ブログ記事133件
天皇皇后両陛下が平成31年1月21日から25日まで葉山御用邸にいらっしゃいました。「平成最後の葉山行幸啓(ぎょうこうけい)」という説があり、地元では「改元奉祝委員会」が作られ、日の丸の小旗を配ることになりました。(21日には4000本の日の丸が配られました)私は葉山に住んで30年になりますので、何回も行幸啓をお迎えしています。おそらく普通の方より何十倍も両陛下のお姿をまぢかに拝しているでしょう。時には、バルコニーからお見送りする「ずぼら」を決めた時もありましたが、今年は
池波正太郎の随筆「男のリズム」を読み返してみた。「池波正太郎って一体誰」という声が聞こえてきそうだが、しかたがあるまい。もうなくなって30年以上が過ぎた有名な作家である。私は池波正太郎が好きで「鬼平犯科帳」や「剣客商売」その他のエッセイをたくさん買い込み、若い頃よく読んできた。もちろん私以上の大ファンは多いだろう。私は中村吉右衛門主演のお芝居「鬼平犯科帳」を新橋演舞場で見たり、池波さんが通った資生堂パーラーに行ったり、定宿にしている山の上ホテルも好きで何泊もしたり、新国劇の人々が
1月7日、日本各地では様々な業種による賀詞交換会が開かれました。一番大きなものは経済三団体による賀詞交換会ですが、映像を見て少しゾッとしました。大ホテルの宴会場に男ばかり集まり、しかもおっさんばっかりで、偉い人が挨拶して、名刺を交換して「今年もよろしくお願いします」と言って、バイキングの寿司をつまんで帰ってくる。この風景は、なかなか海外では味わえない妙なものだと思います。女性が圧倒的に少ない・・。ほぼ全員が背広姿である。あまり外国人の姿が見えない。マスコミは有名企業の社長に「
お正月も終わり経済活動がいよいよスタートしましたね。私も暮れから正月にかけて練ってきた2019年のビジネスプランを企画書や趣意書に書きこんでいるところです。頑張らなくっちゃね。今日は平成31年の1月7日です。平成になって丸30年。実は30年前の1月7日、小渕官房長官が「平成」と書かれたあの色紙を持ったシーンを、私は生で見ていないのです。私や、友人の尾関一さんは第11回パリダカールに出かけていて、サハラ砂漠のど真ん中、ニジェールにいて、パイオニアが用意した衛星通
新しい年2019年が明けました。皆様、お健やかな新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。まずは健康とご多幸をお祈りします。私は元旦に、新聞各紙をくまなく読み漁るという習慣があります。1月1日の新聞は、各社が、社を挙げての自信に満ちた記事と社説を載せてくるということもあり、自分が、何を目標として生きていくか、参考にしたいからです。また、2010年からは代表的な記事をスクラップにして、次の10年。すなわち2020年までを一冊にまとめようとしております。この9年で
年末にあたり今年一年お世話になった皆様にお礼を申し上げます。月並みではありますが感謝の言葉しか思い浮かびません。振り返るとまさしく、闘病の一年だったと申し上げるしかないでしょう。1月東京の昭和大学病院に入院し2回目の抗がん剤投与。2月に12時間に及ぶ手術をして集中治療室からハードケア治療室にいました。(初公開。入院中のスナップ)麻酔から覚めた僕の目の前に広がっていたのは清浄な空気と、不思議な静けさでした。「生まれ変わった」そう思わずにはいられない景色でした。3
IwishyourmerrychristmasandHappyNewYear!もう年の瀬ですね。(去年のクリスマスケーキです)今日は2018年12月25日ですが、1年前の事をお話ししようと思います。去年のクリスマスイブは東京の昭和大学病院に入院しておりました。消化器系のがんで21日に入院して24日から点滴による抗がん剤の注入が始まりました。当時はまだ友人にも知らせてなく極秘の入院でしたし、病気のことを書き連ねても、健康な人には興味
