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数日前に様々な悟り体験が紹介されている本を読みまして、それは主に禅の僧侶のものでしたが、多くに共通したのは、一度覚醒体験、最近ではよく一瞥体験とも言われますが、それが起こってもしばらくすると消えてしまったり、指導者にそれはまだ途上と指摘され、次の段階の体験がしばらくして起こるということでした。最初の体験では多くの人が歓喜に打ち震え、「自分は悟った、見性した!」と興奮状態にあることが多く、それがしばらくすると消えてしまったり、あれは一体何だったのか?となるケースが多いです。
悟りは事実がハッキリするんですよ。それまでは何がハッキリするんだろう。ハッキリするってどんな感じ?と思っていても、その時はご自身でハッキリしたと言えるものです。何度も言いますが、事実がハッキリするのです。よくエネルギー的なこととも聞きますが、エネルギーが見える人はいませんよね。すなわち考えですから、事実とは全く関係ありません。私もその言葉を聞いて、そうなんだと信じていた時がありますので、ご注意下さいね。何かが見える人?みたいな特別な人?が言うからそうなのかと思
修業って大変ですね。とても、耐えられないと思います。1日1話、読めば心が熱くなる365人の生き方の教科書Amazon(アマゾン)1,954〜7,754円
日々、生活の中で、観想的時間、観照的時間を取り、真理(イデア)を洞察見性してゆくことは極めて大切である。これこそが、哲学をすることの核心なのである。様々に流転してゆく現象の内にあって、流転し変化しない永遠普遍の真理(法則)、すなわち、法を認識してゆく者こそ、哲学者である。そのためには、常に哲学書を観じ、心を鎮め、精神の内奥から湧き上がってくる所の真理を、自分自身の真理として書き留めてゆくことが必要である。あくまでも、読書が中心にあるのではなく、読書を契機とした「思索」が中心にある生
1日の終わりに哲学でアートを深めるひと時。令和哲学者Noh先生とチームで開催。今週はReal.UB(リアユー)さんと愉快なアーティスト仲間達で進行する令和哲学カフェ。尊厳アーティスト誕生!!~死ぬほど燃えよ、焦がれよ、人類よ!~3日日。昨日は慧能(えのう)との出会いを深めました。今の禅は慧能のお弟子さんからほとんど始まったとういほど影響力があり、中国では知らない人がいないくらい有名人のようです。父の盧行瑫が嶺南の新州(広東省雲浮市新興県)に流されたので、その地で
===量子論で解く無門関48則===無門関第46則:竿頭進歩本則:===石霜(せきそう)和尚云く、「百尺竿頭、如何が歩を進めん」又古徳云く、「百尺竿頭に坐する底(てい)の人、得入(とくにゅう)すと雖然(いえど)も未だ真と為さず。百尺竿頭、須(すべか)らく歩を進めて十方世界に全身を現すべし。」評唱:===歩を進め得、身を翻(ひるがえ)し得ば、更に何れの処を嫌って尊(そん)と称せざる。是の如くなりと雖然(いえど)も、且く道え、百尺竿頭、如何が歩を進めん。嗄
「悟り」とかいうと、凡人では到達できない特殊な境地、それに伴う神秘的な体験、こことは違うどこかへの到達、そういったイメージがあると思います。ぜんぜん、そういう特別なものではないと思います。秀峰が、「私は悟りを得た訳ではない」と語るのは、上記のような「特別なこと」が、自身に起こった訳ではないからです。ただし、探求中と今では、なにか違う感触になったのは事実です。その前と後の、わかりやすい具体的な違いは何かというと、主に次の2点です。①悟りや目覚めというものを、欲しがらなくなった。必要性を感
こんにちは。GOLDENKIDです。前回は、電子の電離と再結合が、自由電子の立場、すなわち今のわたしたち(自己)の立場から見ると、それぞれ電離は「生(誕生)」、再結合は「死」を意味するという話をしました。つまり電子は、自由電子の立場から見た「生と死を繰り返す」ことで、寿命がほぼ永遠と考えることができるのですね。それでは今回は、自由電子から見た「死」の世界、すなわち再結合について見ていきたいと思います。言い換えると、生きながら死の世界に足を踏み入れることでもあります。前
