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将軍にしろ関白にしろ、家柄が低ければなれない、というのは、取り敢えず本当です。「その職につける家系」ってのがほぼほぼ決まっている、というのは、この国の基本ルールです。しかし、抜け道は実は、いくらでもあります。「その家の養子になればいい」のです。この国では、養子が取れない(血統が絶体)のは天皇家だけで(なぜなら宗教的な崇拝対象だから)、他の家は、実子がいなければ養子を取って跡を継がせる、というのは普通にあることです。このへん、日本はわりと融通のきく国なんですよ。勘違いしてはいけないのは、「将
京都駅から地下鉄で丸田町下車スグ京都御苑約1キロ先に京都御所ありますが誰一人いません貸切状態です京都御所近衛邸跡(京都御苑内)パノラマで撮影してみましたContinue
歴史秘話ヒストリアを見て、室町幕府15代将軍:足利義昭が信長に敗れ、安芸の鞆の浦に居を構えたとされる。これは毛利輝元の庇護があってと思う。そこから、書状で上杉、武田、本願寺などに信長を倒すよう協力を求めたと合点がいく。では本能寺の変で信長が倒れた後、鞆幕府はどうなったのか??秀吉も足利義昭健在だから、正親町天皇にすり寄って、朝廷に対して金払いも良く、朝廷の位を高めていったのか?公家衆の反発を受けそうだが、近衛家の養子となり、関白職に就任したのも、征夷大将軍を超えるために、源氏の
みなさん、こんにちは。そろそろ半沢ロスも去り・・・今日では、「麒麟が来る」にはまっています。歴史上の有名な人物を演じる俳優サンたち・・・とってもかっこいいですね。特に最近、存在感を出してきているのが・・・関白近衛先久ちなみに、関白とは、成人の天皇を補佐する官職・・・事実上の公家の最高位、敬称は「殿下」。殿下さまですよ。とっても目力があり、存在感が増してきております。この目力・・・凄いですよね。今後、明智光秀十
久しぶりに時代劇本舗再開!!秋には何とかもう少し筆まめにしたいものでございまする(笑)【時代劇こぼれ話】麒麟がくる(25)近衛前久麒麟がくる、が再開され、光秀は、将軍足利義輝(向井理さん)と再会します。しかし、義輝はすでに武家の棟梁としての輝きを失いかけていました。そんな義輝を三好三人衆の軍勢が襲撃。武芸に優れていた義輝は奮戦して多くの兵を倒しますが、最後には囲まれて槍に貫かれ、戦死します。これにより、足利幕府は将軍不在となり、京都はまた
「麒麟がくる」には、ときどきミラクルが起きます。こないだも、京都の東庵先生の家に、突然、伊呂波太夫と駒ちゃんに連れられて、なんか偉そうな人がやってきました。「あれは誰だ」というと、駒ちゃんが「関白ですって、子供の頃に太夫と一緒に遊んだ幼馴染なんだそうですよ」だって。このときの東庵先生は「ふーん」ではなくて「ぎょぎょ!」だと見るべきでしょう。つまり、驚いて声も出ない、という。関白っていえば雲の上の偉い人、生涯会うことは絶対にないはずの人です。それが太夫とか駒ちゃんとかとダチみたいな顔して気楽
摂関政治というのは、藤原氏が摂政、関白の地位を世襲のように独占して政治権力を握った時代(期間)を指す歴史用語です。もちろん、厩戸皇子(聖徳大使)が始めて摂政になった、って話は、全く関係ありません。この期間は、藤原良房が人臣初の摂政になった時点で始まった、と考えるべきでしょう。こう言うと、まだ関白というものが出現していないのに「摂関政治が始まった」てのはヘンだ、って言われそうですが。これは「用語」なんです。鎌倉幕府とか大和朝廷とかと同じく。その当時リアルタイムでは、そんな呼ばれ方はありませ
