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弊社のお客様、フォロワーの皆様、いいね!を押してくださる方々、いつも有り難うございますソフトブレインのシニアAです今日は、小牧・長久手の戦いのあと、豊臣秀吉政権が樹立するまでの出来事ですそれではお楽しみ下さい(^o^)/天正12年(1584年)6月28日、羽柴秀吉は大坂城に戻り、これを受けて家康も清州城に移り、小牧・長久手の戦いは終息していった。しかし、その後も小競り合いは続いていく。大阪の和泉で起きた「岸和田城の合戦」、北関東に於ける「沼尻の合戦」、四国では「十河城(そごう
中国産ミヤマムギランを10年ほど栽培しています。「関白」の名で風蘭の業者から購入した株は、丈夫で枯らしたことはなく、近年は増殖した株を風蘭や山野草の交換会の競りに出して来ました。これまで3号の素焼鉢に植えて、6鉢掛けの吊り枠で栽培していましたが、潅水後の重量が苦痛になって来て、軽量化が課題になっていました。昨秋の株分け・植え替えでプラ鉢の3号スリット鉢を採用したところ、その後の新芽の伸長はペルー産ミズコケの保水効果もあって順調に行っています。中国産ミヤマムギラン「関白(かん
山上に逃げこんだ浅井・朝倉勢の糧道を断とうとした信長ですが、比叡山延暦寺が彼らをを庇護したのです。さらには、甲賀に逃れていた仇敵の六角義賢(南近江の観音寺城主だった武将)までが兵を挙げました。大津の信長の周囲はいわば敵だらけ。こうして信長は窮地に陥りました。そこで彼は各勢力を個別撃破しようと考えたのです。そのため、最大勢力といえる朝倉・浅井勢を支援する比叡山に対して、横領した山門領(延暦寺の荘園)をすべて還付すると、まずは“飴”で誘い、次いでこの申し出を断ったら
ランチの数少ないレパートリーであり週に一度のルーティーンだった仔豚さんがついに閉店しちゃいました、非常に残念です。僕のランチのレパートリー入りの第一条件は店から近い事。僕が独立開業した35年前はそんな店が周りに沢山在り毎昼チョイスする楽しみもあったんですが、この35年の間に本当に多くのお気に入りの店が閉店してしまい困っている(笑)そんな数少なくなったレパートリーの中の一つが中通2丁目にある、ジンギスカン「関白」さん。関白に初めて行ったのは僕がミヤニシに就職した1982年で
一歩一歩、着実に積み重ねていけば、予想以上の結果が得られる豊臣秀吉(1537年-1598年)豊臣秀吉(とよとみひでよし/とよとみのひでよし、旧字体:豐臣秀吉)は戦国時代~安土桃山時代の日本の武将、戦国大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人[3][4]。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた[5]。尾張中村の木下弥右衛門の子。幼名は日吉丸(ひよしまる)。木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と称した。松下之綱の下男
孫の期末試験勉強に付き合いながら、「概念」としては知っていても「語源」としては知らないことが多いのに、我ながら情けなく思っている。「津波」は「津を襲う波」、「幕府」は「武士の陣幕の中に府(中心)があること」、「関白」は「背後から~に関して曰(い)うこと」、「摂政」は「政を~にかわって取ること」などは知っていた。だが地理に出てくる「リアス海岸」の「リアス」が「入り江」を意味するスペイン語だったとは!!「譜代大名」の「譜代」とは「代々の系譜を意味する、つまり関ケ原の戦いの前か