真実、悟り、禅修行とは(1):道元禅師『学道用心集』『普勧坐禅儀』、黄檗希運禅師『伝心法要』提唱録Amazon(アマゾン)1,080円井上義衍老師からの法灯の流れが一番シンプルで優秀かもしれません。井上哲玄老師、井上貫道老師しかり、松本自證老師も含めて。色々探究してきたけど、「我」が出ないように、出ても取り合わないようにちゃんと工夫されている。無我無心という「事実」に徹底している。これは、探求、探究初期じゃわからなかったな。今でもまだ頭が??となることがあるけど、モグラ叩きのよ
げんにーび:正法眼蔵「現成公案」提唱録Amazon(アマゾン)1,080円「人間万事塞翁が馬」という有名な話がありますが、物事の良し悪しはその時の勝手な解釈であります。だからと言って、法律や道徳的に悪いことをしても構わないわけではないですけどね。
急に気温が下がり寒い夜ですね~みなさま、お風邪などひかないように温かくされてくださいね朝にこちらのブログを書かせていただきました「ありがとう」を沢山いうと?|魂の輝きを思い出そう~♪(ameblo.jp)こちらを読まれた方で、実践された方はいるでしょうか実践されて、「ありがとう」のことが起きたでしょうか良い話、良いセミナー、開運する方法など聞いた後、何が大事か?というと、自分でしてみること
仏教で、禅宗の特色に、「不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏」という言葉がある。今日はこの中で「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」を取り上げたい。性(さが)を見て、仏と成る(悟りを開く)、ということだ。性(さが)とは何かというと、仏性(仏である性質)のことだ。見性とは、自分がそもそも仏であったことを見抜くことであり、そしてそのことが、成仏(悟りを開くこと)でもある。つまり、自分はもともと悟りを開いている存在であることを見抜くのが、悟りである。面白いね。一周回って同じところに来る、
人生の本質を、自己の実人生から汲み出し、これを普遍的真理として昇華して、作品とすることが、哲学者の仕事である。悲劇がこれだけ一大芸術作品として昇華されることを考えてみても、人生の悲しみや苦しみであっても、それを昇華する道はあるといえるし、その中にも、哲学的真実が深くあるともいえる。吾々は実人生を生きているのであるが、哲学的に善く生きており、哲学的瞑想の中に、深い高い幸福感を抱きながら生きているともいえるのである。ショーペンハウアー哲学を深く洞察して味わう時に、静かな鋭い崇高な幸福感
こんばんは。明後日から、大型連休に突入する方も多いと思います。ところがドッコイ、あっちもこっちも閉まってる。あれもダメ、これもダメ、ダメ、ダメ、ダメ。もうここまで来ると、本気で笑うしかない。元々我が家は、GWは毎年恒例、ベランダ菜園で、夏野菜を植えるというミッションがあるため、遠出することも全くないのでストレスも無いですけど、ダイソーとか図書館まで閉まってるとなにげに不便ですね。わたしも学校が明後日
新しく、とりました!^^----------------------最後に、乃木坂46の君の名は希望の話をしてますもう少し、ブログには書いときます「こんなに、誰かを恋しくなる自分がいたなんて、想像も出来なかったこと。」もちろん、これは恋の歌にかぶせてあると思いますが、当時の自分には、全然、違う風に聞こえましたそれは、他人を認識できていなかったもっというと、あまりの合一ゆえに私---他人との境目がなくなっていてどこか、自分の一部に思える状態身体が
