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大河ドラマ「光君へ」を毎週観ている。藤原隆家が亡くなり、関白の座についてからの道隆が、非常に横暴な人物として描かれており、道長の聡明さを際立たせる演出とはいえ、少し気の毒に感じている。「大鏡」を読むと、道隆はそれほど悪い人間ではないように思う。魅力的なエピソードがいくつかある。道隆は、大酒飲みであった。「大鏡」の道隆伝も、酒に関するエピソードから始まる。酒飲み友達の小一条大将済時と閑院大将朝光と、いつも大きな瓶で酒を飲んでいた。二人が訪ねてくると、歩けないほどに
ご訪問ありがとうございます。今回は大河ドラマ『光る君へ』について書いています。過去の記事はテーマ『ドラマ』から読んでいただけると幸いです。こんばんは。『光る君へ』17話.。4月ラストの回でした。平安時代というと、他の時代と比べて資料が少ないと言われていて、ドラマにするのは大変ではないかとの声が多かったようなのですが、始まってしまえば、あっという間の4ヶ月でした。しかし、今のところ、藤原道長とその周囲の人々にまつわる話が多めです。最近はまひろより、どちらかと言えば藤原道長が主人公に
NHK大河ドラマ『光る君へ』第17回。今回は関白藤原道隆の死です。道隆は糖尿病のような症状で次第に健康状態が悪化していきます。自分の死期を感じた道隆は次の関白を息子の伊周にしようと天皇に強要したり、天皇の后である娘の定子に皇子を産めと迫ったり、常軌を逸した振る舞いを見せます。一方では道長が次兄の道兼と協力して、疫病の患者を治療する施設を作ろうと提案しますが、道隆は前回同様全く相手にしません。道長は私財を投じて施設を作ることに決めます。道隆はついに倒れて、最後の場
疫病が蔓延し、まひろが文字を教えていた少女「たね」が、両親が「悲田院」から戻ってこない、と泣いてきました。それは、乙丸が止めたって、行くでしょうね。子供を連れて来た時点で「そうなる」と覚悟すべきで。ほんと人はいいけど仕事がユルイ乙丸(褒めてます)。「悲田院」というのは、奈良時代に「光明皇后」が創設した施設ですね。藤原不比等の娘で、聖武天皇に嫁ぎ、皇族以外ではじめて「皇后」になった、という女性ですね。現代のどこかの国と大統領夫人と同じように、社会活動に熱心で、悲田院、施薬院を創設して、自ら病人の
タイトルの「華の影」が何を意味するのか?分からないけれど涙にくれた道兼さまが見事に復活してくれたのは嬉しいなんだか頬もこけて、やつれた感はあるけれどシュッとした面持ちで、それもまた素敵関白の兄・道隆が何も手を打たない中疫病の実態を探るべく「汚れ仕事は俺の仕事だ」と、自ら疫病患者たちが療養する悲田院へなんて格好いいんでしょう同じ「汚れ仕事」と言っても以前の「汚れ仕事」とは全く別物・・・ちょっと先走ってしまうけれど道兼さまが関白にな
こんばんは~今日の『光る君へ』雑記は”摂政と関白”など官職について調べてみました。この間の15回ではて?(寅子のマネ2回目)なところがまだあったもので。それはこのシーンの↓語りの、伊東敏恵アナウンサーが言っておられたセリフ↓「2年が過ぎ、摂政・道隆の下、道兼は内大臣・・(続き省略)」なんじゃそりゃと思いましたよ。このシーンの直前で藤原公任の家で酔い潰れ居座り、公任に迷惑がられて、道長が迎えに行って、道長に励まされていた、あの道兼が!2年後には「内大臣」さらに驚い
内蔵から温まりたいと言う事でヒルノミ決行関白広島県呉市本通2丁目2−4臓モツ系で飲ろうぜもつ煮の似合う男になりたいコブクロを眺めながら心を落ち着かせる県下ナンバーワンの金賞受賞唐揚げあくまでも私の舌調べです私が暮らす街では関白宣言はフォークソングじゃありませんハードコアです大門軍団も驚きの爆破をお楽しみ下さい脳内ワンダフル・ガイズがリフレインカーネル・サンダース氏が思わず両手を挙げてバンザイした唐揚げもご賞味下さい
英雄たちの選択「秀次事件」を見ました。結果的に謎が2つ残りました。それは自分にはどうにも解釈できないので、専門家の検証を待ちたいと思います。その謎1つ目。「関白・秀次の死」経緯は1591年、秀吉の弟・豊臣秀長、秀吉の第一子・鶴松を立て続けに亡くす。1591年12月秀吉は関白を甥の豊臣秀次に継承する。これはこれで異例だった。関白職は五摂関家(近衛、鷹司、九条、二条、一条)の持ち回りだったが、秀吉の豊臣が加わって六摂関家になった。しかも秀次に関白職を譲ったので、五摂関
大河ドラマ『光る君へ』に関して、勝手に、私感含めて書いております。ネタバレは~という方はご注意ください。読み進む前に「はじめに」をご覧いただければ幸いです。『大河ドラマ『光る君へ』“勝手に”解説!~はじめに』はじめに大河ドラマ『光る君へ』が予想以上に私の好みでビックリしました!時代考証が倉本先生なので、そうおかしくはならないだろうな~とは思っていたのですが、…ameblo.jp※第五回(2)からの続きです(3)摂政関白の位置づけ「摂政」とか「関白」という言葉を聞くと、何だか「
人のおこないは、その人の思いが深刻であればあるほど、はたから見ると喜劇に見えることがある。しかし見た者は、そのあと人間というものの業の深さを知り、人間の真理をそこにみる。藤原摂関家の全盛は、ある意味でそのようでもある。兄弟は他人のはじまりたとえ仲良く育った兄弟であっても、それぞれが結婚し家庭を持ち、やがて子どもが生まれれば、情愛もそちらに移り、アカの他人のような関係になることもあるという意味のことわざだ。とりわけ平安時代は、血脈がモノをいう時代である。同じ親の血をひく兄と弟。親
天海(63)この一連の出来事に、秀次を筆頭にした一族衆が快く思わなかったのは当然である。豊臣家の血の継がりがない、淀殿が勝手に産んだ男子を後継者として認める訳にはいかなかった。そのうち、秀吉は天下の4/5を秀次に、1/5を拾丸に与えるなどと言い出した。秀吉にしても秀次たちの反発は理解できるものであったのだ。秀次も、もし拾丸が秀吉の実子であれば、これまでの恩義に報いるためにも、隠棲するのも吝かではない。しかし、豊臣家の血を継がぬ者であれば、それは何とも心外であったろう。そ
◉宇多天皇・藤原氏に吹くすきま風余ら父子がともに皇位を得る運命になったのはすべて大臣(基経)の力による。いのちある限り、決して忘れてはならぬ。光孝天皇は息子・源定省にそう言った。奇跡の皇籍復帰のすえ、宇多天皇となることができたのは基経のひとことに尽きる。宇多は基経を憚ることが甚だしく、次のように勅した。万機巨細、百官己れに総べ、皆太政大臣に関(あずか)り白(もう)し、然る後に奏下すること、一に旧事の如くせん関白という言葉が歴史にあらわれたはじめが宇多のこの勅旨である。
『脱亜論』という福沢諭吉の卓論があるが、私にはよくわからない。日本が独立を達成するには,西洋文明を導入してアジアなるものを脱却し,列強から存在を認められるようになる以外にない。ということらしい。日本はアジアにあってアジアではない。と言ってしまうと語弊があるだろうか。ただ、アジアの巨大文明国である中国の隣にあるという地政学上の宿命を抱く日本が、その影響をつねに受けながら、その都度、車が脇道にそれるように異なる独自の進展を遂げてきた。その脱亜の祖型が、平安時代にあるように思える。6
浅井長政の三人の娘の名前ですが。茶々も初も江も、いずれも諱ではありません。通称、愛称、みたいなものです。他人が平気で普通に呼べる名前は「忌み名」とは言いません、これは皆さま、御存じの通り。茶々さま、と皆が普通に呼んでいる以上、これは諱ではありません。通名です。男であれば、大野治長に向かって「はるながさん」と呼ぶ人間は(リアルタイムでは)いません。彼は「大野修理」と呼ばれていて、これが彼の名前だと、みんな思ってます。彼の諱が治長だなんて知らない人間のほうが多いし、知らなくても日常生活には全然
