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前回、私たちの周りに残る地名から、シュメールの痕跡を見つけてみよう…というブログを書きましたが…『シュメールの痕跡はあちこちに…』TOLANDVLOGさんの長い長いペトログリフの考察シリーズがついに最終回を迎えました!面白すぎた~~っ!私は、このペトログリフシリーズのおかげで、古代日本…ameblo.jp今回は、「私自身の中にあるシュメールの痕跡」を探っていこう…と思いましたチョーナガイデスキーワードは「キ」「ケ」ナニ?以前も上記のブログに書きましたが、私は高校生の時、歴史好きの祖
この記事を読み終わる頃には、高鴨神社の「王朝雅御守り」が欲しくなるかもしれません(笑)。そもそも「葛城」と聞いて連想するのは↓。「ミサトさあぁぁぁぁん!!!」学生時代、ドップリとエヴァにハマっていたものですから。。。この前、高鴨神社で「王朝雅御守り」を買ったからなのか、それとも上賀茂・下鴨神社の神域参拝を行ったからなのか。『賀茂別雷神社(上賀茂神社)と奈良の高鴨神社は同じ賀茂氏の神社』10月に受けた今年のある意味総決算、ゆにわ(神社チャンネルの羽賀ヒカルくんのところ
皆さんこんにちは。SILKYニューヨークお風呂バウムは、いま細かい調整を行っているところです。本日夜9時前後には発売出来るようにします。製品はお風呂バウム+レギュラーおはぎちゃん4個のセットになっており、お風呂バウムにはホワイトとシルバーの2種類があります。詳細はのちほど!さて、私はこれまでハーモニーズで「クォンタムウォッチ」をいくつも出してきましたが、ふと気付いたことがあります。たとえば私があと100年生きるとします。つまり、まず寿命を自分で設定発動する。そこから逆算してカウン
壹須何神社(一須賀神社)(いちすかじんじゃ)河内国石川郡大阪府南河内郡河南町一須賀628(P無し、参道東側に1台程度なら停められるスペース有)■延喜式神名帳壱須何神社の比定社■旧社格村社■祭神大己貴尊天照皇大神天児屋根尊品陀別命[合祀]天満大自在天神天忍日命天津彦火瓊瓊杵尊彦火火出見尊彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)蘇我氏の祖神である石川宿禰を祀る社、現在の四柱は江戸時代から
《前編》より【秦始皇帝は、モーセの血を引いていた】秦始皇帝は璽を手にしていた。璽とは契約の聖櫃アークである。ネボ山の洞窟に隠されていた契約の聖櫃アークは密かに運び出され、なんと中国にもたらされていたのだ。・・・(中略)・・・。八咫烏の言葉が正しければ、秦始皇帝は封禅の儀式にあたって、契約の聖櫃アークを使ったに違いない。・・・(中略)・・・。ならば、秦始皇帝自身、ただのレビ族ではなく、モーセの血を引く予言者だった可能性がある。事実、始皇帝が牛を燔祭として神にささげた伝説までが残
2024年度香椎宮春季氏子大祭香椎宮春季氏子大祭は、祭神であられる神功皇后の命日(4月17日)に近い日曜を祭日と定め、隔年(香椎宮は偶数年)で行われる神幸式の年は土曜・日曜の二日間で執り行われる。香椎宮の神幸式は、土曜日に三基の神輿に乗られたご祭神が本宮から外出され、頓宮(鹿児島本線踏切近く)で一泊され、翌日の日曜日に本宮に戻って来られます。土曜日の神幸を「お下り」、日曜日を「お上り」と言います。今回は4月13日(土)の「お下り」の様子を紹介します。↓僕が香椎宮に到着