────────────────────────【無料公開中】「人生・仕事・人間関係に奇跡を生むハート(魂)のコミュニケーション7日間メール講座」こちらからご覧ください【無料公開中】あなたの天才性を目覚めさせる5日間メールレッスンこちらからご覧ください────────────────────────これまでのあらすじバーで不思議な紳士と出会ったことをきっかけに、男に本当の自分へと目覚める旅がはじまった。禅の老師もとで修業をはじめ、とめどない【思考】の
NYで私が3年間程通わせていただいたお寺は臨済禅宗のお寺で臨済禅宗は老子と呼ばれるお寺の師匠の様な方に座禅修行の中で公安という難解な問答を授かり座禅を組んで無の境地に近づける様努力しながらその問答の意味も紐解いていくなかで悟りの境地に近づいていくとかかなりざっくりだけど私のような素人からみるとそういう印象勿論これはたかだか短い間通った私レベルの話ではないものすごく長く通ってる方やお坊さまとして長く禅に取り組んでいる方でもおそらくこの悟りの境地まで行かれる方は少ないのではな
「イデアの発見からあらゆる創造行為が生まれることについて」(4)~日本のイデアを見性せよ~見性されたものから見性されたものへと伝わるのが美意識である。見性された美は、必ずや歴史に新しい刻印を与えてゆく。直接表象された美とは、必ず言葉にも哲学にも表現出来るものである。表現されたものが明確な精神像として遺ってゆくのである。思想的にも適確に表現されたものは、翻訳されて、世界言語となって、世界に登場してゆく。すべては、イデアを徹見すること、それに尽きている。美しいも
「イデアの発見からあらゆる創造行為が生まれることについて」(3)~日本のイデアを見性せよ~真に美しいものは、的確な言霊を待っているのである。直接イデアを表象する言霊を待っているのである。イデアを表現することが、創造行為の源である。イデアを発見、見性することが、あらゆる創造行為の出発点であり、終局点である。イデアが表現される限りにおいて、永久に朽ちることのない美というものが表現されることになるのである。真に歴史の風景に耐える美こそが求められているのである。真に見性、発見され
欧米では禅に「二人の鈴木」がいるといわれています一人は鈴木大拙、もう一人は鈴木俊隆です鈴木大拙は、臨済宗円覚寺の住職をしながら20世紀初頭、禅を欧米に紹介しました1960年代以降のカウンター・カルチャーの只中で、鈴木俊隆により多くの若者たちに影響を与えながら実践的な坐禅を紹介しました「禅マインドビギナーズ・マインド」(題)鈴木俊隆著松永太郎訳(サンガ新書)本の序文で、マサチューセッツ工科大学のヒューストン・スミス教授は次のように述べています「鈴木大拙の禅は劇的である
よくね、精神世界の探求においては、悟りや目覚めに至るには、知識の蓄積だけではダメだとか、知的に理解できるものではない、とか、思考を排除しなきゃダメだとか、情報ばかりを集めてもしょうがない、なんて言われますよね。これ、ぜんぶウソです。「至る」ものではない、という話も加味した上です。知識や思考や情報や知的な理解も、それなりに大切です。だいたい、それらがなければ、ティーチャーさん達だって、営業が成り立たなくなります。ただじっと佇んでいるだけでは、クライントやイベントは、やって来ませんから。悟
こんにちは名古屋では今日、桜の開花宣言が発表されました!みなさんの所はどうでしょうか?この冬は暖冬でしたのでもっと早く咲くかも?でしたが、「寒さ」があってこそ「暖かさ」を桜が感知して蕾が目覚めて開花するそうですね。寒いのは苦手なのですが全体から見れば必ず必要なことしか起こっていないということがこんなことからも教えてくれています。起きる出来事はただ起こっているだけであってそこに良いも悪いもありません。「寒さ」を例にとれば