「豊臣の姓」暦は日を読むみなさん、おはようございますJリーグのサッカーは秋春制へ向かうようです春に種をまき秋に実りを祝う自然とは異なりますさあ、今日「12月19日」の國史を学びましょう「豊臣秀吉、豊臣の姓を賜る」天正14年(1586年)秀吉は百姓の出身です本能寺の変の後は主君の信長が平氏を名乗っていたことから平氏を名乗ります羽柴平朝臣(はしばたいらのあそん)秀吉信長の後継者を誇示するためです因みに「羽柴」は柴田勝家と丹羽長秀からとり
EVEです。またまた村山市楯岡の「山形麵屋・殿」の店主が面白い戦国武将シリーズのラーメンを出しましたよ。その名も関白秀吉ならぬ「雲白秀良(わんぱくひでよし)」!(≧∀≦)ネーミングから分かるように雲吞が入った白湯ラーメンですね。部下を引き連れて行ったのですが、もちろん注文したのは雲白秀良の大盛り!なんと!わんぱくがごと巨大なペッパーミルで黒コショウを振り掛けるパフォーマンスも!(゚Д゚)なるほど、信長の草履取りから始まった小姓(こしょう)とラーメンを食べ始め
中国産ミヤマムギランを10年ほど栽培しています。昔富貴蘭の業者から「関白」の名で購入した株は、丈夫で枯らしたことはなく、近年は増殖した株を風蘭や山野草の交換会の競りに出して来ました。この株は長らく3号の素焼鉢に植えて6鉢掛けの吊り枠で栽培していましたが、潅水後の重量が大きくて吊る作業が大変でした。昨年11月に3号スリット鉢に変更して、軽量化により12鉢掛けが出来ました。1年が経って新芽を多く抱えていることから、株分けをすることにしました。冬に入りましたが、私のところでは温室であ
「どうする家康」第45話「二人のプリンス」を見ました。1611年、後陽成天皇の譲位、後水尾天皇の即位のため、徳川家康は上洛。京都を始めとする上方では、豊臣秀頼人気が凄まじい。そして、徳川家康と豊臣秀頼の会見では、豊臣秀頼が下段で臣従の礼をとる。豊臣は武家として徳川の下に就く。上方では秀頼人気があったため、徳川にブーイング。徳川秀忠は焦る。父・徳川家康が亡くなれば、豊臣に負ける自信があると。だが、時は来た。淀殿が家康を倒さねば、本当の天下一統にはならないとして、方広寺に「国家安康
季節の変わり目には関白宣言関白広島県呉市本通2丁目2−4酒場のルールもつ煮からのスタート下処理が丁寧に施されたモツここにしかないコブクロが関白さんにはあるスマフォに高温注意報発令大将独りでの運営の為焦りは禁物呉市を代表する爆破系グルメあのカーネル・サンダースさんが思わず両手を挙げた唐揚げこれが本当の金賞唐揚げ倉敷から遊びに来られた友人もご満悦
秀吉が関白という官位を与えられるのは、朝廷が力を失い、かつ資金的に窮迫していたことが関係すると言われています朝廷に多額の献金を行いそうその見返りとして、その武家の家格以上の官位を発給することもあったのだそうです位階と官位というものがある訳ですが、前者が正一位、従一位、正二位、従二位~六位までありますこれに相応するように左大臣、右大臣、征夷大将軍、大納言、中納言~というのが武家官位ということになります一方で公家官位というものもあり、その最高位が関白、次いで太政大臣とされていたようです秀吉
「どうする家康」第34話「豊臣の花嫁」を見ました。1586年天正地震が起き、関西はかなり大きな被害を受けた。ここで豊臣秀吉は家康討伐を中止する。そして朝日姫を家康の正室にして上洛を促す。上洛=臣従の儀だから、家康はためらう。ドラマのような瀬名と信康の思いを巡らせたかは定かでない。だが、秀吉はこの頃、紀州の雑賀衆を傘下に置き、さらに毛利を傘下に置き四国平定し、越中の佐々成政も降伏している。戦力差は歴然。なぜ主戦論の家康は上洛を決意したかも謎である。臣従の儀は屈辱的
関白殿下是天下人也と記した紙だけをのこし石川数正、出奔Σ家康が幼少の頃からの教育係りだったのに徳川家臣団の話し合いでも一人、秀吉に降伏を進言豪勢な秀吉の大坂を見てきて圧倒されてしまったのかそれとも、秀吉の懐に入って家康のために暗殺する?後者なら、格好いいけどどうなるんでしょう、、