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』がいよいよ佳境に入り、源頼朝未亡人にして尼御台所の北条政子が政治の表舞台に立つ時代になってきました。彼女はご承知のとおり、「尼将軍」と呼ばれています。早くて鎌倉時代の半ば、おそらく13世紀の終わりごろに編纂されたとみられる『吾妻鏡』は、巻頭の「関東将軍次第」で「平(北条)政子」を4代将軍としていますが、彼女が征夷大将軍に補任(ぶにん)された史実はありません。したがって、厳密には将軍でない彼女を「尼将軍」と呼ぶのは誤っています。し
中国産ミヤマムギランを10年ほど栽培しています。「関白」の名で昔風蘭の業者から購入した株は、丈夫で枯らしたことはなく、近年は増殖した株を風蘭や山野草の交換会で競りに出して来ました。不思議なことにこの株は、肥培してもこれまで花が全く着きませんでした。今年度は晩春から温室の外縁に出し、施肥も十分にしたところ、バルブが太り最近になって二つの鉢に蕾が上がっていることに気付きました。中国産ミヤマムギラン「関白(かんぱく)」兄弟10鉢8月17日に撮影蕾の着いた株2鉢をアッ
「関白・豊臣秀次」役目果たすも8月になって風が吹き始めました都会は別にして朝夕の風は心地よいですさあ、今日の國史を学びましょう!「豊臣秀次・妻子処刑」文禄4年(1595)「秀吉」の甥で「関白」であった「豊臣秀次」は高野山で切腹させられました「秀次」は秀吉の姉「とも」の長男息子のいなかった秀吉に実子の代わりとして「利用」されます敵方の大名・宮部家へ人質として「養子」に出され一度は戻りますが阿波の名門・三好家を調略のため「養子」に出され
疲れ切った初老の衰えた肉体節々に痛みが走る疲れ切った友人からのお誘いを受けヒアルロン酸でもありグルコサミンでもありマカの代表品呉市育ちの健康補助食品で回復しようじゃありませんか関白広島県呉市本通2丁目2−4もつ煮からのスタートコブクロのスローバラードの様な滑り出し丁寧な下ごしらえモツの臭みはありませんコラーゲン摂取明日からも頑張ろうそう思えるソウルフードちなみに関白さんのポン酢は飲み干せる唐揚げ業界のゴールドエンブレムカーネルさんがお手上げの激ウマ唐揚げ呉市の関
裏神道「陰陽道」その11◆「本能寺の変」織田信長は明智光秀の謀反により、本能寺で自害したとされている。謀反の動機は今なお日本史最大の謎の一つとされており、さらにそれと同じく不思議なのが「信長の遺体」である。遺体は見つからなかったのである。本能寺の変(左信長、右が森蘭丸)信長の遺体が見つからなかった主な原因としては、通説では以下のように言われている。その1.本能寺には大量の火薬が備蓄されていたため、放った火が火薬に引火し信長の遺体は爆散してしまった。
季節の変わり目は関白宣言エネチャージといきましょう関白広島県呉市本通2丁目2−4ヱビスの生大冷えてます煮込みからのスタート心穏やかになるやわやわコブクロ入ってますこれぞ唐揚げ業界のゴールドエンブレムカーネルさんもお手上げの唐揚店内キャンプファイヤージンギスカンに乗っているのは豚耳と豚足コラーゲン補充中ウーロンハイもデカイのきた呉市の関白宣言はフォークじゃありませんハードロックです音をお楽しみください
今回はこちらの日本酒にしました🍶胐みかづき加賀ノ月しぼりたて生酒石川県小松市今江町株式会社加越アルコール分19度精米歩合65%とにかくう!うまい!この冬限定のお酒をこの時期に飲む贅沢爽やかで瑞々しくしっかり骨太喉にグッときて余韻がいい♬濃くて強いと感じる人にはロック🧊もいいね!ごちそうさまでした〜
3月初めての大阪城公園です開花しているか分かりませんでしたがまずは桃園へ向いました桃より目立っていたユキヤナギ訪れている人は少なかったですが結構咲いていましたモー娘を思い出してします「矢口」純白の桃は「関白」ピンク色の「照手紅」1本の木に紅色と白色、紅白の絞りの花を咲かせる「源平枝垂」桃を撮りながら園内を歩いていたらハチジョウツグミを見つけました初めて見ましたが胸のあたりが薄い茶色でよく見るツグミとは感じが違いました続く