経歴や権威はとても大事ですね。日本雑談療法士会長0000001号心屋非認定カウンセラー無資格カウンセリング協会会長兼任溝口あゆか、クリシュナムルティ、仏教の法理などからヒントをえ、心を感得。3ヶ所の精神病院での武者修行をへて、うつ、摂食障害、依存症などの独自の療法の開発に成功する。(入院だけど)48歳の今から資格や何とか塾やなんちゃら上級ワークショップとか、時間ないし、金もないし、やっとったら死んじゃうからと宇宙からメッセージ受け、見性し、今、ここ
こんばんはエミエルです。先週木曜日は2ヶ月ぶりの「坐禅セミナー」でした。久しぶりに坐禅の脚の組み方をすると痛くて運動不足を痛感しました。それでもただ坐ってるだけで喜びが内から溢れてきて不思議なことに無意識にひたすら祈っている自分がいます。今回は龍神坐(ほどきの坐り)の中から動禅を習いました。動きの中で不動の中心を保持できるようになる学習です。ちょっと難しいですが動きながらもまったく動かない中心変わらないものが見えてくるというものです。これを「見性」といいます。自己に本来備わっ
こんにちは。GOLDENKIDです。今日は、感情の不調和から離れることで見えるものをお届けします。七聖座の教えの一つに「感情の不調和から離れる」というものがあります。七聖座とはチャクラのことで、この教えは上から5つ目の鳩尾のチャクラに該当します。簡単に言いますと、鳩尾のチャクラは「感情」と関係していて、感情の様々な不調和から離れることでこの聖座が本来の機能を発揮するようになるということです。なお、
「第十講人生と国政」黙って聞いておった正受和尚は、白隠の言葉が終ったとたんに「ばかっ!」と大喝をあびせて、「そんなものは学得底ーお前が読んだり聞いたりして覚えたことで、単なる物知りにすぎんではないか。何がお前の見性ー本当につかんでおることか」と詰問された。(4343'23)
片手にふれるだけ3分で1個心のブロック解除マインドブロックバスター直伝インストラクター江口智子です。90分で216個解除!お金と人間関係のブロック解除スペシャルセッションこちらPayPalクレジット払い個人セッションも可能になりました。マスターゲート師匠の101キャンドルライトの悟りのツアーで12月1日から12月4日まで軽井沢に来ていました。【軽井沢ショッピング】ブランドやアウトレットモールに食料品などのお店なども皆んなで見て周りました〜続く小径もクリスマスムードで楽しい思い出に
静まっている存在が静まりの中であらゆる命として遍在しているときその遍在の和音は、意識になんらかの神秘をもたらし、その促進は道〈タオ〉にたいする繋がりと恩寵の中でそれを目撃する個生命に命の響きあいを目撃させるのかもしれない。知的な存在としての証拠は、その者を、その者が作り上げた形に深く止まらせるが神秘は、まるでそれの外に広がっているかのようだ。神秘が知的な翻訳により誰もの意識に理解できるモノゴトとして提供されたとして
僕の場合、治った時、はっきり治ったと認識できた。純な心で、まっさらな心で、今、この場面を見てゆけば、楽しく過ごしていけるなと、体感した。見性とか、悟りの感じ。自分は心でどうこうしなくていいんだ。感動的だった。頭がクリアになって、上手く使いこなせる感じ。森田療法の宇佐先生もインスタントに即席に治ると言っていた。インターネットも、今の精神科医療も鵜呑みしたらあかん。Kyupin先生も皆、精神科医を信じ過ぎと自分自身で言っている。死とか、将来、あんまり、心配しなくていいよ。
これは、私が、その前年(1957年)に、見性を許されて間もなくのことであったので、山田耕雲老師の「人間は死なない!」の一言に、まさに脳天を打ち砕かれる思いがしたのを、今日でもありありと思い浮かべることができる。この衝撃は、1975年(私が43歳の時)、前述のロンドンの地下鉄の轟音で自己を忘じた体験により、生死する自分が無い世界があることを知って解決されたと思うことができた。しかし、耕雲老師のように「人間は死なない!」と断言できるかというと、やはり一抹の不安があると言わざるを得なかっ