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2024年度香椎宮春季氏子大祭香椎宮春季氏子大祭は、祭神であられる神功皇后の命日(4月17日)に近い日曜を祭日と定め、隔年(香椎宮は偶数年)で行われる神幸式の年は土曜・日曜の二日間で執り行われる。香椎宮の神幸式は、土曜日に三基の神輿に乗られたご祭神が本宮から外出され、頓宮(鹿児島本線踏切近く)で一泊され、翌日の日曜日に本宮に戻って来られます。土曜日の神幸を「お下り」、日曜日を「お上り」と言います。今回は4月13日(土)の「お下り」の様子を紹介します。↓僕が香椎宮に到着
「新撰姓氏録」には、筆頭に「息長真人」の氏族がある。彼の始祖は応神天皇。神武天皇の名はどこにもない。彼の母である神功皇后は高良神(住吉神)の后であった。彼らは二柱の天照である。★前の記事『儺の國の星~17、千早星~瀬織津姫と饒速日命と二つの珠』真鍋氏は、神功皇后の摂政元年を200年としている。彼女は太歳を3度行っていた。裂田溝と早鞆門は、彼女に繋がる。★前の記事『儺の國の星~16、諏訪星~三つ…ameblo.jp★目次☆1応神天皇が最初の天皇☆2母・神功皇
今日は、竹内睦泰さん(通称むっちゃん)の講演から。この方が、本物の武内宿禰の正統後継者で、正統な竹内文書(口伝)を引き継いでいらした方です。既にお亡くなりになられましたが…🙏非常に残念です。竹内睦泰講演会神社とお寺とキリスト教2017年9月16日講演会日本歴史文化研究機構http://rekishibunka.jp/youtu.be室町時代の三代将軍・足利義満の時に、南北朝が合一しまして、これは1392年(いざ国一つ南北朝と覚えます)の事です。その時に、後南朝の96代・後醍醐天皇が北
奈良の高良神*目次です。大和の豪族たちが祀る、饒速日命と武内宿禰は高良神であった。子孫が祖神を祀る。彼らは元は同じ氏族であったのだ。『奈良の高良神①平群坐紀氏神社~紀氏の祖神~』二柱の天照、饒速日命と御炊屋姫。物部の神である彼らは、数多の一族の祖神でもあった。よって、彼らから名を変えられた高良神と神功皇后に繋がる。★前の記事『最終章…ameblo.jp『奈良の高良神②平群神社~平群氏の祖神~』平群氏の先祖を辿ると武内宿禰になる。彼は祖神であった。★前の記事『奈良の高良
神皇正統記によれば甲斐国(山梨県)一宮浅間あさま神社は、阿祖間神社だったかもしれないつまり、富士山は阿祖山だった宮下家の天井から出てきた文書があります。宮下文書です。宮下家は、山梨県富士吉田市にある、浅間神社(旧称阿曽谷宮守神社)の宮司でした。さらに、宮下文書は『武内宿禰が書かせた、という記事を見つけました(シドニーミナト氏)』。また、塵劫記には、地図が載っていて阿祖→北、南、東、西とあり阿曽が、本州にあるんですね。(華頂博一氏)皇祖皇太神宮は、武内宿禰73世
今日は運命の日ドコモショップに一括請求の解約に予約をして、2時にとれたので最寄りの神社を探します😅道中に参拝。かりんとうに九州行くぞと。産土の神であり父であり兄であり、友である素戔嗚尊に九州の話と今日の運命について話します。素戔嗚尊からある条件を認めるかどうか問われる事に。先日見つけた稲荷神社にご挨拶自転車に乗ってドコモショップ、の前に(笑)長野の鎮大神社で汲んできた水を片瀬の諏訪神社へ持って行きます。吸い込まれるようにお稲荷さまへ「持ってるぞ」そしてもう一つの御
封印された超古代史「古史古伝」の謎:その44神代文字で記された「竹内文書」を書いたのは、正確には誰かは分からない。武内・建内・竹内の3つの名でその正体を隠した武内宿禰(たけのうちのすくね)自身が書いたものとはどこにも書かれていないからだ。その宿禰の末裔たちが代々保管してきたその内容について、歴代の竹内家の宮司たちは「時いたれば秘史を皇室に奉還せよ」と子々孫々に伝え、それが『竹内文書』となって世に出たのだが、その内容に注目したのは、酒井勝軍や山根キクといった人たちだけでなく、後の首相の東
