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なにをがんばるかは、じぶんで自由に決めていいはずです。「どうして努力しないの?成長したいのなら努力しなさい。◯◯になるには努力が必要」その◯◯になるかどうかは、その人が自由に決めていいはずで、努力や成長というのは◯◯までのあくまで過程の話だと思います。努力や成長ということばを耳障りがいいからと多様して、まるでそれ自体が目的かのようにやたらめったら努力するのは、しんどいと思うんですよね。そういうのが好きな人もいるけれど。
イメージでもの言う危うさは、イメージというものがいま現在のじぶんとの「関係性」で驚くほど変化するからなのだと思います。「隣街の奴らなんて大嫌い!」そんなふうに毛嫌いしていた隣街にひとりでも仲のいい友だちができると、意見も変わったりするものです。「アイドル好きなんて気持ち悪い…」「鉄道好きってなんかこわいんだよね…」「あの国の人たちってなに考えてるの?」好きを言うときには、べつにかまわないと思うけれど、嫌いを主張したり大声で叫ぶなら
よかれと思って。この「よかれと思って」は、たいてい「いいこと」とセットで存在するものだと思います。ただ、曲者だと思うんですよね。「いいこと」をしていると思いながら「いいこと」をするっていうのは、あんまりよくないんじゃないかな。「こういうのを許してしまったら社会が成り立たなくなるぞ!」と、口角に泡をためて怒鳴っている人も「よかれと思って」言っています。すごく雑に言ってしまえば、戦争だって「よかれと思って」ではじまっているのだと思
人との出会いは、あたらしい価値観との出会いでもあってじぶんのこれまでの価値観では、ままならぬことも出てきます。でも、それこそがおもしろい。じぶんのやっていることが、正しいに決まっていると信じて疑わないような場面からは、期待できるものってあまり生まれない気がします。頑なにじぶんの正義を貫くより、柔軟にじぶんをアップデートしている人と話をするときはほんとうにおもしろい。真逆の価値観に出会ったとき、受け入れる入れないは別とし
それは、ほんとうにいるのか?世の中には目に見えない存在を確認できないものがごまんといます。たしかめようがないものを、これまで「ある」としてきた背景には、「世界のバランスを保つ」という役割があったのだと思います。そういう意味で、「そんなもの絶対にない」と証明してしまうことによって、世界のバランスが崩れるということは、大いにあり得ることだと思います。むかしの人たちにとって、鬼とか、おばけとか、精霊がいなければ、バランスがとれな
こわい体験をおぼえています。命の危険を感じるようなことは、強固に記憶されているように思います。たぶん脳の仕組みとして、ヘビに出くわしてこわい体験をしたら、たとえ具体的な内容は忘れていても、ふたたびヘビに出会ったときには、「近づかないようにしよう」とプログラムされているんだろうな。感情をつかさどる扁桃体が、どんなふうにこわかったかという具体的な体験内容を忘れても、「なんかあいつイヤだな…」と過去の記憶から警告します。爬虫類が
その人が生きたせいで、いま、ここにあるもの。その人に子どもがいたら、まさしくそういう存在だと思います。その人が買ってくれたもの。その人がつくってくれたもの。その人が書いてくれたもの。それだって、その人が生きたせいで、いま、ここにあります。そういえば「あのとき」あんな話をしていたなとか、「あのとき」怒っていたなとか。「あのとき」悲しんでいたなとかも、その人が生きたせいで、いま、ここにある。いま、ここにその人がいなくて
予定が空くか分からないけれど、とにかく休みの予定を入れてしまう。そうすると、限られた時間のなかで、どうすればタスクをこなすことができるかに思考がシフトするんじゃないかと思います。休みを確実に取得するために休みの予定を先に入れるというより、「生産性をあげるため」にそうする。たとえば年始に仲間に「今年の夏は沖縄に行きます」と宣言する。日程調整が必要な場合は、この時点で可能なかぎりずらすなり実現可能なかたちに変更しておきます。「やっぱ
ぜんぶを知っていると豪語する人でも、ほんとにぜんぶ知っているわけありません。家電について詳しいという人だって、毎日すべての会社の洗濯機は試せないし、洗濯機だけが家電ではありませんから、テレビ、エアコン、冷蔵庫など、すべてを調べて試すなんてことはやっぱり限界があるわけです。注目を集め話題になりそうな製品は、チェックすることもあるかもしれませんが、おそらく他の人の使用レポートや感想をじぶんの情報ファイルに入れるなどして、知識を構築している
なにより脳がエネルギーを消費するのは、「人間関係」についてのことなのだそうです。人間関係の問題というのは、だいたいが距離感の問題だと思っています。あっちがそれほど親しいと思っていないのにこっちが親しすぎるふるまいをしたら、関係は当然わるくなります。「親しき仲にも礼儀あり」というくらい、親しいと思っている同士の間柄であっても距離感というのは大事なんだと思います。大人気のアイドルが、「わたしはモテない」とか言うようなこと、いくらでもあると思
