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大河ドラマ『光る君へ』第16話「華の影」見ましたー。正暦5年8月28日(994年)、藤原伊周が「内大臣」に昇進。藤原朝光(正二位・大納言)、藤原済時(正二位・大納言)、藤原道長(従二位・権大納言)の3人を飛び越えての、強引な出世(ただし位階はまだ正三位)最終形態ゆえか『枕草子』で清少納言からは何故かビミョーな扱いを受ける「内大臣伊周」。伊周が内大臣ってことは、道隆さまの寿命は、あと半年あまり。え、もうそこまで進むの…?と、これをSNSで見た時(リアタイ視できなか
疫病が蔓延し、まひろが文字を教えていた少女「たね」が、両親が「悲田院」から戻ってこない、と泣いてきました。それは、乙丸が止めたって、行くでしょうね。子供を連れて来た時点で「そうなる」と覚悟すべきで。ほんと人はいいけど仕事がユルイ乙丸(褒めてます)。「悲田院」というのは、奈良時代に「光明皇后」が創設した施設ですね。藤原不比等の娘で、聖武天皇に嫁ぎ、皇族以外ではじめて「皇后」になった、という女性ですね。現代のどこかの国と大統領夫人と同じように、社会活動に熱心で、悲田院、施薬院を創設して、自ら病人の
登場人物がじわじわ増えていく上に、貴族の肩書が微妙にどんどん変わっているので、ついていくのが大変ですが(追いついていない所がある、かも知れませんが)。今回の人事異動で特に重要なのは、「伊周が大納言から内大臣になったこと」でしょう。道兼を右大臣に格上げしたうえで、道長、公任、実資らの先任者を一気に追い越して、伊周を大出世させました。なぜ、道隆はこんなに焦るのか?道隆は、自分の命が長くない、ということを予感しているんです。やたらに水を飲む、日差しが眩しい、これは糖尿病の症状です。飲酒癖の道隆
アクセスありがとうございますいいね!ボタンはありませんのでご興味ない方トバシテ下さい!テーマがバラバラですみませんm。。mとうとう伊周(コレチカ)が詮子を完全に敵に回しました何も言わなかったけれど怒りのオーラが炎のように立ち昇っていましたね🔥伊周はみずからの手で大きな墓穴を掘ってしまったのです史上初の「女院」の称号を得た国母であり皇太后である叔母の力を舐めているのです自分の失言の程度がぜんぜん分かってないコレチカそして帝である一条帝の立場が臣下である自分より
天皇の名前には「諡号」と「追号」があります。追号は、その天皇が引退後に住んだ屋敷の場所などから付けるものですが、諡号は、後世の学者が、その天皇の在位中の業績などから付けるものです。ですから諡号は「付けてもらってる天皇」と、貰っていない天皇がいて、後者の場合は追号で呼ばれます。「嵯峨」とか「白河」とか「一条」とか、京都近辺の地名で呼ばれているのが、こちらです。「光る君へ」に出てくる、円融天皇、花山天皇、こないだ即位した一条天皇、これらはみな「追号」です(円融、花山は引退後の、一条は在位中の、
楽毅論は、三国時代の魏の夏侯玄〔209-254〕が楽毅について論じた人物論。348年王羲之がこれを書き,のち彼の楷書の第一として重要視されている。光明皇后がその模本を臨書した(744年)といわれるものが正倉院宝物中にあり,正倉院の書跡中の白眉(はくび)とされる。(Wikipediaより抜粋)王羲之の筆跡をより誇張して書かれたものが光明皇后の楽毅論で、書学にて重宝されています。女性の筆跡とは思えない気迫に満ちています!王羲之の原本は正方形に近い字形を守っ
先日、本棚を整理すると宇野静山先生が50年以上前に臨書された光明皇后の「楽毅論」が出てきました。宇野先生は、私の師である金子鷗亭先生と同じ明治39年、北海道生まれです。久しぶりに先生が書かれた臨書を見て生き生きとした線が色あせることなく感動しました!奈良時代、王羲之の「楽毅論」を聖武天皇の皇后「光明皇后」が臨書したもの↓1)宇野先生の臨書3)私の臨書折れを力強く躍動的に表現しました。
東大寺に行った時に、東大寺ミュージアムに入った。仏像もよかったけど、入ってすぐの動画が結構良かった。聖武天皇の願いを感じることができた。家に帰ってから、その辺りを調べていくと、NHKで「大仏開眼」というドラマが過去にあったと知る。NHKオンデマンドで見てみると、これまた結構面白かった。奈良時代、遣唐使であった吉備真備(天才学者)が、阿部内親王(女性)(後の孝謙天皇)の教育係となる。一方、吉備真備と同時期に遣唐使だった僧玄昉は、唐で見た大仏を日本にも造ることを夢見て、朝廷権力に食い込んでいく