高良御子神社福岡県久留米市山川町596-1高良玉垂命の御子「九躰皇子」を祀る。「王子」宮とか九躯「皇子」とか、天皇家?祭神斯礼賀志ノ命神(シレガシ)朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)渕志ノ命神(フチシ)谿上ノ命神(タニガミ)那男美ノ命神(ナオミ)坂本ノ命神(サカモト)安志奇ノ命神(アシキ)安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)武内宿禰も、古事記には子供が9人いたって書かれているよね。
裏神道「陰陽道」その36<最終回>◆「武内宿禰」と「継体天皇」の謎籠神社の故・海部光彦宮司は、日本神話における神の「多次元同時存在の法則」を明らかにした。神は時空を越え、名前も変え、性別すら変えると。「神」の名のつく天皇は全て同一人物であり、皇后で唯一「神」の名をもつ「神功皇后」も同一人物。神武、崇神、応神は同じ人物で、騎馬民族だったイスラエル10支族の大王、ユダヤ人ユダヤ教徒だった。武力を表す「神武」は初の天皇であり大和を平定した天皇である。崇神天皇は『日本書紀』での
4月13日と14日に香椎宮の神幸祭があった。神事ももちろんだが、今回はこの旗を直に見たかった。武内宿禰さまと四氏族が並ぶ。★目次☆1神幸祭☆2大三輪氏と宗像神☆3高良神と神功皇后神幸祭13日に行ったので、前日に頓宮へ向かったお神輿が戻ってくる日。香椎宮*楼門15時に頓宮出発。神功皇后と仲哀天皇が、頓宮で夫婦水入らずで過ごすという。まもなく、行列が見えた。来た!五つの旗!後に。神輿は三台。住吉神、神功
志紀長吉神社河内国志紀郡大阪市平野区長吉長原2-8-23(境内にP有り)■延喜式神名帳志紀長吉神社二座並大月次新嘗の比定社■旧社格郷社■祭神長江襲津彦命事代主命「大和川」北岸、大阪市平野区「長吉長原」に鎮座する式内大社の比定社。◎「大和川」は宝永元年(1704年)に南方に大きく「つけかえ」がなされました。かつては「大和川」の支流、「平野川」と「狭山西除大川」に挟まれた地だったと思われます。◎ご祭神は長江襲津彦命と事代主命の二柱。長江襲津彦命とは一般に葛城襲津彦とし
前回、私たちの周りに残る地名から、シュメールの痕跡を見つけてみよう…というブログを書きましたが…『シュメールの痕跡はあちこちに…』TOLANDVLOGさんの長い長いペトログリフの考察シリーズがついに最終回を迎えました!面白すぎた~~っ!私は、このペトログリフシリーズのおかげで、古代日本…ameblo.jp今回は、「私自身の中にあるシュメールの痕跡」を探っていこう…と思いましたチョーナガイデスキーワードは「キ」「ケ」ナニ?以前も上記のブログに書きましたが、私は高校生の時、歴史好きの祖
この写真を見ると安倍さんも麻生さんもイルミの手先に見えて、本心はにほんをあいしていたのではないか⁉️そう信じたい…と言うのはベリーさんは日本の政治の中枢には日本を守ろう説いている政治家がたくさんいると言っていた。イルミナティやディープステイトに囲まれ身動き取れない為に言いなりになるしかないのかもしれない。そう信じたい。🥲前に主人と一緒に勇気を出して、スマートフォンに変えました。使いこなせるかなと不安がありましたが…それから、YouTubeを見るようになりました。そこで見つけたのが「むっ