1585年豊臣秀吉が関白になる一つ、今夜はご馳走でお祝い、豊臣秀吉が関白になる一=1今夜=58ご=5毒殺を恐れ、食料は自ら調達することにこだわる独裁者の娘のクサイーシャさん、でも、知らないうちにあみ姉さんの攻撃を喰らっていたようです。
435年前の今日秀吉が関白に就任したらしいです天皇の権威を用いて政権を握った訳ですがこれは平清盛以来の事なのですそれまでは幕府がいて朝廷、つまり皇室や貴族がいてそれぞれが二重で支配するような構造だったのですそう考えると秀吉は刀狩りなどを実施して革新的な人の様に見えて案外伝統を大事にする人だったのかも知れません今日は広島に原爆が投下された日でもありますが第二次世界大戦については8月15日に触れようと思います
ハムの日っ!!猶子で関白っ!?https://youtu.be/qlz66ak_ADkたまたまツイテルあなたが聴けるラジオ番組ときたまラジオ♬♬8月6日(木)もお届けっ!!豊臣祐聖(トヨトミユウセー)監修出演AkkieRJ氏ガバジャラミタっ!?ーーーーーー#豊臣祐聖(#トヨトミユウセー)の#ときたまラジオっ!!#たまたまツイテル#今日は何の日っ!!#ハムの日「ハ(8)ム(6)」の語呂合せ。日本ハム・ソーセージ工業協同組合が制定。↑日本ハムさ
再掲します(その③)
前回まではこちら⬇️目次世は争乱…我は室町幕府、第9代征夷大将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)である。延徳3年(1491年)1月7日、足利義視(あしかがよしみ)が亡くなった。足利義視息子の義材(よしき)さんが将軍になって、自らは大御所として、これからって時だったのに…義視の子であり、将軍の足利義材(あしかがよしき)はいきなりの父の死に不安を覚えていた。そんな義材に近づくものがいた。義材の側近で公家の葉室光忠(はむろみつただ)である。光忠さんは義視、義材親子が美濃に下向している
関ヶ原の翌年、九条兼孝が関白に任じられれ、その後数年ごとにもとの五摂家が関白を持ち回りにするという旧来のシステムが順調に復活しています。豊臣家が関白を独占する、そのため秀頼成人までは誰も関白を置かない、という秀吉の横車方針は、すでに完全にチャラにされています。もちろん、政権を取った家康による新方針です。豊臣などというどっから出てきたか分からないヤツに公卿の最高位である関白位を簒奪され、公家社会の上位を武家で独占されて憤懣やるかたなかった朝廷公家たちは、ここでようやく鬱憤を晴らし、あるべき姿に
朝からうたコンの再放送。さだまさしさんの関白宣言のフル✨私が小学生の頃から大好きで関白宣言の俺は浮気はしないたぶんしないと思うしないんじゃないかなま、ちょっと覚悟はしておけこれに対してったく男って💢と思ったもんです。この心情は私の成長とともに変わり今では「はいはーい」くらいにライトに受け止められる。実はこの旦那さんは奥さん大好きで浮気しない「と思う」(するかもしれないよぉ?)そして奥さんも旦那さんが好きだから浮気しない「と思う」(そんな度胸ないでしょぉ?)
