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2人目の継母は日に日に私達姉妹の生活に苦をもたらしていく当時40歳ぐらいだった父が私達に‘’新しいお母さんだよ’’と言って連れてきた2人目の継母は19歳の若い女性だった。父はその女性を家に置いたままずっと何日も帰宅しない。そんな若い新しい母親からは食事も与えてもらえなくて完全に放置状態。自分の子どもが産まれてからは家にいるようになったんだけど。それでも、何もしてもらえなくて。。ある日。姉も学校へ行っていて私はあまりの空腹に「お腹空いた」って継母に言った。
母が居なくなった時私の記憶の中に母が居なくなった時の不安な気持ちや悲しい気持ち母を探し回ったりママと泣き叫んだ記憶もないでも姉に聞いたら母が居なくなった時2人で凄く泣いたんだってそしたら父が物凄く怒ったらしい。。。私の記憶には全く泣いた記憶なんて残ってないんだよね父に怒られた記憶も残ってないけど姉も私も泣いたらダメって思って我慢するようになったんだろうな私にはねちゃんと母と居た時の記憶は残ってるんだよボロボロアパートに住んでた時はお風呂が家になかったか
インナーチャイルドとは。インナーチャイルドを癒すをやってみた。インナーチャイルドは、あなたの”心の内側(インナー)”にいる”子ども(チャイルド)”のことです。あなたが子どもの頃の体験から徐々に培ってきたあなたの一部です。自分を守るために、心の内側であなたの子ども時代の人格が、いまも頑張っている、それがインナーチャイルドです。インナーチャイルドは、いろんな思いクセや行動のクセの原因として知られています。ただのクセではなく、あなたの心を守るためのものであり、大人になった今でも、あなたの
ある時その日は食事ができなくて2人で途方に暮れていた。。。そしたら姉が継母の母の家に行ってみようと言い出した継母の母は私達に会うといつも優しく接してくれる人だった少し前までは私が1人でも行けるぐらい近くに住んでいたのにしばらく行かないうちに継母の母は私達の住む所から5駅も先に引っ越していたもちろん当時の私は5駅も離れているなんて知らなかったし家の場所も覚えていなかっただけど姉はちゃんと覚えていたどれくらい歩かないといけないのか想像もつかないまま
私には2つ年上の姉がいる。2人目の継母と暮らし始めた時姉は小学1年生で私は5歳。私はとにかくお姉ちゃんっ子でホントに常に姉といた。私達は自分達でも認める程の超仲良し姉妹。というか、その頃から私は姉が居なければ生きていけないと思っていたし姉しか頼れる人がいなかった。父親も継母もほとんど家に居ないし居ても寝てるし何かをしてもらえるわけでもない親無し子も同然の生活だったから。私は家に居たくなかったのか姉が学校に行って寂しかったのか毎朝、姉の登校に付いて行く。学
もちろん毎日誰かのお家でご飯をご馳走してもらえる訳ではなかったしゲートボールだって毎日集まりがある訳ではない何日も何も食べられない時もあった私達姉妹は空腹のあまりに公園に咲いているツツジの蜜を吸ったりして空腹を紛らわせる時もあった私は今になって思うけど空腹って普通に食べれる環境であるから感じるものなんだと思う毎日常に空腹だとそれが自分にとっては当たり前の事で空腹があまり辛いとは思わなかったし空腹を空腹と認識さえしていなかったかもしれない客観的に
私の当時の記憶はとても端的で印象に残ってる出来事も少ない幼過ぎたからか感情みたいなものが思い出せない辛さや悲しさや不安みたいなものを感じていたのかな?ただただ毎日を必死に生きるそれだけで精一杯だったのかもしれないそんな事を考えていたら姉はどうだったんだろう。。。ってふと思った2人で昔の出来事を話す事はたまにあっても姉の当時の気持ちを私は聞いた事がない私は生まれた時から隣には姉がいて姉が側にいる事がもちろん当たり前だった辛い生活を2人で乗