関白というのは天皇の後見人であり、親代わりのようなものですから、必ず天皇の側、つまり京都にいるものです。征夷大将軍というのは、遠征軍の長官、という意味です。だから京都から遠くにいてこそ意味がある肩書です。将軍は、遠征先ではいちいち天皇や朝廷の命令を待たずに、独断で軍を動かし占領地を統治する全権を与えられています。これが「幕府」と呼ばれる政治機構を作る根拠になります。武士は武士で勝手にやらして貰いますよ、朝廷は文句を言わんといてください、ということです。つまり征夷大将軍というのは、いつまで
摂政と関白は、どう違うのか、というと。摂政は「天皇代行」であり、関白は「天皇補佐」です。天皇が子供、女性、病気など、一人では天皇の仕事ができない場合に、天皇の行事と政治を代行する職が、摂政。天皇が成人男子のときは、行事は天皇自身がやるけど、実際の政治は関白がおこなう。従って、摂政のほうが格上とされます。まあ政治的な権限はほとんど同じなのですが。つまり「天皇に代わって、実際の政治を取り仕切る」という職です。じゃあ摂政関白と征夷大将軍はどっちが偉いか、といえば、そりゃ摂関のほうが格上に間
朝廷というのは官僚制ですから、官位官職というのは世襲できません。つまり、大臣の息子でも幼かったり病弱だったり能力がなかったりすれば、自動的に親の跡を継ぐことはできないんです。これが摂政・関白ともなればなおさら、壮年で人格識見に優れた、、「天皇の親代わり」に相応しいと衆目が認める人物しか、摂関にはなれないんです。朝廷のトップはそんなに甘くありません。親から子への直系相続だけで摂政・関白の地位を独占することは不可能なので、平安時代を通じて兄弟、叔父甥の暗闘が絶えなかったのは、御承知の通りです。
ニコポン。ニコッと笑ってポンとたたく。豊臣秀吉公の巧みな人心掌握術である。私のかつての上司に肩をポンとたたいて励ます上司がいた。ニコポンの逸話はその後に知ったが、ニコポンの逸話を知ったとき、かつての上司を思い出した。その上司は部下を○○選手と呼んでいた。別に野球選手ではないのに、スポーツをやっていないのに、○○選手と呼んでいた。今思えば、懐かしいニコポンと並んで今も忘れない逸話である。ニコッと笑ってポンとたたく。なぜか自然に励まされる。頭をたたかれると、馬鹿にされたり、叱られてるイメー
2020年7月24日に書いた記事の再掲になります本日は、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の命日にあたります。宝亀六(775)年生まれ、天長三(826)年没、享年五十二。歴史的にあまり表に出ることはない人物かと思います。関心があるのは個人的に、『嗣』の一文字を持つ者になんとなく惹かれるということ、でしょうかほかの二人をあげましょう佐藤嗣信(継信とも):もともとは奥州藤原秀衡に仕え、弟・忠信ともども源義経の家来となる。屋島の合戦において平教経の強弓を義経を庇い身代わり戦死す。足利義嗣:足利義
家康は関白になることを絶対に望みません。何故ならば、秀吉が関白になって大失敗したのを目の前で見ているからです。馬鹿でなければ、秀吉の二の舞にはならない、と考えるはずです。関白なんぞになっても百害あって一利なし、これは秀吉が身をもって証明してくれました。鎌倉幕府がはじめての武家政権といわれる理由は、はじめて「封建制度」によって成立した政府である、ということです。「封建制度」とは何か。「御恩と奉公」です。つまり、武士たちの「土地の私有権」を最大限に認めてやり、そのかわりに軍役や賦役という直接
全国津々浦々緊急事態宣言に怯える日々発令する前に駆け込み飲酒飲める内に飲む熱々ふーふーでコロナ退散関白さんオリジナルのポン酢は危険物カーネルさんも腰を抜かす金賞唐揚げ
秀吉が、旧体制の象徴みたたいな征夷大将軍より、全く新しい、史上初の「武家関白」のほうを新政権の看板とした、そっちのほうがカッコいい、と考えたのは、それはいいでしょう。ただし、秀吉はひとつ、大きな間違いを犯していました。「将軍は子供でもなれるが、関白は大人でないとなれない」ってことです。将軍というのはもともと「鎌倉のミニ天皇」であり、象徴に過ぎない、だから子供でも構わない、という先例がここまでで出来てました。しかし、関白は天皇の親代わりですから、貫禄のある立派な大人でなければなれないのは