『土佐の昔話『大物主×浦島太郎=十三夜の数式』。』『黄泉の国の内緒話①『イザナミが眠る本当の場所』』『出張の合間の神社巡り阿波徳島編『天岩戸別八倉比賣神社①』~箭執神社と松熊神社と天手力男の正体~』『…ameblo.jp『阿波に残る神踊り『十三』の伝承と『イの国』の内緒話』『土佐の昔話『大物主×浦島太郎=十三夜の数式』。』『黄泉の国の内緒話①『イザナミが眠る本当の場所』』『出張の合間の神社巡り阿波徳島編『天岩戸別八倉比賣…ameblo.jp『禁書にされた阿波風土記と徳川
猿田彦神とは何か。「猿田彦発祥の地」とされる福岡県那珂川市から、その正体が解き明かされる。この地には、二柱の元宮がある。同神ゆえであった。★目次☆1日吉神社の猿田彦神☆2現人神社の住吉神☆3物部の祖神日吉神社の猿田彦神日吉神社は、日吉・日枝大社の元宮とされている。地元では猿田彦神。市でも「発祥の地」ということでイメージキャラクターになり、コミュニティーバスにも描かれている。しかし、祭神にはその名はない。日吉神社御祭神は、天御中主神、大
★結婚しました。浮気者ですが。「結婚しよう。20年後に月で結婚式をしよう。神主は自らやるよ!」
『ブログマップ』ブログ内の記事のマップです。これを読めばとりあえず分かるという記事をまとめました。まだ、途中ですがアップします。「神社*総まとめ」なども記載(スマホで見ると埋…ameblo.jp続きです。『八大龍王と弁財天1~浦島太郎伝承~』続きです。『竺紫日向久士布流多気*櫛布留岳は脊振山~二柱の竜~』続きです。(記事に追加あり)『二柱の神2~神の名*饒速日命と御炊屋姫~』当時の彼らに…ameblo.jp八大竜王は綿津見神。志賀海神社の神であり、安曇磯良神
ゴールデンウィーク、淡路島でバーベキュウするつもりが高速道路の混雑状況を鑑みて急遽前日に行き先を岡山の美星町に変えた。以前テレビで見た美星町の美しい夜空がとても印象に残っていてぜひこの目で見てみたいと思っていたのだ普段行かない岡山県にいくならやっぱり近くの神社にお参りしたくて岡山、スペース、神社、で検索してみると「吉備津神社」がヒットした夜になるまでの時間を過ごすためまずは吉備津神社を目指して出発してみたが高速道路が事故渋滞のため到着時間が大幅
『ホツマツタヱのつまみ食い⑧『宇宙創造と八王子の始まり』』ホツマツタヱによる宇宙創造のお話。大昔、まだ宇宙さえ生まれる前のこと。『アメノミヲヤカミ(天御祖神)』だけが存在した。その回りには、「ウビ」と言われる混沌が雲…ameblo.jp↑のつづき。さて、第二代天神の八人の神『クニサツチ』。ホツマツタヱにおいて、初代天神の『クニトコタチ』は東北の『ヒタカミ(日高見)』を手始めに開拓していき、やがて各々の国を八つに分け、『クニサツチ』の八人の皇子達にお任せした。八人の神『トホカミエヒタメ
ーお知らせ・スタッフよりー本日、竹内先生がケガをしてしまい、急遽入院になりました。年内には完治、平常通り仕事ができる見込みです。竹内城のメンテナンス中での出来事です。事件ではありませんので念のため。今月8日(日)の講演会は中止になります。参加者の皆様にはメールでお知らせしておりますので、ご確認お願いいたします。回復次第、チャンネルむっちゃん!の再開をします。SNSの投稿もできる範囲でしていくということです。ご心配おかけしますがよろしくお願いいたします。
★第74世武内宿禰私の跡取り問題について、この間、竹内長老会で話し合われました。私は一族の葛城家、平群家、紀家などから選んだら良いと言いました。「それでは困る」「予言によって選ばれた第73世武内宿禰の実子が必要です」と言われました。「1500年間続いていた武内宿禰家が、崩壊するのは見たくはありません」チャンネルむっちゃん<外伝>でも言ったように、正室も側室を持たれても良いのでは、と言っております。天皇家も側室がいないので、ギリギリつないでいる状態です。「天皇はほとんど