12月のある土曜日、昔なじみの写真家菊池一仁さんと編集者椎橋さんがわが家にやってきた。そのワケは椎橋さんが「ランチア・プリズマ・インテグラーレ」を所有しており、私に見せたいということでありました。私は今から30年前。1988年から1991年にかけて、このランチア・プリズマ・インテグラーレ(全く同色のランチャーブルー)を持っていた。椎橋さんは、元GENROQ編集長で縁あって車を手に入れ信用あるレストア屋さんでじっくりと直し、メンテナンスを重ねて、街乗りに利用していらっしゃる。
2018F1総集編ナレーションの原稿執筆が終わりました。11月からほぼ1ヶ月。無事終えることができました。病気から復活。リハビリ中である私を信頼して任せてくれたスタッフには感謝申し上げます。ありがとうございました。1988年に始まったF1総集編もこれで31年目を迎え感慨ひとしおです。2018年のF1は、メルセデスのルイス・ハミルトンとフェラーリのセバスチャン・ベッテル共に4回ワールド・チャンピオンのタイトルを持ち誰が5回目に到達するか?という戦いでしたが、終
先日、検診の帰りに横浜の回転寿司店へ行った。評判の店なので並んだが夫婦でやっと入ることが出来て、隣のスペースに45歳くらいの外国人男性が座った。注文した品物が出来上がったが、店員が間違えて、その彼に僕の寿司を渡した。「きっとそれ、僕のだよ」と喋り始めたらおしゃべりが止まらなくなった。「この店ワイキキにもあるんだけど、すごく高くて、ここは安いからいい」それからの会話を少し描写すると・・・。「いつからいるの?」「一週間前から横浜の(ウィークリー)マンションに
先週、葉山マリーナから船に乗ってサンセットクルージングに出かけた。(葉山マリーナの大型モータークルーザー)これはNPO法人「湘南ビジョン大学」が主催したセミナーで東京オリンピックのセーリング会場の海に出て、夕日と富士山を眺め、優雅なひとときを楽しもうというものだった。(夕方出港するサンセットクルージング)葉山に住んでいるが、忙しくて長らく海には出ていなかった。ここは思い切って参加してみた。イベントのナビゲートナビゲーターは伊藝徳雄というプロセーラーで2
葉山の、わが家から歩いて「わずか5分」のところにガレージカフェ「葉山時感」がある。(トークショー開始)友人で自動車修理販売、旧車のレストア、レースメンテナンスなどで有名な永澤修一さんが経営していて、開店から1年半になる。(左大内誠先生。中央永澤氏)ここで先日(と言っても10月末の話だが)「ギャラリー・ガレージ」と言うイベントが催された。モデルカー・クリエイターの市原三千男さん。テクニカル・イラストレーションの大内誠さん。
11月11日ツインリンクもてぎで行われたスーパーGT最終戦で2018年のスーパーGTチャンピオンが決定した。熾烈なレースの結果、3位に入ったチームクニミツが年間チャンピオンにかがやき祝福の嵐と感動の涙に酔った。(写真は平田勝巨匠にご提供いただきました。ありがとうございます)特に山本尚貴選手は、スーパーフォーミュラのチャンピオンとスーパーGTのダブルチャンピオンということで最高の頂点に立った。これはすごいこと。本当におめでとうと言いたい。山本選手は5歳から
1992年頃、パリのマドレーヌ寺院の裏、マンション4階にテレビ朝日パリ連絡事務所があってひと月ほど通った事があるが、真下にFOUCHONの本店があって、パンやお惣菜で賑わっている風景を観察しながら、フランスの食文化の豊かさを羨ましく思った。そんなわけでもないが、僕は、このところパンが好きで、おいしいパンを求めてさまよっている。大きな動機は品川の病院に2ヶ月に一回葉山から通うのだが、帰りに横浜の高島屋か、そごうで惣菜を買うことが一つのイベントになりFacebookで「#お
今日は日記のようなものなので、タイトルを上記のようにさせてもらいました。冬の入院中から、是非やってみたかったことは「スープ作り」だった。「辰巳芳子先生のスープの本」を買ってきてもらい勉強したのだが、本の中身はエッセイで、作り方をダイレクトに書いたものではなかった。退院して、やや体力がつき始めた6月に「野菜たっぷりスープの本」(上島亜紀著)という写真入りを買って、見よう見まねで作り始めた。じゃがいもをバターで炒め、セロリを炒め、新たに買ったハンドミキサーでぐるぐるか
ラリードライバーの篠塚健次郎さんが、2018年の暮れにモナコを出発し、2019年の1月ダカールにゴールする「アフリカ・エコレース」に出場する。(89年1月8日、リザルトを見る。平成元年が始まった日です)資金の一部を調達するため、クラウドファンディングを実施中で、そのページに私が書き込んだことから、現在そのページには私の写真も使われている。12年ぶりのサハラ横断。素晴らしいと思います。羨ましいです。僕も、カメラマンの尾関一さんと砂漠を越えて取材に行きたいと思うほどです。(
皆さんこんにちは。全日本スーパーフォーミュラ選手権。山本尚貴選手のシリーズチャンピオン獲得おめでとう。KONDORACINGのチームチャンピオン決定おめでとうございます。さてこのところ私のブログで「走れクニミツ」「ドリフトキング」「父のアンテナ」の電子ブックの話をし、さらに東芝EMIの高島さん、石坂さんと言う天才ディレクターのお話をしてまいりました。(さあ僕はどこにいるでしょう?)今日は、今こだわって書いている1970年のお話をしたいと思います。世の
今日はお約束通り、僕の若い頃お付き合いがあった石坂敬一さんのお話をしたいと思います。石坂さんは1945年生まれで、1968年に東芝音楽工業に入社しディレクターをしていました。やがて1994年日本ポリグラムに社長としてヘッドハンティングされ、1999年日本ポリグラムからユニバーサルミュージックとなり社長、CEO、会長などを歴任し2008年に同社をCD生産額で業界シェアナンバーワンに押し上げ、日本レコード協会の会長を務めた人です。まさにサラリーマンとしては、見事な出世をし
今も伝説として残るTheBeatlesは1962年の10月に英国でデビューしました。ビートルズは世界の音楽をガラリと変え、社会も変えていきました。ビートルズは「地球に維新を起こした存在」だと僕は思っています。1970年、僕はFMのフリーディレクターとして社会への第一を記します。当時、出入りしていたのは、東芝音楽工業(東芝EMI)と言うレコード会社でした。ここに高嶋弘之さんという方がおられ大変お世話になりました。高島さんはビートルズの初代ディレクターでした。
「ドリフトキング」土屋圭市風雲録は10月5日に電子ブックになって発売されました。この本を書いたのは今から12年ほど前になりますが、書くにあたって僕がしたことは土屋圭市さんが、生まれ育った長野県東部町(東御市)をくまなく見ることでした。町は、軽井沢の西の方にあり、北には湯の丸高原、西には菅平高原があって、町はゆっくりとした勾配で、千曲川に落ち込むような形をしています。もっと言えば、町全体が大きな斜面の上にある。そういう立地です。この町の大地主の息子として土屋さんは生まれ、子供
先週のブログで予告いたしましたが、これまでに私が書いた本の中で、あまり知られていない部分を紹介しましょう。「走れクニミツ」小説高橋国光物語の中。実は第2章で、本田技研の始まりの頃についてけっこう詳細な描写があります。2代目社長の河島喜好が入社してすぐやった仕事は、エンジンの設計というよりは、戦争中に陸軍が使っていた6号無線機。この無線機を動かすための発電用のエンジンがありました。その小型エンジンを製造元だった小田原の三国商工と言う会社の倉庫まで取りに行き、それを浜松に持ち
ご無沙汰しました。さて2006年に私が書いた小説「ドリフトキング土屋圭市風雲録」は、芸文社さんから出版されていました。小説は土屋圭市さんの生い立ちから青春時代。レースを始めた頃、そしてドリフトキングと呼ばれた呼ばれ始めた頃、そしてチームクニミツ、やがてルマン24時間レースで片山右京とともに表彰台に上がる~。土屋さんの大活躍していた時代を克明に描いたものです。大変人気が高かったのですが、増刷されないまま、月日が過ぎAmazonの本のコーナーでは、一冊1万円近い値段がついていました。