だれかの悪口を言うとき、たぶんほとんどの人が悪口を言う人を攻撃したいわけではないのだと思います。そこまでの興味をじつは持っていない。ただ「あの人はこういうところがダメ。それというのもね…」と、この続きの部分の持論を述べたいんじゃないでしょうか。つまりじぶん語りの入口として、「ダメなあの人」を置いているだけ説です。なぜ、そんな入口が必要なのか。じぶんを含めてほとんどの人が、「わたしが大切にしていること(信念)」が、他者との比較のなか
ごちそうは、日々を生きるためにかならず必要なものではありません。栄養やエネルギーを確保することだけを考えれば、ごちそうである必要はないはずです。ごちそうを定義してみると、「生きていることをよろこぶもの」なんてどうでしょうか。高価なお店でいただく料理だけがごちそうではないと思います。まちの定食屋さんでいただくごちそうもあるでしょう。家で食べるごちそうだってある。それじゃ、どういうときにごちそうを食べるかを考えてみると、
子どものころの遊びのなかで、「かっこいい」ことにくらべたら、「勉強ができる」の魅力というのは、かすんでしまうんですよね。クラスの人気者には、「勉強ができる」だけではなれなかった。もちろんそれは、「運動ができる」だけでもなれなかったし、「親がお金持ち」だけでもなれませんでした。順位がつくものの上にいるわけじゃないのに、いつも輪の中心にいる子が子どもの世界にはいました。見た目の美しさでもなく、性格のすばらしさだけでもなく、お笑い
人になにかをしてもらいたいときには、いくつかの方法があります。ひとつは、お願いすることです。「パンを買ってきてください」はお願いです。命令もあります。「パン買ってこい!」です。相手との間に上下関係がある場合に、この命令のかたちは成立します。相談という方法もあります。「100円あげるからパン買ってきて」です。そして、脅すという方法もあります。「パン買ってこないと、大変なことが起こる」「もうパンがなくなってしまうぞ」「パンを買わないで不幸
映画などでたまにある、悪役側からのサイドストーリーを描いた作品などを観たりすると、「(メインストーリーだと)すごく嫌なやつだったけれど、こういう気持ちも分かる」と共感することがあります。日常生活においても、「すごく嫌なやつ」だったけれど、じぶんのなかで相手のストーリーを思い描ける想像力を持ちたいな。どれだけ意見が異なる相手でも、その人の生い立ちを知って、どんな景色を見てきたのかを想像し、じぶんも同じ立場だったとして考えてみたら
ケンカにならない会話のコツは、おたがいに関係のないことについて話をすればいいのだと思います。おたがいに共通の話題をさけて関係のない"なにか"について話せばおたがいを責め合うことはありません。でもそれでは、ずっと天気について話しているのと変わらなくなってしまいます。関係性を深めたいと思うなら、たとえケンカのリスクを負ってもおたがいに関係のあることについてやっぱり話したほうがいいのでしょう。ずっと天気の話をしていても、そこ
よく、どんなに小さいことでも「いいこと」を見つけなさいと言われます。毎日その日見つけた「小さないいこと」を書いておくのもいいなぁと思っています。よく言われることなんだけれど、実際ぼくらはその「小さないいこと」をあんがい見えていなかったりします。絵を描く人の目は、描かない人にくらべて、よりたくさんのものが見えています。いま流行りの言い方をすれば、解像度が高いといえます。音楽にいつも寄り添っている人の耳には、そうでない人よりもた
初夏のようにあたたかい陽気ですけれど、お風呂はゆっくりつかりたい派です。夏はシャワー派の人も多いなかで、(最近は一年中シャワー派の人も多いか…)湯船につかることを大事だと思っています。そもそも入浴の目的は、あたたまるだけじゃないと思っています。からだを清潔にすることだけでもない。入浴することの重要な目的のひとつに、重力からの解放があると思います。肩まですっぽりつかった場合、通常の1/10の体重まで軽くなりじぶんのからだを支える筋
旅を「発見」と言った人がいました。理解できないものに出会い、混乱するような体験(発見)をもとめてわたしは旅に出る、と。その人の旅の定義に従うなら、ガイドマップやSNSをみて「行ってみたい」と計画を立てて出かける予定通りの「旅」は、「発見」ではなく「確認作業」となり「旅」の定義から外れてしまいます。あたらしい発見はなく、どこかでだれかが体験して本やSNSに載せたことの追体験でしかない、と。もちろん「旅」の定義は、人それぞれ
この船の進路をおまえが決めるなよ。この海でいちばん自由な奴が海賊王だ。大人気漫画ワンピースのことばですが、実社会にも「じぶんで決めていいこと」は、ものすごくたくさんあると思います。だれかの命令でやるしかないこと、決まりだからやらなきゃいけないこと、そういうことはあるにはあります。だけど、じぶんが何色の服を着るか、どんな道順で歩き、ランチになにを食べるかどんな歌を聴くか、どんな本を読むか、じぶんで決めていいことですよね。なにかに