★竹内流!北斗宿曜占星術2019・12・31いよいよ今日で今年も締めくくりだね。皆様が自分の今年を振り返って思うことは一体どんなことなのか?個人的に興味があります。僕は予想外に次ぐ予想外の連続だったね。今思うとね、急旋回多し。2月に結婚発表、6月に修行開始、森の生活、12月に病院・・・。やはり、むちゃくちゃむっちゃんだね。これから一体どうなることか。僕にも読めません。え~っと、記事が読めないというコメントがありましたが、ありがとうございます。申し訳ない。宇宙歴史自
裏神道「陰陽道」その36<最終回>◆「武内宿禰」と「継体天皇」の謎籠神社の故・海部光彦宮司は、日本神話における神の「多次元同時存在の法則」を明らかにした。神は時空を越え、名前も変え、性別すら変えると。「神」の名のつく天皇は全て同一人物であり、皇后で唯一「神」の名をもつ「神功皇后」も同一人物。神武、崇神、応神は同じ人物で、騎馬民族だったイスラエル10支族の大王、ユダヤ人ユダヤ教徒だった。武力を表す「神武」は初の天皇であり大和を平定した天皇である。崇神天皇は『日本書紀』での
8月19日に巡った富山県の古墳、続きです↑舟橋天神堂古墳、北東側(セブンイレブン舟橋竹内店駐車場)より白岩川流域古墳群に属します。初めて「舟橋(ふなはし)村」を知りました面積は日本最小だそうです。村の範囲、東西で2.48キロ、南北で3.08キロしかないとのこと。↑舟橋天神堂古墳、北西側より↑神明社となっています(一の鳥居)↑とてもわかりやすい解説板がありました墳長38.4メートル、「後方」部の高さ4~5メートル、「前方」部の高さ1メートル、4世紀後半
仲哀天皇と神功皇后の両陛下にお仕えしたのが武内宿禰(たけのうちのすくね)です。長命だったので、両陛下の間に生まれた御子・誉田別命(ほむたわけのみこと)=応神天皇にもお仕えした、とされているのですが・・・謎が多く、伝説の人物とされています。でも、神功皇后と同様に各地に武内宿禰の言い伝えが残っているので、モデルとなる人物が実在していたことは間違いありません。武内宿禰が仲哀天皇と神功皇后に「不老水」を奉献する武内宿禰の子供のことについては「古事記」の中
この写真を見ると安倍さんも麻生さんもイルミの手先に見えて、本心はにほんをあいしていたのではないか⁉️そう信じたい…と言うのはベリーさんは日本の政治の中枢には日本を守ろう説いている政治家がたくさんいると言っていた。イルミナティやディープステイトに囲まれ身動き取れない為に言いなりになるしかないのかもしれない。そう信じたい。🥲前に主人と一緒に勇気を出して、スマートフォンに変えました。使いこなせるかなと不安がありましたが…それから、YouTubeを見るようになりました。そこで見つけたのが「むっ
前回のつづき前回、大仙古墳について書いたので、仁徳天皇についてあれこれ思い出してみましたデータ第16代天皇(在位:4世紀末~5世紀前半ころ)応神天皇の第四皇子日本書紀では大鷦鷯天皇応神天皇の崩御後、異母兄の皇太子と皇位を譲り合ったが、異母兄が亡くなったため即位したとされる。即位した年に難波(大阪)に遷都し、翌年に武内宿禰の孫娘”葛城磐之媛”を皇后とし、即位4年には民の家から炊煙があがっていないことに気づいて3年間の租税免除を決めた。免税の間は宮殿の屋
物部氏の祖はニギハヤヒとされる。ニギハヤヒは謎の多い存在だと言われているが、それは意図的に隠されてきたからだろう。ニギハヤヒは大国主だ。大国主はサナンダ・クマラという宇宙の存在が転生した人物。サナンダは複数の意識次元に存在している。そのうちの一つの存在が、シリウスの龍族のニギハヤヒになる。ニギハヤヒという名を名乗って地球に存在したことがあるのかはわからないが、祭神名として出てくる饒速日は、このシリウスの龍族のニギハヤヒからとったものだと思われる。一つ前の記事