★第74世武内宿禰私の跡取り問題について、この間、竹内長老会で話し合われました。私は一族の葛城家、平群家、紀家などから選んだら良いと言いました。「それでは困る」「予言によって選ばれた第73世武内宿禰の実子が必要です」と言われました。「1500年間続いていた武内宿禰家が、崩壊するのは見たくはありません」チャンネルむっちゃん<外伝>でも言ったように、正室も側室を持たれても良いのでは、と言っております。天皇家も側室がいないので、ギリギリつないでいる状態です。「天皇はほとんど
つけるだけで頭が良くなる!必勝ペンダント!販売開始します【内容】菅原道真、天照大神、誉田別命、市杵島姫命、熊野神(家都御子神・熊野速玉男神・熊野夫須美神)、熱田大神、経津主命、伊邪那岐命、伊邪那美命、高御産巣日神、国之常立神、弟橘姫命、豊受大神、素戔嗚尊、菊理媛神、日本武尊、大山祇神、天之御中主神、神功皇后、保食神、天忍穂耳命、天香山命、彦火火出見命、天日槍命、八意思兼命、天児屋根命、武内宿禰学業や必勝、出世のご利益がある神様だけを入れました!藤原道真が主に入って
仲哀天皇と神功皇后の両陛下にお仕えしたのが武内宿禰(たけのうちのすくね)です。長命だったので、両陛下の間に生まれた御子・誉田別命(ほむたわけのみこと)=応神天皇にもお仕えした、とされているのですが・・・謎が多く、伝説の人物とされています。でも、神功皇后と同様に各地に武内宿禰の言い伝えが残っているので、モデルとなる人物が実在していたことは間違いありません。武内宿禰が仲哀天皇と神功皇后に「不老水」を奉献する武内宿禰の子供のことについては「古事記」の中
猿田彦神とは何か。「猿田彦発祥の地」とされる福岡県那珂川市から、その正体が解き明かされる。この地には、二柱の元宮がある。同神ゆえであった。★目次☆1日吉神社の猿田彦神☆2現人神社の住吉神☆3物部の祖神日吉神社の猿田彦神日吉神社は、日吉・日枝大社の元宮とされている。地元では猿田彦神。市でも「発祥の地」ということでイメージキャラクターになり、コミュニティーバスにも描かれている。しかし、祭神にはその名はない。日吉神社御祭神は、天御中主神、大
ゴールデンウィーク、淡路島でバーベキュウするつもりが高速道路の混雑状況を鑑みて急遽前日に行き先を岡山の美星町に変えた。以前テレビで見た美星町の美しい夜空がとても印象に残っていてぜひこの目で見てみたいと思っていたのだ普段行かない岡山県にいくならやっぱり近くの神社にお参りしたくて岡山、スペース、神社、で検索してみると「吉備津神社」がヒットした夜になるまでの時間を過ごすためまずは吉備津神社を目指して出発してみたが高速道路が事故渋滞のため到着時間が大幅
週末は出かけて休日を謳歌しつつも(貴州料理を食べに行ってました♪)、ナガスネヒコ・ファンの私としては、TOLANDVLOGさんの更新に釘付けでした。月曜の記事(記事自体は先週の木曜にほぼ完成)でも、「最後のキーは東北」と書きましたが、正にその通りでした。古事記、日本書紀ではニギハヤヒの尻に敷かれていたように描かれるナガスネヒコですが、もはやここまでくるとニギハヤヒより全然すごい存在ですよね。記紀も正統竹内文書も、ニギハヤヒはあくまでも弥生時代の人な印象ですが、ナガスネヒコ一族は縄
福岡市西区壱岐団地長崎県壱岐島おはようございます。昨日のYouTube、不都合によりアップ出来なかったのでこちらに、福岡の壱岐と長崎の壱岐島の繋がりを書いておきます。福岡市西区には、「壱岐団地」や「壱岐小学校」「壱岐中学校」「壱岐交番」「壱岐農協」など、壱岐と呼ばれる地区がある。これは古代、壱岐国造(地方官)に任命され、壱岐国(壱岐島)を治めていた壱岐直(壱岐氏)の祖とされる壱岐直祖真根子(いきのあたいがおやのまねこ)に由来すると言われています。壱岐真根子いきの-