羽柴秀吉は、滝川雄利を使者として、浜松城に送り、徳川家康と講和しようと試みた。徳川家康は、返礼として、次男の於義丸、即ち、結城秀康を秀吉の養子にするために大坂に送った。於義丸は、事実上の人質であった。徳川家康は、小牧・長久手の戦いに勝利を治めたが、政治的には、羽柴秀吉に敗北したと言える。織田信雄及び、徳川家康が、羽柴秀吉と各々、単独講和したため、紀州の雑賀衆及び、根来衆、四国の長宗我部元親等は、孤立した。羽柴秀吉は、紀州攻めを行って、雑賀衆、根来衆を屈服させた。更に、羽
「どうする家康」第33話「裏切り者」を見ました。小牧長久手の戦いは織田信雄の降伏により終了。羽柴秀吉は徳川家康を追い詰めるため、真田昌幸に動いてもらう。ここで第一次上田合戦に敗れる。やはり秀吉の加勢があったと思われる。これで信濃を揺すられ、三河の隣接地・尾張は織田信雄領なので敵対地。それでも秀吉を倒す策を模索する家康とその家臣団。実際秀吉と交渉役を務めてた石川数正は思い悩む。大坂の城と街を実際見たその景色は、織田信長の頃を遙かに凌ぐ繁栄ぶり。しかも、羽柴秀吉は近衛家と
真田に秀吉が力を貸すこの場面、正にこの前歴史探偵で見た事態が起こりそうだ、この後真田が徳川に反旗を翻して、徳川の領地だった所から真田が秀吉と徳川に攻めていくんだよな、でも真田は秀吉につくのか徳川につくのかその進退を迫られたとも言ってたな、これは真田丸で真田幸村と兄の信之が敵味方に別れたと大河ドラマでやってたな、でも真田と秀吉が手を組むと徳川は周りが敵だらけになるから、本当にどうする家康だな😊
「関白へのご就任、おめでとうございます」「ありがとう」藤原頼通は満面の笑みで言った。藤原北家出身者の藤原氏長者の座を父道長から譲られた。藤原氏長者が関白の座に就くのは当然の流れだが、藤原氏に対する恨みつらみ、妬みも多く、足元をすくわれることもある。これで朝廷の権力を掌握することができた。頼通は家庭でもわがままに振舞い始めた。天皇の后にした娘が男子に恵まれず、平忠常の乱、前九年の役などの戦乱が相次ぎ、絶対的な権力を揺さぶらはじめていた。さらに、関係がよくない皇子が
夏本番に向けてエネチャージ関白広島県呉市本通2丁目2−4久しぶりの2階席大阪からの刺客をオモテナシジンギスカンのバラ肉ジンギスカンのミックス内容は豚耳と豚足…通称共食いカーネル・サンダースさんがお手上げした唐揚げまさに唐揚げ業界のゴールドエンブレム爆破系グルメ大門軍団も驚きの破壊力呉市の関白宣言はフォークソングじゃありませんパンクロックです
…昨日より続く。その後は街歩きしながら呉は山と海に挟まれた落ち着いた美しい街ですねなんだか神戸と風情が似ているような気もしました立派な商店街を通って『福住フライケーキ』を買って公園でおやつこんな大きな青鷺もフツーにくつろいでいるの@@公園にも戦艦大和の錨の展示通りがかったバスの表示になんと、我が家の『西畑』!なんだか素敵なお店を発見@@!『昴珈琲店』1959年創業そりゃ絶対『海軍さんのコーヒー
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正14年(1586年)4月、大阪城(おおさかじょう)で秀吉(ひでよし)が黒田官兵衛(くろだかんべえ)を呼び寄せた。黒田官兵衛秀吉「官兵衛、大友宗麟(おおともそうりん)が島津(しまづ)を征伐してほしいと懇願してきたぞ。」官兵衛「島津は殿(秀吉のこと)の九州停戦令を無視し大友領を侵攻しましたから…これで大義名分ができましたな。」秀吉さんは関白になって朝廷の権威をもって島津と大友に
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正13年(1585年)10月…四国攻め後、元春は再び日野山城(ひのやまじょう)麓の館の建築を進めながら、剣術の腕を磨くことに勤しんでいた。吉川元春館跡建築している館は元春さんの隠居の館なんだよ経言(つねのぶ、後の広家)も元春の剣術の稽古に付き合っていた。そこへ小早川隆景(こばやかわたかかげ)が訪れて来た。小早川隆景元春「隆景、ここへ来るとは珍しいの。」隆景「近々、元長