福岡市西区壱岐団地長崎県壱岐島おはようございます。昨日のYouTube、不都合によりアップ出来なかったのでこちらに、福岡の壱岐と長崎の壱岐島の繋がりを書いておきます。福岡市西区には、「壱岐団地」や「壱岐小学校」「壱岐中学校」「壱岐交番」「壱岐農協」など、壱岐と呼ばれる地区がある。これは古代、壱岐国造(地方官)に任命され、壱岐国(壱岐島)を治めていた壱岐直(壱岐氏)の祖とされる壱岐直祖真根子(いきのあたいがおやのまねこ)に由来すると言われています。壱岐真根子いきの-
週末は出かけて休日を謳歌しつつも(貴州料理を食べに行ってました♪)、ナガスネヒコ・ファンの私としては、TOLANDVLOGさんの更新に釘付けでした。月曜の記事(記事自体は先週の木曜にほぼ完成)でも、「最後のキーは東北」と書きましたが、正にその通りでした。古事記、日本書紀ではニギハヤヒの尻に敷かれていたように描かれるナガスネヒコですが、もはやここまでくるとニギハヤヒより全然すごい存在ですよね。記紀も正統竹内文書も、ニギハヤヒはあくまでも弥生時代の人な印象ですが、ナガスネヒコ一族は縄
伝説の忠臣・武内宿禰!(香椎宮)香椎宮の綾杉を左に回ると石段を上って拝殿へ向かいます。綾杉を右に曲がると、奥に「武内宿禰(たけうちすくね)」の像が見えます。武内宿禰像近くに寄って良く見ると、赤ちゃんを抱いています。のちの応神天皇です。香椎宮と言えば・・・神功皇后と応神天皇のことは良くご存知だと思います。武内宿禰については、知らない方も割りと多いようです。でも、神功皇后と応神天皇を語るとき・・・日本書
寺社No.4030御朱印No.6778志紀長吉神社大阪府大阪市平野区真田幸村願旗奉納の宮2024年1月8日祭神長江襲津彦命は、葛城襲津彦命とも称し第八代孝元天皇の孫にあたり武内宿禰の六子。葛城氏祖。水神社祭神:瀬織津姫神御朱印二枚を張り合わせます。2016年御朱印『【大阪の陣21番】志紀長吉神社①』寺社No.4030御朱印No.3933志紀長吉神社大阪府大阪市平野区大阪の陣21番、真田幸村願旗奉納2016年6月17日ameblo.jp
與志漏神社(よしろうじんじゃ)近江国伊香郡滋賀県長浜市木之本町古橋1102(境内併設の「己高閣」「世代閣」が2021年3月現在はコロナ禍のため閉鎖中、同時に当社駐車場も閉鎖)■延喜式神名帳與志漏神社の比定社■旧社格郷社■祭神須佐之男命波多八代宿禰長浜市を南北に縦断する「高時川」の上流、「古橋」集落の外れに鎮座する社。霊峰「己高山(こだかみやま)」の南西麓の丘陵地に社殿が設けられています。◎創建は社伝によると、「景行天皇即位二十五年に武内宿禰が北陸及東方諸国巡視の命を受け
皆様こんにちは、先日、貴重な日本史を教えて頂いている師第73世武内宿禰竹内睦泰先生が逝去むっちゃん先生は元人気日本史予備校講師東日本大震災で予備校に行けない子供たちの為に予備校を辞めご自分で無料配信を始めた方です。更に皇族の方々との関わりもあり竹田恒泰様とも交流がある方であります、大学受験の方は是非、竹内睦泰先生の超速日本史攻略本買って見て下さいませ。とても悲しいですが、もっと本を読んで勉強しなくてはと思っております。わびさび、昔話、日本食……お姫様のた
「アテラ」1漢委奴国と邪馬台国と日本国川崎一水「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことにな