つように言われ、葬儀屋さんはパーテーションの向こう側で準備に取り掛かっていた。準備が整い、「こち
お金の,エネルギー循環の法則でも,まずは出すことが先である。出さないとお金は入ってこない。貧乏人ほど,お金を使うと減ってしまうという意識が根付いており,使おうとしない。この意識がさらに貧乏にしている。小生は,貧乏な頃,欲しい,絶対に手に入れたいと思ったモノは,借金してでも手に入れていた。金持ちは,お金は使う(動かす)なければ,入って来ないと,法則を理解している。いくらお金があっても,使わなければ無いのと一緒だ。お金自体には何の価値もない。お金は使って,欲しいものを手に入れ
魂は,生まれ変わる時,生まれ変わる人生を,基本的に,あらかじめ自分の意志で選んでいるといいます。突然の病気で急死したり,誰かに殺されたり,災害や事故で不慮の死を遂げる人生は,その人が不運だから,そうなったというより,魂が,そのような人生を選んだといいます。それは,魂に,明確な動機があって,それらの出来事に関わっているのである。魂にとって,転生で最も重要なことは,何を学び得るか,気づくか,カルマ(因縁,業)を解消できるかということである。前世で,人を殺せば,次の人生では,罪滅ぼしに,人に殺
命あるものは,なぜ,死ぬのが怖いのか。それは死後,どのような世界が待ち受けているのかを,輪廻してきた魂が記憶しているからである。小さな虫ですら,殺されるのを恐れて,生命の危険を察すれば逃げ惑います。つまり「一寸の虫にも五分の魂」が在るといわれるように,地球上の生きもの全てが,死を恐れるのです。本物の霊能者なかには,地球は霊界の刑務所だと言う人もいるが,小生もその説は正しいと思っている。地球の人間は,人間中心主義で,必要以上に自然も動物も破壊する。人間同士の争い(戦争)も絶えること
命日は霊にとって,何よりも忘れられない日であるというのは,それが現世から霊界へと,大きく自分の生涯を変えた日だからです。霊にとっては最も忘れられない一日です。私たちは,命日をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし,そんな私たちに対して,霊たちは,自分の命日が近づいていることを教えようしてくるのです。ご先祖の命日には,生前好きだったものを供えて,手を合わせましょう。本当の供養とはそうゆうものです。
死後に何か辛い思いをしたりひどい後悔をしたり孤独にさいなまれたりするという事は、ありません。死んでしまったら「生きてる人ともう会えなくなる」と思い込んでいますが・・・違います。死とは融合なので死んでしまったら生きてる人(の本体)と融合してなんつーのかな・・・・ずっと一緒だし、ずっと共有出来るし会える会えないというレベルではなくなるという感じです。例えるならば・・・
こんにちは。聖書を読んだことはありますか。聖書を読むように過去記事で書きましたが、それを見た人でもおそらく読んだ人は一人もおらへんでしょう。自称聖職者がおる地上の教会に通う人々、また神父や牧師ですらも本当の意味で聖書を理解している人は殆どおらへん。神父や牧師といっても、ただ神学校等を出て、イエズス会が考案した偽りの神学や歴史を学んだに過ぎない場合が多いです。教会に通っているだけでキリスト者、神父又は牧師だから立派なキリスト者と思っている愚かな人が多いと思います。また、バチカン市国のローマ教
実は、この記事は、あまり翻訳したくなくて、後回しにしていましたm(__)mでも、地獄があるのは確かです。そして誰にも地獄に行ってほしくない。だから、翻訳することにしました。確かに、地獄の話しは耳障りの良いものではありませんが、私は、クリスチャンはこのことについて口を閉ざすべきではないと思います。ある先生がこう言ってました。「伝道は一見、迷惑かもしれない。でも伝道しないなら永遠の迷惑だよ」って。うん、確かにーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー地獄が現実にある24の根拠デビッド・シブ
人生リセットしなくていいから再起動したい記憶や体のバックアップを取っておきたいPCになってもいいから自分の意思を持って考え続けたい
家族で誰か亡くなった後に,四十九日経たない間は,家で故人の気配を感じることがある。読者でも経験のある人はいると思う。実際に,四十九日の間は故人の魂は,自宅や,親しかった人のところにも行くものだが,寺で,四十九日の法要をして,墓に納骨をすると,それを境に気配は無くなってくるものである。そのような意味では,四十九日の法要と,納骨は非常に重要である。しかし,四十九日過ぎても,百日忌過ぎても,自宅で故人の気配がするようなら問題である。そのような時には,仏壇で手を合わる時に,故人に対して,
『死後』地上界の人々と繋がれない【現実】に直面します❗親しかった人や大切な人が亡くなると、私たちは悲しみ嘆きます。もうあの姿かたち、声を聞くことが二度と出来ないんだと「寂寥感」が沁みわたります。<心>に「言いようがない傷」と「孤独感」を刻みますその時ほど、この限られた<五感の限界>を感じ、少しでも<霊的な力>があれば、出来ることがあるのに、と思います。では一方、亡くなった側は、どんな様子なのでしょうか❓どう思っているのでしょうか❓この死後の様子や状態について、「
11月21日に放映されたNHK、Eテレ「らららクラシック」ではジョルジュ・ビゼーの劇付随音楽「アルルの女」を取り上げていた。「アルルの女」は演奏会用の組曲があって、レコードや演奏会ではだいたいこの組曲が取り上げられるが、このバージョンの第二組曲はビゼーが関わったものでは全然なくて、ビゼーの死後、友人だったエルネスト・ギローによって編曲されたものだということ。お恥ずかしながら、知りませんでした。ギローはビゼーと無二の親友だったそうで、二人で1ヶ月ほどイタリア旅行に行ったこともあるらしい。ビゼー
「死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩ーー愚かさ、無知、依怙地、偏見等々を乗り超えて働きます。二人の人間の愛の真の