前回の続きのようなお話です。藤原道長(兼家の四男)は、995(長徳元)年に8歳違いの甥・藤原伊周(兼家の長男道隆の息子)との争いに勝利し、内覧ー天皇に奏上する文書及び天皇が下す文書を事前に内見する任務に就任してその地位を不動のものとしました。因みにこの時伊周は、父道隆の滅後、政権をめぐり叔父・藤原道長と対立さする最中に、何とあろうことか、花山上皇に従者が矢を放ったなどの罪で、太宰権帥に左遷されました(長徳の変)……藤原道長像自滅でございますで道長は内覧に就任後、長女彰子が一条
う関白というのは天皇代行であり、親代わりのようなものですから、必ず天皇の側、つまり京都にいなければなりません。征夷大将軍というのは、遠征軍の長官、という意味です。遠征先ではいちいち天皇や朝廷の命令を待たずに、独断で軍を動かし占領地を統治する全権を与えられています。これが「幕府」と呼ばれる政治機構を作る根拠になります。つまり征夷大将軍というのは京都にいちゃいけないものです(理屈のうえでは)。だから、論理的に、関白と征夷大将軍は兼務できません。てゆうか兼務する意味がない。室町幕府というのは、本
戰後日本の政治体制は、三権分立ということになっている。すなわち、行政、立法、司法が”分立”しているということだ。この”三権分立”は、小中学校の社会科教科書にも書かれ、あたかも常識であるかのような扱いになっているが、よくよく考えてみると、この”三権分立”なるものは、奇妙なものであり、マトモな國家としては、あってはならぬことでもある。國家というものを考える時、まずもって比較参照すべきは、何といっても、二六八〇年年續いてきている、世界一長い永續國家たる、我が日本の歴史をふりかえることだ。なぜかと
自分のダーク秀吉との初遭遇は『黄金の日日』本能寺前と後の変わりっぷりが怖かったあ😱官位で言うと征夷大将軍より関白の方が上。秀吉は征夷大将軍に成れなかったから関白になったというのは違うと思う。前出の復讐心…。侍の頂点になるより侍より上の存在になりたかった。だから最初から関白狙いだったんじゃないかなあ。ちなみに自分も4,5年前まで勘違いしてたけど豊臣は氏、羽柴が苗字。つまり羽柴秀吉から豊臣秀吉に改名したワケではない。秀吉は最後まで羽柴秀吉だし同時に豊臣
源頼信は、藤原北家出身の門閥貴族・藤原道兼に仕えていました。ところが、正暦元年(990)、その道兼を抜いて、兄道隆が関白となると、頼信は、「わが君(道兼)のおんために中関白(道隆)を殺すべし」(『古事談』)と豪語します。わたしが剣を持てば誰も止めることはできないと、自身の武技の高さを誇ったわけです。結局、兄頼光に諫められ、道隆暗殺を諦めることになりましたが、関白殺害も辞さずという頼信の豪胆ぶりは関東にも伝わりました。平忠常の乱が勃発したころ、頼信は
1.この間亭主関白主義者っぽいと言われた。ああ、言われたくないものを言われてしまった。家族や結婚の話は人生最大のトラウマなので。亭主関白になるぐらいなら俺は自殺を選ぶ。嗚呼ヤだ。嫌すぎる。まだ俺がそういう印象を醸しているのかと。どうしたらそういう雰囲気を消せるんだろう。まあ、それを言った人にとっては俺は頭いいし知識多いし自分持ってて物事はっきりいうタイプのイメージだそうで。親父も確かにいわゆるメンスプレイニングする人間で、女(おふくろ)に上からものを語ってるような人間。俺は
今日のおやつ『関白のたい焼』です。頂きました。軽く焼いて食べました。たい焼は皮が薄くてパリッとした方が好みですがここのはふっくらと焼き上げています。しっかりいただきました。ちょっとストレスからかまた血圧が上がってしまい結局また薬💊を飲むことになりました。1年飲んで下がり過ぎていたので1年ほどやめていたのですが何となく最近血圧が上がっている気がして測ったら170/100になってしまったのでまた飲み始めました。もちろん先生の判断です。