このブログはGoogleの音声入力を使って書いています。昨日イヤホンとマイクが一緒になったヘッドセットを買って、生まれて初めてマイクに喋りながら、入力しています。なぜ、音声入力がやりたかったのかと言うと、小説やエッセイも、できれば音声入力で、やりたいというのが、長い間の夢であり願いでした。ただソフトや、周辺のマシンの値段が高くて、準備が面倒なことが多く、今の今まで、全くトライして来ませんでした。今日改めてヘッドセットで入力してみるとあまりの簡単さに拍子抜けするくらい
昨日9月4日の台風21号により、被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。そして、関西国際空港の被害は、まさしくDisaster=ディザスター(災害、災危)でした。(TakagiriTadashi)高潮による空港水没。これは1994年9月4日に開港した時には想定外の出来事だったろう。午前中は何事もなく機能していた空港が、突如として機能しなくなった。加えて航空燃料を運んできたタンカーが、台風のため錨を降ろして待機したが、強い風の向きはどんどん変わって、碇が効かず流されて連
8月22日水曜日、私の住む葉山町の一色海岸で、レーシングドライバー伊藤大輔選手・監督を囲むBBQが行われ、私も出席させていただきました。(恒例、夕陽をバックに記念撮影毎年顔が良く分からなくなる)主催は映像作家の宮本欽也さん、お手伝いは友人多数。実はこのBBQ、例年7月11日に開かれてきました。なぜかというと、今から10年前の2008年のこの日、ビデオの撮影時に伊藤大輔選手は事故に遭い重体に陥るという事態になり、それこそ土屋圭市さんの献身的救護や、スタッフの救護で
一週間前から読み続けている本がある。イギリスの首相だったウインストン・チャーチルの自伝の一部、「わが青春記」だ。(この人ですwww)読む理由は、二つ。侯爵の息子にして二つの大戦を戦った戦勝国側の物の見方を知りたいし、フィロソフィーを知りたい。二つ目は、1975年私が英国留学時代、つかの間、チャーチルの生家であるBlenheimPalasace(ブレナム宮殿。僕らはブレンハイムと呼んでいた)をよく散策していた。チャーチルの家であることは知っていても、
私は、自分のふるさとについて、複雑な思いを抱いている。小説「父のアンテナ」に書いた通り、私は岐阜県の関ヶ原で生まれ、10歳で岐阜県大垣市に転居し17歳まで暮らした。(大垣せんべいはほのかな甘みと味噌の香りでほっとする旨さ)やがて父の事情で、静岡に引っ越し1年だけの高校生活を終えて早稲田に入り東京に移った。実家は静岡となり、常に静岡に帰り、駿府会館でユーミンのコンサートを主催したり、SBS静岡放送でDJもやった。放送作家になって、世界を飛び回るようになる
ベルリン在住の次女が帰国してきたのは8月の10日であった。前回のブログで書いた通り、私はツール・ド・フランス2時間番組に取り掛かっており、多忙どころか、超集中が要求される時だった。(8月19日日曜日。我が家からの空)まさに藪から棒だが、この前、5月のゴールデンウイークにも、藪から棒で帰国したから私は驚かない。「仕事とかぶってごめん」と言いながら、私のWiFiで、自分のPCバンバン動かすわ、リビングで映画見るとか、「次女やぶからぼうこ」はやりたい放題。しかも、仕事佳境の
今年もツール・ド・フランスの旅番組である「旅する自転車レースツール・ド・フランス~絶景で振りかえる105回大会~」のナレーションを書かせていただきました。(今年のコースです)そもそもこの番組はどのような経緯で始まったのか?歴史的検証をしましょう(笑)1992年、フジテレビは「ツール・ド・フランス」のスタート中継から、毎日のレース結果放送を開始し、僕もその年、スペインからボルドーまで取材して帰国。日本でデイリーの番組を作りました。(スタートのヴァンデ県。こう