まいどおおきに今日もお疲れさん今日の朝の通勤に事故でもあったのか珍しい大渋滞ワシは横道に入るので影響なかったけど1ヶ月ほど前にかかりつけ内科でワクチンの予約を取れて今週の金曜日の予定でしたが国のワクチン不足で1回目を受けてない人が2回目の人を優先する為に予約を取り消しになって延期になりました別に急いでるわけではないが殺生な話やでそれでなくても大阪は47都道府県で
天下を取ったら、役職の名前なんてどれ取ってもおんなじだ、と言うかもしれないけど。そうでもないですよ。関白というのは,簡単に言えば、天皇の親代わりですから、朝廷の中の人。当然「天皇べったり」になりがち。征夷大将軍は遠征軍の長官であり、京都を離れれば天皇や関白の命令をいちいち聞かなくていい。つまり幕府というのは「天皇から離れた政権」です。で、武家政権というのは、どうやら、天皇から離れてないと上手くいかない、長続きしないんです。ちなみに、信長は天皇家を倒して成り代わろうとしていた、なんていう人
今日は午後からまとまった雨が降り出しましたね。散り始めのサクラが少しずつ増えてきてたのでこの雨が加速させてしまいそうですね。今年のサクラは例年より綺麗だったように思いましたが、いかがでしょうか?さて、サクラの前にはモモの花が綺麗に咲きますね。大阪城桃園に行ってきましたので今回はその様子をアップしたいと思います。大阪城北詰駅近くの橋からまず主役をパシャしました。満開のソメイヨシノと一緒にモモの花たち。少し離れた位置からでもすごくカラフルでした。紅白、ピンクのモモの花がこのとおりたくさん
「武家官位」というのは、単に武家の官位という意味ではなく、「実際にはその仕事をするわけではないけど、箔付け、ランク付けのためだけに、ナントカ大臣とかナントカの守とかの官位を名乗ること」をいいます。つまり朝廷に仕える公家の「ホンモノの官位」と、朝廷とは関係ないところで生きている武家が名乗ってる「名前だけの官位」がある、ってことです。たとえば真田昌幸は安房守ですけど、実際に安房を支配してはいません。徳川光圀は権中納言ですけど、京都の朝廷で会議に参加するわけではありません。いずれも名前だけ、「おま
く近衛前久、先週久々に出てきて、丹波に隠棲してる、と思ったら。今週はまた消えちゃいましたね。てゆうか光秀もいきなり本願寺攻めに参加してるし。丹波攻略命令はどうなったんだ?ところで。藤原摂関家は、いつかから近衛、鷹司、一条、三条、九条の5つに分裂したようだけど。これは何故なのか?いいえ、分裂した、という言い方は正しくありません。まず、摂政関白は直系では世襲できない、ということを理解してください。平安時代以降の天皇は、子供でも病人でも愚鈍でも務まります。血統のみが重要で、政治をする必要は
【時代劇こぼれ話】麒麟がくる(28)二条晴良前にここでご紹介した、関白近衛前久とライバル関係にあったのが、この二条晴良(小藪千豊さん)であります。藤原家の長者を争う仲であり、また官位や地位でも近衛前久と常にライバルと言えるポジションに居たようです。演じている小藪千豊さんが「麒麟がくる、というので川島と田村が来るのかと思った」と笑わせて居ましたが、実はこのお方の史料もあまり残されておらず、脚本家の想像力であのようなキャラクターにしているようです。実
PHP新書:小和田哲男著:「豊臣秀次」読了。1585年:豊臣秀吉関白、就任。1591年:千利休、切腹。1591年:豊臣秀吉、全国平定。1591年:豊臣秀次、2代目武家関白就任。1592年:文禄の役。1592年:豊臣秀頼、誕生。1595年:豊臣秀次、切腹。1595年:聚楽第取り壊し。豊臣秀次がなぜ切腹させられたか気になったので、読みました。謀反の罪となってるが、どうも冤罪らしいです。1591年、豊臣秀吉の弟:豊臣秀長や息子:鶴松が死去すると、身内はほんと数えるほど