オヤジからのお誘いでオカンと3人で久しぶりにコラーゲン摂取に…18:52入店…19時までは晩酌セットがあるんでギリギリセーフこの3点が晩酌セット呉では生エビスは珍しい!豚足と耳のミックス焼き…このビジュアルが堪らん♫追いビールは、エビスの大びん…やっぱり定期的に食べたくなる、中毒的なお店じゃ(*≧m≦)
今までの記事とは趣を変えて、「歴史は推理して楽しむもの」という考え方をもって、今回の記事を作成してみました。そして、アイビーが、前回の清水寺の記事から継続して、「征夷大将軍」について大いに語ります。暴論と批判する方もいると思いますが、大目にみて頂けたら幸いです。いきなり「頼朝」、そして「鎌倉時代」の執権について語ります。次に登場するのは、足利尊氏です。天下人、秀吉についても語ります。秀吉は。「関白」となりましたが、家康は、「征夷大将軍」となりました。続いては、幕末の
御朱印「壽比南山・福如東海関白」豊國神社御朱印の説明関白秀吉公の像参拝時の記事は下記リンクを参照願います。→妙法院門跡から豊国神社☆後白河法皇所縁の東山を歩く前回参拝時の記事は下記リンクを参照願います。→御朱印豊太閤所縁の豊国神社御朱印の比較です。同じ御朱印ですが書き手が異なるようです。ご訪問ありがとうございました。
真面目な政治経済から助平な性事経済まで語る佐渡の暇人のおっさんです。wまあ、キーワード的にNGではあるが・・・切り取った動画の部分のみで、判断は難しい。てか、田原総一朗は、煽り屋で問題提起する起爆剤的存在も否めない訳で…この程度で、一々騒いでいたら、自民党・麻生太郎発言を騒ぐのと同じでは?続きを読む。▼自己紹介(初見さんはお読みください。)佐渡暇人@佐渡暇人放送@sadohimajin『【お知らせ】今後のSNS更新について~2020.02.02現在~』#プロフィール更新#
律令制における役人の官位に、大納言如元関白如元などというのが、たまに出てくるのであるが、ようやくその意味が分かった。如元とは、書き下せば「元の如し」つまり、留任なるほど。
関ヶ原の戦いの直前、石田三成が小早川秀秋に「味方すれば、関白にします」と約束した、という話は本当か、てゆうかそもそも、三成にそんな権限があったんだろうかって、不思議ですよね。石田三成は豊臣家の奉行を罷免された身分であり、関ヶ原の戦いにおいても名目上は総大将ではありませんから、諸大名に対して恩賞を約束する権限があるとは言えないんじゃないか。ましてや関白というのは朝廷の公職であり、三成の胸先三寸でどうこうなるものではないだろうって、誰だって思いますよね。何の自信があって、「オレがお前を関白にして
「貴族っていうのは、白塗りでマロとかおじゃるとか言ってる、あのひとたちのことでしょ?」平安時代までは、だいたい、それでいいです。しかし鎌倉時代あたりから、そうでもなくなります。「貴族」という日本語はいろんな意味で使われますが、定義からすれば「五位以上のもの」のことです。従って、戦国大名や江戸時代の大名もみんな貴族ということになります。こいつらのことは「武家」といいます。いっぽう、公家というのは、京都に住んで天皇に仕えている家のことです。平安時代まで、貴族といえば天皇のまわりに住んでいるの
はい!関白祭りいや~いつも関心する1階と2階を大将が1人で回すの(時々バイトいるけど)2階は結構広いのよお昼も夜も凄いよね豚足とミミのミックスプルンプルンバラ唐揚げにラーメン(生レモン搾るの)に焼き飯あとカキフライも頼んだわ。。。食べ過ぎねそして絶品テール鍋マジでオススメ!!!唐揚げもマジでオススメこちらも入りにくいかもだけど癖になる味です沢山で行くと色んな物が食べれていいかも
ここ東海地方は何度も言うが、正に1/1歴史テーマパークだ。日本の三人の天下人を輩出した愛知県。信長→名古屋秀吉→名古屋家康→岡崎信長については諸説あるようですが愛知県生まれなのは、ほぼ間違いないようです。つまり皆、愛知県出身なのだ。彼ら三英傑が、この地から天下を目指したのだ。当然、信長、秀吉、家康の戦の舞台や居城跡も非常に多い。貴方が東海地方のどこかにお住まいなら日帰りの電車賃かガソリン代で歴史の舞台を訪ねることが出来るのだ。これは本当に恵まれたことだ。