私もいよいよ小学校に入学する時がきた。と、言っても親は子に無関心。。。父も継母も私が小学校に入学する年だという事すらもわかっていなかったのではないかと思う。入学準備はもちろん何も言ってもくれないし何もしてもらえなかった。いつから?どうやって?学校に行けばいいのかもわからない。ランドセルも体操服も給食服も筆箱もえんぴつも消しゴムも何もない。。。どうしよう。。。学校に行けない。。。姉と途方に暮れていた。そしたら姉が部屋の隅っこから貯金箱を引っ張り出してきた。
母と再会してしばらくしてからの事。姉と2人で外で遊んで家に帰ると珍しく父と継母が家にいたそしてテーブルには夕飯の支度がされていた私は違和感を感じただけど今日は夕飯が食べれる安堵の方が強くその違和感はすぐ消えた夕食が始まってしばらくすると父が口を開いた「明日ママが迎えに来るから。今日はパパと食べる最後のごはんやで」その言葉を聞いた瞬間私の目からは自然と涙が溢れてきたやっと。。。やっとこの生活から解放されるママはホンマに迎えにきてくれる嬉しくて涙が止
3歳ぐらいから始まる私の記憶は…父と母と姉の4人暮らし風呂無しの6畳二間のボロボロアパートだった。父が家に居た記憶はほとんど無い。いつも母と姉と3人で居た記憶が強い。この当時の写真が残っていて私はカメラを向けられると変顔ばかりする茶目っ気たっぷりの女の子だったみたい。(今の私からは想像もつかない!あの頃の私どこ行った?)保育園の先生と母の保育手帳のやり取りを見ても、かなりのおてんば具合が伝わってくる。自分の記憶でも保育園に行くと男の子と園庭を駆け回る。お遊戯会で他の子
私達は家で食事を与えてもらえなかった。姉は学校がある日は給食があった。だけど朝も夜も家での食事はない。私には給食もなかった。何も食べれない日もあった。姉は私の手を引いて毎日考えてくれてたんだろうな。今日はどこでごはんを食べさせてもらおうか。。。家の真向かいには幼馴染の子が住んでいた。姉と同級生の男の子そこのお母さんは優しい人だった。よくお家に入れてくれた。冬は暖かいコタツがあった。ゴハンを食べさせてくれたり。。。おやつを食べさせてくれたり。。。みんなでT
母が居なくなった翌日には父が知らない女の人を連れてきた。母が居なくなってから2回継母が変わっている。1人目の人は私にはあまり印象に残っていない。その人はわりと私達の面倒を見てくれていたような記憶はあるかなぁ。ただ、私は保育園に行ける事もなくて毎日1日中家の中にいた記憶しかない。1人目の継母と過ごした期間はホントにほんの短い期間だった。それから、すぐだったと思う。2人目の継母に変わった。この人の記憶はかなり残ってる。めっちゃくちゃ若い継母だった。彼女のお腹には父
私は当時3歳4歳ぐらいだったから記憶は途切れ途切れだけど1度大きな施設の様な場所で母と姉と私の3人。しばらく沢山の家族と集団生活をしていた記憶がある。どの家族もお母さんと子ども達だった。2段ベットのある部屋でよその家族と一緒に生活した。子ども達みんなでホールの様な所に集まってまーるく円になって座っておやつを食べたり。。。大きくなってからわかったけどあれはいわゆるシェルターみたいな所だったんだろうな。母は私達を連れてきっと父から逃げないといけない理由があったんだろ
私も6歳になると1人でいる時の行動範囲も広がってきて姉が学校に行っている間1人で近所をウロウロするようになった。午前中〜お昼頃にかけての公園は子供達は幼稚園や学校に行っているからか誰もいない。。。いつも貸切状態1人ぼっちの公園で私はよく遊んだ行動範囲が広がったと言っても6歳の私にとっては自分の住む住宅街がとても広く感じたしその1画から1人で出る事はなかったいつも通り公園に行ってみるとお爺さんお婆さんがゲートボールをしていた私は1人滑り台の上からじ
いつもご訪問ありがとうございますあなたは占いを受けていやー、私はそんな真面目じゃないけどなもっとグータラだけどなどっちか言うと人見知りだしな…その逆も然り。なんて、占いの結果がしっくり来なかった経験はありませんか?私はあったんですよねー。原因としては過去の経験から、それを無いものに変えてしまっていたから。そして裏星の影響です。はい、裏星。新出単語です!笑鑑定師さんが出す鑑定書にこんな感じで、蔵干通変星のところにカッコ書きで書いてる場合があります。↓イン