世界には美しいものがたくさんあります。世界にある美しい(とされる)ものを、「ああ、たしかに美しい」と感じられたら、それはとてもうれしいことでしょう。すばらしいものも同じように、「ああ、たしかにすばらしい」と思えたら、それもとてもうれしいことだと思います。美しいものに「美しい」と、すばらしいものに「すばらしい」と、こころを動かすことができたなら、たくさんのしあわせを得ていることと同じなのだと思っています。大谷翔平選手のことが、日
なにかを批評するときに思うのは、文芸評論家の豊崎由美さんのことばです。「ある作品を批評する際には、初期の作品と最新作を読んで、さらに代表作を2、3冊おさえておけばいいと思います。ただし、作品をほめるのではなく、批判するときには全作品に目を通さないとマズイです」あれのこれがダメ。それのあれが間違っている。批判したり不安にさせる文章は、ほめたり応援したりする文章より広がりやすい性質を持っています。だからこそ批判する場合は、
くしゃっと笑う人が好きです。個人的な好みの話はいいとして、笑顔でいることはいいことなんだと多くの人たちは思っています。笑っているほうがいい。でも実際には、笑顔でいられる状況っていうのは、そんなに多くなかったりします。「深刻な状況で、深刻な顔をしていたって、ひとつもいいことなんてないのだから」と、笑顔でいたら高確率で怒られます。笑顔のすばらしさについて饒舌に語っていた人でさえも、やっぱり怒ったりします。それでも
いま、この瞬間になにをしているか。未来はどうとでも言えるし、過去はいかようにも脚色できるけど、現在(いま)だけは誤魔化せません。どうなるか分からない未来より、ほんとかどうか分からない過去より、現在(いま)目の前にある現象から人は信頼を得ていくのかもしれません。だから経歴がどうとか、どんな資格を持っているだとか、どんなことを実現したいとかより、「現在(いま)この瞬間なにをしているか」それがいちばん大事なんだと思います。過去がひ
ほかの人と同じようにできないことが、いけないなんてこれっぽちも思いません。ただ、ほかの人と同じようにできないのだからとじぶんを卑下するのは危うい。じぶんを卑下しすぎると、じぶんでも知らないうちに「じぶんはこんなに弱いんだから、これくらいしてもいいだろう」と人格攻撃してしまったり、あることないことでっちあげたり、他人を傷つけることに鈍感になってしまう。駄々をこねる子どもがお母さんを叩くのは、じぶんの拳に力がないことを自覚し
努力の意味を辞書で調べると、「ある目的のために力を尽くして励むこと」と書かれています。「耐える」ではなく、「励む」と書かれているのがいいですね。油断すると、つい他人の評価を得るために行動してしまうけれど、そういう努力っぽいことは、「励む」ではなく「耐える」行為で、努力とは言わないんでしょう。周囲の期待や評価のために結果を出したいと思っているなら、満たされることはないだろうし、やればやるだけ苦しくなります。じぶんがこころから望む
「いかにも大変そうなこと」を、「いや、それほど大変じゃない」と言える場合それは「得意なこと」なのでしょう。「得意なこと」を生業にしている人は、「それほど大変でもない」からこそ、続けていられるんだと思います。あるいは、大変だけど我慢してやっているうちに、「それほど大変でもない」ようになったという場合もあるでしょう。そういうものも、「得意なこと」になったというわけですね。ただ「それほど大変でもない」と思っていることは、お金を取るのには
人を動かす表現で、上位に入るのが「新発売」です。たった3文字ですが、ずいぶん重宝されていますよね。「新発売」とあるだけで、「どれどれどんなんよ?」と手をとってみたくなる。あたらしいはニュースで、あたらしいはそのまま価値になる。「お、あたらしいね」と言ったら、「いいね」と言ったのと同じでしょう。あたらしいに、魅かれる人。それは、もしかしたら、文化・文明・経済いろんなものが「時間が経つにつれより良くなる」と信じている人たちか
陰キャとか陽キャとか、文系とか体育会系とか、なんでもかんでもふたつに分けてどっちかを突きつけるというやり方には、ちょっとした快感があると思います。YESかNOか、右か左か、中央か地方か、正義か悪か、アナログかデジタルか、現実か悪か、西か東か、ホントかウソか。ただ、そんなふうに敵と味方みたいに分けて、「敵だったらみんなぶっ倒してしまえ」みたいな発想は戦場を増やすだけです。アレルギーの症状だって、これは自己じゃないと判断して
少し適当な話です。光の側と影の側があるとして、光の側を見ながらなにかを語っていると能天気に思われることがあります。そしてなぜだか、影の側を語っている姿というのは、真剣に見えやすいように思うんです。だからきっと、真剣に考えているように見せたいときには、影の側を語っているとそれっぽく見えるような気がします。でも最近すごく思うのは、光の側を見ながらなにかを語っている人もそうそうバカというわけではないですし、影の側を語っている