皆さんこんにちは。SILKYニューヨークお風呂バウムは、いま細かい調整を行っているところです。本日夜9時前後には発売出来るようにします。製品はお風呂バウム+レギュラーおはぎちゃん4個のセットになっており、お風呂バウムにはホワイトとシルバーの2種類があります。詳細はのちほど!さて、私はこれまでハーモニーズで「クォンタムウォッチ」をいくつも出してきましたが、ふと気付いたことがあります。たとえば私があと100年生きるとします。つまり、まず寿命を自分で設定発動する。そこから逆算してカウン
與志漏神社(よしろうじんじゃ)近江国伊香郡滋賀県長浜市木之本町古橋1102(境内併設の「己高閣」「世代閣」が2021年3月現在はコロナ禍のため閉鎖中、同時に当社駐車場も閉鎖)■延喜式神名帳與志漏神社の比定社■旧社格郷社■祭神須佐之男命波多八代宿禰長浜市を南北に縦断する「高時川」の上流、「古橋」集落の外れに鎮座する社。霊峰「己高山(こだかみやま)」の南西麓の丘陵地に社殿が設けられています。◎創建は社伝によると、「景行天皇即位二十五年に武内宿禰が北陸及東方諸国巡視の命を受け
前回のつづき前回、大仙古墳について書いたので、仁徳天皇についてあれこれ思い出してみましたデータ第16代天皇(在位:4世紀末~5世紀前半ころ)応神天皇の第四皇子日本書紀では大鷦鷯天皇応神天皇の崩御後、異母兄の皇太子と皇位を譲り合ったが、異母兄が亡くなったため即位したとされる。即位した年に難波(大阪)に遷都し、翌年に武内宿禰の孫娘”葛城磐之媛”を皇后とし、即位4年には民の家から炊煙があがっていないことに気づいて3年間の租税免除を決めた。免税の間は宮殿の屋
2020年9月17日参拝。大宮住吉神社~住吉神とは誰なのか?~東武東上線・若葉駅東口より【東武バス】八幡団地行き「住吉神社前」下車徒歩10分。私は、9月4日に記事にした「勝呂神社」から歩いて行きました幅の広い石段を上り、表参道の鳥居と社号碑。鎮座地は、坂戸市塚越というところ。近くには、荒川の支流の越辺川(おっぺがわ)が流れています境内北側の低地は、昔は河川乱流地帯で、現在でも大雨が続くと一面水場となります。鳥居の神額には、「北武蔵総社大宮住吉大明神」とあります。石段
ーお知らせ・スタッフよりー本日、竹内先生がケガをしてしまい、急遽入院になりました。年内には完治、平常通り仕事ができる見込みです。竹内城のメンテナンス中での出来事です。事件ではありませんので念のため。今月8日(日)の講演会は中止になります。参加者の皆様にはメールでお知らせしておりますので、ご確認お願いいたします。回復次第、チャンネルむっちゃん!の再開をします。SNSの投稿もできる範囲でしていくということです。ご心配おかけしますがよろしくお願いいたします。
鳥坂神社(伊賀市甲野)伊賀国山田郡三重県伊賀市甲野字石神1301(P無し、鳥居向かって左脇に社務所らしきものがあり奥は行き止りのためそこに停めました)■延喜式神名帳鳥坂神社の比定社■旧社格村社■祭神武内宿禰大日孁貴命愛鬘命(ツケノリノミコト)[合祀]彌都波能賣命弥五郎大山祇神木花咲耶姫命速玉之男命大山咋神健速須佐之男命小さな山里の集落、伊賀市甲野の小山の麓に鎮座する社。「石神」という地名から想像されることもありますが、特に石などは見当たりませんでした。
「アテラ」1漢委奴国と邪馬台国と日本国川崎一水「日本」という国号は、文武天皇4年・西暦700年に完成した令11巻とその翌年の大宝元年・西暦701年に完成した律6巻からなる大宝律令に定められた。それまでは「倭」であった。しかしその名も実際には国名ではなく、その時の中国からそう呼ばれていたというだけのものであった。そして唐の時代に編纂された『翰苑』には後漢に朝見した倭の王は「倭面上国王帥升」であるとある。つまり、唐の時代には「倭面上」があったことにな